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翌日、私は昨日着ていた服を丁寧に畳み袋に入れ、更に一重通して家から持ち出した。盗聴器なるものがどこまで音を拾うのか、どうするのが正解かは分からないけれど、少なくともこれが盗聴器かどうかはハッキリさせておきたかった。
 学校帰りに工藤邸を訪ねると、沖矢が意外そうに門を開けた。あの日以来、帰り道に会うことはあっても、私から訪ねたことはなかったからだろう。私はスクールバックからノートを取り出して、昨夜の経歴を書き連ねた。目を通した後、沖矢はニコリと笑って私を家の奥へと上げてくれる。

「どうぞ、前好きだと言っていたからミルクは多めにしてあります」

 私はキョトンと目を丸くして沈黙してしまった、しかしすぐに沖矢が顎をしゃくるように指図して、慌てて棒読みのまま「ワーイ」と笑う。多分、前から知り合いだという演技をちゃんとしろ、ということだ。
 ――っていっても、難しいよ〜……。
 嘘をつくのが苦手、というわけじゃないが、頭を使うのは苦手だ。それだけはハッキリと自覚している。
「ああ、すみません。掛かってしまいましたね。すぐに洗濯を」
 何も手元には掛かっていないが、首を傾げていたら沖矢が手を差し出した。その先には、私が持ってきた袋がある。私は頷くと、それを沖矢に差し出す。彼はそれをそのまま洗濯機の中に放り込み、スイッチを入れた。
 ああ、私のオーバーサイズジャケット(税込み四千三百七十八円)――。ごうんごうんと回っていくジャケットに別れを告げて、暫くしてから沖矢はビショビショになった袋を取り出しビリビリと破り開けた。

襟元についているボタンのような機械がしっかり壊れていることを確認してから、今度は私の体に指を滑らせる。指先が、小さく震えた。それを誤魔化すようにぎゅうと拳を握り、襟や袖口へと滑っていく太い指を見つめた。

「……何をそんなに怖がっている?」

 ――きっとそういった機械の類は見つけられなかったのだろう。背中に滑らせた指を退かして、沖矢は――否、赤井が腰を上げた。その口調を聞くのはいつぶりだっただろうか。
「あ、怖いっていうか……」
「ホラ、貸してやる」
 ハンガーに掛かった沖矢昴のジャケットから上品そうなハンカチを取り出すと、彼は私のほうへと放った。もしかして、と首に触れると、やっぱり以前のように汗が吹き出ていた。あとで洗濯して返そう、私は額や首回りをハンカチで拭い、大きく息をついてソファに倒れ込む。

「……安室さんって、どんな人?」
「それは俺より、よっぽど君のが知ってるんじゃないのか」
「分かんないよ。漫画で読んだだけだもん……」

 そりゃあ、情報としては彼のことを知っている。これから話がどう動くかも、多少なりと分かっている。けれど、その感情や思考を読めるわけじゃない。私のことをどう思っていて、どうするつもりなのか。それは漫画にはない知識だった。

「君は知ってるかもしれないが、彼には一人の顔馴染みがいてな」

 マッチを擦って灯った小さな炎を、彼は口に咥えた煙草の先に移した。暫くすると、煙草からゆっくりと煙が立ち始める。
「どちらも優秀な男たちだった。あれほど気を張って潜入したことはないよ」
「そんなに?」
「ああ。その頭脳もそうだが、何より心持ちが恐ろしかった。俺には理解できないほどに」
 私は「心持ち」と繰り返した。いまいちしっくりこずに呟いた言葉を拾い上げて、赤井が煙と共に言い直した。

「信念、とでも言った方が良いのかな」

 ふわっと吐き出された煙が宙を舞う。ふと、彼がメインキャラクターとなっている映画を思い出す。日本のために、毛利小五郎を犯人として仕立て上げた男の姿。優しさとは少し違う、彼の背筋のように真っすぐと伸びた想い。
 
「彼らにとって、自分の命さえ掲げる旗への礎なのさ」
「……そう、かな」
「俺にはとんと理解できんがな」

 じゃあ、私の前であれだけ大笑いした安室は。
 頭を撫ぜてくれた彼は、身を案じて眉を顰める彼は、髪を乱して駆けつけてくれた彼は、満月のように輝かしく私を救うあの彼は――すべて、礎としての嘘だと言うのか。本当に――全部、全部?


「――……違うと思う」


 私がぽつりとぼやくと、赤井は緩慢に視線だけをこちらに寄越した。どうしてか、その鋭い視線に見つめられると、胸の奥がむずむずとざわめく。目つき悪いんだよ、この人。

「安室さんは、確かに優先順位をしっかりとつけているけれど、それ以外の全てがどうでもいいわけじゃないって思う……。多分、これからも私のことを大事にしてくれるって、なんか分かんないけどそんな感じがする」
「そんな男が、君にこれをつけたと?」

 赤井が、煙草を持った手を壊れた盗聴器へ向けた。確かに、それはショックかもしれないけれど。でも、別に良い。それは昨夜出した結論の通りで、私にとってはさしたる問題ではなかった。

「だって、疑ってるのはしょうがないし。実際怪しいし……変な行動しないか気になることもあるだろうから。それより、私は何も気にしないって、下を向くなって、受け入れてくれた安室さんのことが好き」

 言葉にすると、妙に心にしっくりと馴染んだ。――そうか、私は自分で考えていたよりも、ずっと彼のことが大切なのだ。イケメンだとか、世話をしてくれるだとか、そういうことを除いても、彼のその心が好きなのだ。

「……うん。ごめん赤井さん、私帰るね!」
「まあ、君がそう言うなら止めんよ。約束だけは破るなよ」
「モチ! ありがとー、今度煙草買ってきてあげる!」

 背中から「買えないだろ……」と声が届いた気がするが、気にしない。安室はもう仕事に出掛けているだろうか。この想いを、直接伝えたい。貴方が大切だと、何があっても信じていると。

 一方的な感情だって良い。あのキラキラとした笑顔が嘘でないと信じているから、少しでもあの笑顔を増やせるような、そんな存在でいよう。
 私はシンプルな便せんを取り出すと、買ったばかりのボールペンの先を滑らせた。少しだけ青みがかったインクは、彼の瞳によく似合う。

 私を拾ってくれたこと、料理を教えてくれたこと、守ってくれたこと、ハロの温もりをくれたこと、学校へ通わせてくれていること。おかげで、彩られた世界で過ごせていることを、感謝していると綴った。
 これからも、そんな貴方のことが大切だから、ずっと信じているとも書いた。いつか、私のことを全て話せる日が来ますように。

 そんな感情を便せんの上に躍らせて、封を閉じる。今までで一番綺麗に綴られた文字たちに、安室はどんな感情を見せてくれるだろうか。マシになったと褒めてくれるか、先に勉強しなさいと呆れながら笑うか。どちらにしても、私の心は少し暖かくなるような気がした。

「うん。信じてもらえてないなら、これから信じてもらえば良いだけだし」

 信じていないからといって、これまでの感情が嘘になることはないのだから。今まで通り、彼と一緒に過ごせば良い。自分で結論付けて、うんうんと一人頷いた。大体、私も隠しごとをしているのだから、お互い様だ。
 彼のすべてを聞くのは――私のすべてを話す時にしよう。その時の安室が、例えもう安室透ではなくたって、私は彼を嫌いにはならないだろう。はやく、あの綺麗なブロンドを眺めたい。くるくるとボールペンを指の上で回して、私は小さく微笑んだ。眠りの浅かったここ数日の疲れを取るように、その日は深く眠りに落ちた。 


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Shhh...