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『ああ、でも気を付けてくださいね。機を見て盗聴器が仕掛けられることもあるかもしれません。特に、家や油断している時に触れてきたときは――』

 沖矢の言葉が、嫌な濁りになって私の心の底に溜まった。そりゃあ、そうだけれど。私だって、何度かそれを疑ったこともあった。けれど、一度もそんな物が仕掛けられたことはなかったし。――本当に? 自問するが、その答えは明確じゃない。だって、私よりずっとずっと、安室のほうが頭も良く、気配にも鋭い。

 でも、例えそうだとして、沖矢と会うとき以外はさして問題ない日々を送っていると思うのだ。沖矢とだって、今日こそそういった話をしたけれど、いつもは他愛ない会話しかしていない。
 ――そうだよ、別に、盗聴器とかがあったって関係ないじゃん。
 私は自分の中でそう答えをつけると、布団の中に頭を潜り込ませた。お風呂は明日の朝にして、早く寝てしまおう。着替えも、また明日で良いか――。そう必死に思っていたのに、ガラにもなく色々と考え込んでしまって、意識が沈みきったのはそれから二時間ほど後のことだった。





 ハロが元気よく鳴く声で目が覚めた。しまった、ちょっと寝過ごしたかも。お腹が空いたのだろうか、枕元にあった眼鏡を手探りで見つけて、まだ覚醒していない意識のまま瞼を持ち上げた。
「待ってえ〜……ちょっと、今起きるから……」
 すんすんと頬に寄せられた塗れた鼻先に、私はウンウンと何度も緩く頷いた。しかし一向に鳴き声が止まないので、もぞもぞと目頭を押さえながら上体を起こす。大きく欠伸を零して伸びをしていると、リビングのほうから奏でられるメロディーに気が付いた。――インターフォンの音だ。

 私はハっとして、しかし安室に前言われたばかりだからと念のため部屋の中の画面で確認をした。珍しく黒いモックネックを着た安室が、手にスーパーの袋を持っている姿が見える。
 慌てて髪の毛を適当に梳いて、顔を洗って、うがいをして――。数分経ってから、玄関を開けた。私の姿を見て一目で寝起きだと察したのか、安室は苦く笑った。
「アハ……おかえりなさい」
「朝ご飯は食べました?」
「まだ……。ごめん、昨日寝るの遅くて」
 つい、と零すと、安室は呆れたようにフっと笑う。ちょうど良かった、なんて笑った穏やかな声に、ホっと安堵した。どうやら手に持った袋の中身は、朝食の材料のようだった。

「今日はフレンチトーストです」
「マジ! やったー!! 安室さん大好き!」

 寝起きのことも忘れて、キャアと手を叩く。ご機嫌に安室をキッチンへと招いた。彼があれこれと調理器具を出している間に、ハロのごはんを済ませる。いつもより遅くなってごめんねと頭を撫でたら、明るい声が帰ってきた。ハロもまた、安室が帰ってきて嬉しいのだろう。

 安室が帰ってきたら見せたいと思っていた手紙を部屋から持ってきて待っていると、たっぷりとしたバニラエッセンスの香りが食欲をツンツンと刺激した。色々なご飯も大好きだけれど、やっぱり甘いものは別格だ。
 機嫌よく洗濯物を適当に畳んで時間をつぶすことにする。下着や靴下は、出しっぱなしだとさすがに恥ずかしいから。自然と鼻歌が奏でられるくらいには、機嫌が良かった。フンフンと口ずさむ歌は、安室には馴染みがないものなのだろう。不思議そうに私のほうを見つめている。

「これはね〜、超踊りが可愛いの。こう、アイシーザッタラアイシ〜って」
「……I see that、なんですって?」
「ごめん、よく分かってないや」
 歌は殆ど聴いた音で覚えているから、特に英語なんて。苦笑いしたら、安室はサラっと「そういうことを、辞書とか引くと良いんですよ」と、菜箸でトーストをひっくり返しながら言った。確かに、そうか。そう思えば、勉強って案外楽しかったりするのかも。

