35

 安室透、というキャラクターを初めて見たのは映画館の中だった。
 それまでは名探偵コナンという作品こそ知っていたが、ほとんど数年に一度映画を観に行く程度の知識しかなく、登場人物は江戸川コナン、毛利蘭、それから記憶に強い怪盗キッドくらいしか覚えていなかった。電気の落ちた映画館の中、スクリーンに映る煌々としたブロンドに目を奪われた。

「か、か〜っこよかった!!」
「ね、ね! 安室さんだっけ、やばいね!」

 友人と語気を荒げて、きゃあきゃあとしながら帰り道にDVDをレンタルして帰った。今まで映画で観たどのキャラクターとも雰囲気の異なるビジュアルも、真剣な眼差しの鋭さも魅力的だったが、アニメで観た初登場の彼はそんなものを微塵を感じさせないような物腰柔らかな優男だった。そのギャップに、まんまと引っかかってしまった。

 それでも、前述したとおり私はミーハーなタイプで、暫く騒げば満足してそんな男のことを忘れていた。時折映画を見返してはまた格好いいと騒いで、また元に戻る。日常の傍らにあったはずの存在だった。

 ――まさか、それが理由で死ぬなんて思わなかったけれど。

 思いのほか動揺が少ないのは、死ぬと実感したのがこれで二度目だからだろうか。妙な人生だったと思う。すべては、あの階段から始まった。名前も思い出せないあの不思議な生徒。彼に突き落とされて、私は死んだと、確かにそう思っていたのだから。
 
 震える手を握りしめた。銃弾って痛そうだ、せめてその優秀な腕で、一瞬で仕留めてもらえればと願うばかりだった。



『きっとまた違う場所に行って、そこに僕がいなくとも、君は何とも思わないんだろうな』

 
 覚悟が決まったはずの胸の中で、パチンと何かが弾けるように、あの人の声が響いた。私がいなくなったら、安室はどう思うのだろうか。私はどうだろう。このまま、また何処か知らない土地に落ちたとしたら、何も気に掛からないのだろうか。

「……」

 嫌だと、思った。
 安室じゃないと、あの日私をそうして拾ってくれたように、助けてくれるのはあの眩い金色でないと嫌だ。ああ、それだけでも伝えたかった。そんなことを言わせてしまったことを、謝りたかった。

 ごめん、と空気を震わせない唇で呟いた時だ。バタバタと足音が廊下に響いて、頭上の雰囲気が変わった。明らかに誰か第三者が扉を開けたことは分かったが、頭を下げたままの私には何も見えない。――けれど、その人物の判別がついたのは、慌てたように叫んだ少年の声が部屋に響いたからだった。

「――安室さん!!」

 何かを必死に食い止めるような声色が引き攣る。あちこちの扉を家探しのように乱雑に開く音が、ここまで響いた。困惑したのは、私だけじゃなかっただろう。きっと赤井自身も少なからず焦ったはずだ。だって、その人は今さっき、彼が巻いたはずの男なのだから。

 どん、と力強く、すぐ隣にある扉が開け放たれた。首筋に当たっていた冷たさが、すっと離れていく。――と、同時に頭上から鈍い音がして、赤井の体がよろめいたのが見つめていた革靴から読み取れた。


「ッ僕の家族に何してる!!」


 ビリっと部屋中の空気が震えるような大声が、私の頭をツンと切り裂いた。その声に顔を上げると、華麗な右ストレートが赤井のよろめいた頬をもう一発掠めていった。
「あ、安室さ……」
 名前を呼ぶ寸前に、黒く長い脚が安室に向かって振り翳された。それをクロスした腕で流して、安室は歯を剥き出しにし奥歯を噛みしめた。今の今まで、銃を突き付けられても流れなかった涙が、再びポロリと頬を伝った。

「成程。すべてはこの少年探偵の作戦通りだったというわけだ」
「――ハァ……。君のことだ、言い訳は通じないだろうな」
「小型の変声機すら思うままの天才だ。マスクに変声機を仕込むことくらい容易かったでしょうね……」
「そこの娘が仲間だとは考えなかったのか」

