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「え、またお仕事?」

 歯磨きをしながら、私はキッチンでコーヒーを淹れている安室のほうへ顔を覗かせた。彼は視線をカップに注いだまま、「ええ」と相槌を打つ。この間帰ってきたばかりだというのに、忙しいんだなあとウガイをしてリビングへ引き返すと、テーブルには湯気を立てたカップが二つ並んでいた。

「休暇中はバイトも少ないと思いますが、なるべく気を付けて」
「うん。大丈夫、何かあったらオ……新出先生に言うよ」

 ――沖矢、という言葉を発す寸前に思いとどまり、息を呑んだ。いや、この場合は沖矢でも良かったのかもしれないけれど、なんとなく安室の目の前で沖矢という単語を出すのはタブーな気がした。
 そういえば、最近沖矢も見掛けない。単に私がバイトの日数が少ないのもあるが、私のほうから訪ねて今日まで、一度も会っていないのだ。ミルクがたっぷり入ったコーヒーは、相変わらずまろやかで美味しい。このコーヒーともまた暫くお別れか、としみじみ考えた。

 感慨深くカップに手を沿わせて温めていたら、安室の視線を感じた。目の前に座った男が、アイスグレーの瞳を揺らしてジィとこちらを見つめている。すごい、薄い色の虹彩って、目の前で見ると本当に人形の瞳みたいだ。瞬くと、パチンと音がしそうな長い睫毛も、案外艶やかではない肌も、まじまじと見ると少し照れくさかった。

「ねー、めっちゃハズいんだけど……」
「――……いや、なんでもないよ。最近少し元気が出た?」
「うわ! 気づかれてた」
「前までやけにショボくれていたから。それなら何よりです」

 フ、とその口元が柔らかく微笑んだ。さらさらとしたブロンドが揺れて、大きな瞳が細められる。このままアルバムの中に閉じ込めたいくらいに綺麗な笑顔をしていて、それが嬉しくて私も笑った。


『続いてのニュースです。今年のマカデミー最優秀脚本賞に、工藤優作氏の緋色の捜査官がノミネートされ――……』


 嬉しそうなニュースキャスターの声が、テレビから響いた。
 私は飲んでいたコーヒーを咽返して、そちらを振り返る。画面に映っているのは紛れもなく工藤優作本人で、その後は緋色の捜査官がどのような作品なのか解説が始まった。聞き覚えがあるタイトルは、そう、確か例の作品の中で聞いたものだった。
 安室が私が驚いた様子を意外そうにしながら、画面を見てああと納得したように頷く。
「工藤優作ですか。そういえば、脚本を手がけたのはこれが初めてだとか」
「へ、へぇ〜そうなんだ……」
 たぶん、間違いない。話の流れに絶対的な自信があるわけじゃあないけれど、この辺りの話は何度か見返したから合っていると思う。そうか、だから沖矢が姿を見せなかったのか。じゃあ、安室の仕事と言うのは、もしかして――。
 
 ちらりと安室のほうを見上げてみたけれど、彼は変わらずに穏やかそうな表情を浮かべていて、その心を読み取ることはできなかった。鼻歌まで口ずさんで見せる、柔らかな表情は、本当に偽りなのだろうか。

 だけれど、私の知っている時系列が確かならば――。彼は、親友の仇をついに突き止めようとしている最中のはずだ。




「安室さん? ああ、確かストーカー被害の相談を受けたとかで暫く休むって」

 ――数日前に尋ねたとき、梓はそう言っていた。
 その言葉を聞いて、八割の確信が十割に満ちた。間違いなく、その時には緋色の序章≠ェ始まっていた。ため息をついた。まあ、それを知っているからといって、どうするわけでもないのだけど。

 私にできることと言えば、沖矢の言う通りに、赤井秀一について知らないフリをすることだけだ。そうでなければ、コナンと沖矢が力を合わせて安室を巻いた意味がなくなってしまうのだから。

 分かっている。考えても意味がないって、そんなこと。
 けれど、今まさにどこかで、原作で読んだあのシーンが繰り広げられていると思うと、手に取ったテキストの内容が頭に入ってこなかった。何せ、センター試験は一月の半ば。今から一か月しか時間がないのだから、私は私で必死なのである。
 
「……あー、駄目だ。もう全然集中できない」

 必死に過去問題に目を滑らせるけれど、滑らせた文字はツルツルと流れて行ってしまって、一向に理解できない。ぐぐっと伸びをしてつけたテレビでは、相変わらずマカデミー賞の発表が生中継で行われていた。

