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 白い息を吐いて、階段を急いで下っていく。側溝に足が取られそうになるのをグっと踏みとどまって曲がり角を曲がった。ぼろぼろと落ちていく涙は止まらないまま、ただ苦しい胸をどうにかしたくて走った。
 ちょうど二度目の曲がり角に足が縺れたとき、その崩れた体勢を立て直すように手が引かれた。私と同じように、暗闇に白い吐息をハア、と零しながら。

「……安室さん」

 今度のつぶやきは、彼に届いただろうか。私の手首を引き寄せた安室が、三者面談の時よりも一層慌てた様子で眉を歪めていた。ネイビーのシャツにキャメル色のベストは、アニメで見た覚えがある服装だ。相当急いでいたのか、バイトに行くときに履いているスニーカーの踵をぎゅうと踏みつぶしたままだった。

「――泣いているのか」
「……あ、ううん。違くて」
「どうして、君が泣くんだい」

 すっと、手を握るのとは反対側の指先が私の頬へ伸びた。零れっぱなしの涙を、大きな指の関節が拭っていく。違う、慰められたいわけじゃあないのだ。泣きたいのは、きっと私ではないのだから。
 安室が「大丈夫だから」と頬を撫でてくれる間、私はずっと「違う」「ごめんね」と謝りながら、しかし涙を止めることができなかった。その理由さえ話すことできないのが、嫌だった。まさか、安室が幼馴染のことを想い感情を昂らせていることに涙を流しているなど、そんなことは言えなかった。

「こんな夜に、何処に行くつもりですか。危ないでしょう」
「ごめん……ちょっと」
「――沖矢昴の家?」
 
 低い声色に、私はハっとして顔を上げる。目の前にある瞳は私を見据えていたけれど、決して冷たくピリピリとした風ではなくて、どこか諦めを含んでいるように僅かに揺れた。確かに、沖矢のもとを訪ねようとしていた。それで解決することでもなかったけれど、今は只管に、それしか思い浮かばなかった。
 だって、私が知っている≠アとを知っているのは、沖矢ただ一人なのだから。
 しかし、どうして安室がそう問いかけたのかは、きっと理由が違う。言葉に詰まった私に、安室は小さく笑んだ。

「そうか。やっぱり君も、そっち側か」

 そっち、という言葉が、果たしてFBIのことを指していたのか、はたまたコナン達のことを指していたのかは定かじゃない。
「疑っていたわけじゃないさ。君が現実的には考えられない場所から来たというのは、僕の目で見た事実ですから」
 小さく肩を竦めた姿に、私は意識を手繰り寄せて、ぶんぶんと首を横に振った。違う、私は彼らの味方であるわけではない。そんな気持ちで、安室に近づいたわけではない。どう頑張っても止まらない涙のまま、私は手首を掴む大きな手の甲に、私の手を重ねた。

「違うもん。私、安室さんが一番好き」
「なら、どうしたら泣き止むんだい」
「……」

 ずび、と鼻を啜る。いっそ安室が、目の前でワンワンと泣きわめいてくれたなら。そうだね、悔しかったろう辛かったろうと背中を摩ることもできるのに。手を繋いで、一緒に帰ろうと引くことくらい、私だってできるのに。
 でも、そんなことはきっとしない。
 私が彼のことを知っていると、真実を話したって、彼は私の前でそんな顔をしないだろう。それは安室だけが持っている、彼だけの感情で、彼だけの想いだから。それが余計に悔しかった。

 そんな安室のことを、知ろうとしなかった自分が一番嫌いだ。私は知らないからと、関係ないからと――関与してもしょうがないと。言い聞かせて、今の今まで彼の想いを考えもしなかった。それに、涙が止まらないのだ。

「君がどっち側だろうと、良いんだ。ただ、今日はもう遅いよ」

 どうして、そんなに優しいのか。
 分からなかった。もっと考えれば良かった。分かろうとすれば良かった。安室の言う通りだ。一線を引いていたのは私の方だ。小さく微笑む安室の表情を見たら、私はもう耐え切れなくて、一言「ごめん。後で絶対話すから」と告げるとその手を振り切った。
 追おうと思えば、追えただろう。けれど、安室はその場から足を動かすことはなかった。

 ――これ以上、彼に嘘をつきたくない。

 その想いが胸いっぱいに広がっている。何も沖矢の正体をバラそうとは思わない。だから、せめて、私のありのままを彼に伝えたい。もう二度と、嘘を、偽りを彼に与えたくない。