 普段は仕舞わない洗濯物をクローゼットにきちんと整理していたら、安室が私を呼んだ。どうやらご馳走が出来上がったようだった。
「わー、超美味しそう。いただきます!」
 ぱちんと勢いよく合掌をし、ナイフトフォークを手に取った。安室の手前にも同じ皿が置かれているが、彼は暫く私を眺めて、僅かに微笑んだ。その後ようやく、彼も手を合わせて「いただきます」と小さく呟く。

 ぱくりと口に運ぶと、まったりとした濃厚な甘味が口に広がっていく。噛めば噛むほど、トーストの中からじゅわじゅわとミルクが染み出てきた。ああ、美味しい。絶品だ。
「すごい。フレンチトーストって、こんな簡単に味が染みるんだ」
「トーストにフォークで穴を開けた後たっぷりと液につけて、軽く電子レンジで温めるんです。一日漬け込んだみたいにしっとりしますよ」
「は〜、カフェオレも美味しい……。幸せ……」
 頬を押さえながらフレンチトーストのように幸せに浸っていると、安室がそうだと席を立った。何かあるのかと、フォークを咥えながら背中を見守ると、彼は冷凍庫からボックスを取り出した。私の皿の上に、スプーンで掬った、まだ固いバニラアイスを乗せる。

「……神?」
「はは、無性に甘いものが食べたくて。好きなら良かった」
「嫌いな人とかいるの……。あー、もう……ずっとこうしていたい……」

 アイスとフレンチトーストの温度差を舌の中で混ぜ合わせながら、うっとりと呟く。安室も同じようにアイスを乗せて、一口大にトーストを切ると口に運ぶ。そのサイズを見て、案外一口が大きいのだなあと思った。
「見て、これ。新出先生に書いてみたんだ」
「どうして最初が先生?」
「字が下手でも一番恥ずかしくないから」
 どういう字でも、多分ニコニコしながら「上手ですね」と褒めてくれそうだし。躊躇いもなく答えると、安室がクックと可笑しそうに笑ってくれた。久しぶりの笑顔だ。フレンチトーストも輝いているけれど、安室のその笑顔もよっぽど眩しい。

 便せんを見ながら、「とてもこんな寝ぐせの子が書いたとは思えないな」なんて、私の後ろに立っていたらしい寝ぐせを軽く撫でつける。嘘、と首元を庇うように髪を押さえた。恥ずかしい。


 ――その指先に、何か固いものが当たったのが分かる。


 私は一瞬、指先を固まらせた。強張りそうになる頬を必死に堪えて、フレンチトーストを完食した。それから皿を片付け始めた安室を見送ると、トイレの中に逃げ込む。
 まさかね、違うでしょ――。ドキドキと嫌な予感がずっと胸の内を巡っている。違う。大丈夫、もしそうだとしても、大丈夫だから。心の中でひたすらにそう言い聞かせて、服を脱いでみた。
 ちょうど先ほど、彼が触れた襟首あたり――。ごくっと喉を鳴らしながら捲ると、大体一円玉より一回り小さいほどの大きさだろうか。触れた感じは、やはり無機質らしさがある。しかし、もしその音を、今も安室が聞いているのだとしたら。
 それを取る勇気は出なかった。気づいてしまったら、彼がもう優しくしてくれないのではと、自信がなくなってしまった。そうっと服を気直して、私はトイレにしゃがみ込み静かに深呼吸をする。動悸を落ち着けたかった。

 沖矢の声が、呪いみたいに頭の中に巡り続ける。ハロが嬉しそうに鳴く声と、安室がそれに対して穏やかに笑う声が、トイレの扉越しに聞こえた。そうは、見えない。見えないけど――彼にはできるのだろうか。まるで普通の日常を過ごすように。
 じわっと視界が揺れる。ぐしぐしと裾でそれを拭って、私は沖矢の家を訪ねようと決めた。彼ならきっと相談に乗ってくれるはずだと、僅かに安室への後ろめたさを感じながら。



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