 ちらりと赤井の顎がこちらに向かってしゃくった。安室は馬鹿にしたように鼻を一つ鳴らしてから、口角を不敵に持ち上げる。

「あんなにしょっちゅう盗聴器をつけておいて? いちいち外すのに苦労したんですよ」
「やはり君だったか。分かりづらい場所に仕掛けても決まって外されるものだから困っていたんだ」
「そっちこそ、たかが小娘に随分と構うじゃないですか。罪のない人を手に掛けるのは慣れたものですね」

 安室の声には、静かな怒りが灯っていた。あの日、親友の敵討ちだと微笑んだ声と同じ。沸々と湧き上がる殺意を押さえることなく、目当ての男を睨みつけている。

「赤井さん、銃をしまって」

 もう一つ、赤井と安室と――先ほど彼の名を呼んだ声。焦ったように、はあはあと息を切らしながらリビングへ訪れた小さな体。彼はレンズの奥の丸い瞳で私を見ると、一瞬目を丸くした。
「ああ、仕舞おう。その殺意が一ミリでも引っ込んだらな」
「すみませんね、これでも押さえているほうなんだ――。あの日からずっと、殺したくてしょうがなかったんだから」
 拳を握った爪先が、彼の厚い手のひらに食い込む。私はどうしたら良いのか考えて、恐らく同じように思考を巡らせていたコナンと目を合わせた。

 ――多分だけど、一瞬その考えが分かったような気がする。 
 それは、コナンが私に向かってコクリと一つ頷いたからだ。私は深く考える間もなく、安室のもとへ駆け寄って手を掴んだ。コナンは同じように、赤井の前に立ちはだかる。

「え、っと……とりあえず、お邪魔しました!!」
「――えっ」

 私が手を引く、その後ろから声が零れる。拒もうと思えば、振り払おうと思えばできたはずだ。しかし彼は、私が手を引くままに、歩幅を余らせるようにして後ろをついてきた。赤井も安室も、一般人を巻き込むことを嫌う。この家を一歩出れば、少しは冷静になるはずだ。

 ――どうしよう。

 安室が赤井と面識を持ってしまった。恐らく、沖矢昴が彼だという確証も。誰のせいかと言えば、間違いなく私のせいだ。本当、余計なことしかもたらさないのだから。
 云々とない頭を必死に捻りながら歩いていると、安室が呆然とした様子から漸く我を取り戻した。

「……君は、沖矢昴のことを知っていたんだね」
「あ、うーん……。うん、知ってたの」
「そして、僕がそれを追いかけていることも」

 もう嘘をつく必要もないか、私は正直に頷いた。安室は「そうか」と静かに呟くと、後ろについてくる足を少しだけ早くして、私の隣に立った。

 きっと彼の中では、もう予想が立っていたのだろう。誤魔化すような文句も思いつかなくて、でも「なんとなくだけど」と曖昧に続けた。その部分は、原作でも明確に描写があったわけではないから。

「僕の正体も」

 静かな問いかけだった。それが問いかけであることに気づけないほど、淡々とした口ぶり。けれど、彼の視線はやっぱり冷たくはなかった。先ほどまで敵意を向けられていたからこそ、その瞳の柔らかさがよく分かる。

 知っている、と答えるのは簡単だった。
 嘘偽りのない言葉だ。けれど、それを答えてしまったら、もう安室とは一緒にいられないのではないかと危惧してしまった。

「……安室さんは、安室さんでしょ」
「誤魔化したな」
「だって……」

 もご、と口の中で言い訳を考えているうちに、マンションのエントランスが見えた。安室は、肩の力が抜けたように小さく笑った。
 
「君があの男の味方だったら、余計かと思った」
「……じゃあ、どうして追ってきたの」
「違うって、言っていたからさ」

 ――本当に、彼はどうしてここまで私のことを信じてくれるのか。
 僅かに微笑んだ横顔が綺麗で、私はゴチャゴチャと絡まった頭が少しスッキリとするのを感じた。安心したせいなのか、急にもよおした尿意に背筋を震わせて、私は慌てて自室へ駆けこむことになる。


prev Babe! next
Shhh...