『さあ、続いてマカデミー最優秀賞脚本賞です』

 マカデミー賞の発表は今夜。ということは、安室が工藤邸を訪ねているのは今この時。テレビの中に映る工藤優作は、ドラムロールのなか気障っぽく笑った。とてもじゃないがあれが女だとは思えない。間近で見ている人たちさえ気づかないのだから、カメラを挟めば尚更だ。そわそわとして、やっぱり見ていられなくて、私はもう一度テレビを消した。先ほどからこの動きを数回繰り返している。

「……ハロ〜」

 うとうととした小さな体を抱き寄せる。ハロも眠たいようで、いつもなら構った分だけ嬉しそうに応えてくれるのだけれど、今日は軽く鼻を鳴らして尾っぽを一振りしただけだった。私も早く寝てしまおうかなあ。もふもふとした温もりを抱え、ベッドに向かった。顔を埋めて、そっと瞼を閉じる。

 安室が、私に警戒の色を向けなくなったのはいつからだっただろう。
 最初会ったときは、もっと表立ってピリっとした空気を纏っていた気がする。わざとらしくこちらのことを探ろうとしてきたし、笑顔もやたらとニコニコと胡散臭かった。どうして、あんなに穏やかな笑みを浮かべるようになったんだろうか。
「安室さんのこと、なーんも知らないもんなあ……」
 そもそも、安室透というキャラクター自体、私の見ていた漫画の中ではまだ深掘りされる道程のキャラクターだ。彼の過去であったり生まれであったり、これからの行動であったり、まだ未知な部分が多い。まだ赤井秀一のほうが、素性が割れている部分も多いくらいだ。

 ハロの穏やかな寝息と共に、私も意識が沈みつつあった。体温が温かかったし、考え事をしていたら自然と意識が遠くなっていた。

 そんな意識が取り戻されたのは、ハロの鼓動がぴくっと変動したからだ。私の手元から、むくりとその体が抜ける。「ハロ?」と欠伸をしながら体を起こそうとした時、勢いの良い騒音が部屋中に響いた。

 ガァン、と何かがぶつかるような音だ。恐らくその前触れに、ハロは気が付いたのだろう。一瞬、また誰かが押し入ってきたんじゃと思ったけれど、その騒音の後に続くように壁の向こうからドタドタと足音が聞こえた。

「安室さん、帰ってきたんだ」

 くうん、とハロの鼻が鳴った。そうか、だからハロが反応したのか。珍しいと思った。普段は隣室なことを忘れるくらい、隣の部屋から聞こえる音は少ない。精々水回りの音が時たま聞こえるくらいで、生活音なんて殆ど皆無だ。
 私が寝こけていたベッドのすぐ傍ら、たぶん私も入ったことのない、彼の寝室。がんっと、もう一度。今度はすぐ隣から、固いものが壁に当たるような音だった。もう一度、もう一度――。がんがんと、何度も壁から音がする。

『……くそぉ!!!』

 安室の声だった。今まで聞いた事のないくらい荒げられた声色に、私はビクっと肩を揺らす。そして、それを聞いてようやくのこと、もしかしたらこの騒音は彼の拳が打ち付ける音なのではと思った。

「……安室さん」

 多分、届かないだろう。先ほども言ったが、普段この壁から音が聞こえることなんてない。よっぽどの声や音を出さなければ、隣の部屋には筒抜けていないはずなのだ。
 あの安室が、安室透が――。それほどに壁を殴りつけて、何かに向かって怒鳴っている。きっと今、彼は私の存在など胸の内からなくしているだろう。そんなことを失念するくらいに、彼は、今激情に駆られているのだ。

『クソ、くそ……』

 力なく、歪んだ悲痛な声に、私は顔を歪めていた。
 ただただ、その音を聞くのが苦しかった。辛かった。同時に自分の行動を悔いた。何が、何も変わらないからだ。私が何をしてもしょうがない、なんて他人事のように考えた自分が憎かった。

「最悪」

 零した呟きは、自分に対してだ。
 殴りつけられる壁に、涙が止まらなかった。ぼろぼろと、零れた粒がシーツを跳ねる。
 彼がどうしてそんなに苦しんでいるのか、何を悔しがっているのか、知っているクセに。ストーリーが進めば、彼が煙に巻かれることを、分かっていたクセに。どうしてこんなに、他人事でいれたの。――私は、彼が大切だったのではないのか!
 私にできることは、もしかしたら何かあったのではないのか。もっと、もっと――。でもいくら考えても思いつかなくて、ただ只管に悲しかった。
 
 私はいてもたってもいられないまま、上着を一枚片手に部屋を飛び出した。夜風に触れて、涙にぬれた頬は冷たい。


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Shhh...