「沖矢さん!」

 その戸を叩くと、扉を開いたのは赤井秀一だった。初めて見る素顔に、一瞬体が固まる。分かっていたとは言え、沖矢の面影などそのグリーンアイと背格好くらいで、本当に別人のようにしか見えなかった。常よりややしゃがれた声色が、シィと息を零す。

 私をリビングまで通すと、彼は最初に会ったときと同じようにどっかりと腰を下ろした。
 ――あ、そうか。さっきまで来葉峠にいたから……。
 だから、沖矢の姿ではないのかとその姿を眺める。彼の象徴とも言える黒いニット帽子とライダースは、アンティークな洋館には見合わなかった。

「ごめん、あの……。私、やっぱり安室さんに本当のこと話したい」

 赤井は、何も言わなかった。ただいつものように煙草を咥えて、マッチでそっと火を灯す。その仕草は、以前から変わらない。話を聞いてくれるつもりはあるらしいと、私はその言葉を続けた。

「ごめんなさい。勝手なことを言ってるし、赤井さんが安室さんから姿を隠していたいことも分かってる。別にそれをバラしたいわけじゃなくて、でも……」

 ただ、苦しいのだ。
 彼にこれ以上嘘を重ねることが、苦しい。あんな諦めたように笑われたくて、隠れて壁を殴りつける音を聞きたくて、偽っていたわけじゃない。できることなら、ただ、グラタンを好きだと言ってくれたあの笑顔を見つめていたかった。

「でも、せめて私は本当でありたい」

 思えば、彼の周りにどれだけの嘘が落ちているのだろう。三つの顔、取り巻く環境。安室という存在さえ、偽りだというのに。
 涙が乾いた頬は、引き攣るような感覚が鬱陶しい。声が震えるのを堪えながらそう頭を下げた。


 返事はいつまでも返ってこなくて、私は恐る恐ると目の前の様子を伺い見ようとした。ようやく返ってきたハア、という重たいため息は、前ではなく私の頭上から零れ落ちた。

「――もう少し、理性的な女だと思っていたんだが」

 ぐ、と首筋の後ろに突き付けられた無機質な硬さに、私はビクっと体を震わせた。落ちてきた声色は、私が聞いた今までのどんな声よりも冷たく、まさしく弾丸と呼ぶのに相応しい。どくどくと脈が大きく鳴っていった。

「俺が君に口約束を取り付けたのは、君がそういうヤツだったからだ」
「そういうって……?」
「必要以上に人に執着しない。言われればその通りにする。流れの通りに生きるような性格の人間」

 赤井の言葉に否定はできなかった。押し付けられる何かの力が強くなる。私の背筋や首筋から、プツプツと汗が浮かんだ。
「誘導しやすいと思った。そういう奴は、人の言葉を簡単に信じるし、疑いもする。手元に置いておきやすいと思っていたんだがな」

 ふ、とあざ笑うような吐息が聞こえる。頭を下げた先に、大きな革靴が見える。オレンジ掛かった光を鈍く反射して、その反射が余計に不穏に思えた。
「意外だったよ。まさかここまで彼に入れ込むとは」
「私も、沖矢さんって良い人だと思ってました」
「――本当でありたい、か」
 赤井の声がゆったりと、落ち着いたまま呟く。とてもじゃないが、私の後頭部に押し付けているものなんて意中にないような、落ち着ききった喋り口調だった。


「悪いが、そんな小娘の夢一つに掛ける情けはないんだよ」


 ごく、と飲み込んだはずの涎は、上手く嚥下できないまま私の口元に溜まっていく。ぶるぶると手が震える。
「俺はクォーターでね。国籍も転々としているせいか、あの男ほどの愛国心は持ち合わせちゃいない。国を守りたくてFBIになったわけでもない」
 柔らかなカーペットの上を、一歩、革靴がこちらに歩み寄った。
「だが、少なくとも一人の女とその家族の安否を、この素性が握っている」
「……キール」
「たかが一人だろうな。漫画とかいうモンでこの世界を知る君にとっては」
 冷たく吐き捨てられた言葉と共に、頭上で絡繰りが回るような音がする。怖かった。けれど、不思議と後悔はなかった。あのまま安室に嘘を重ねていた方が、私にとっては、悔いのある人生のような気がしたのだ。


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Shhh...