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 その夜は、私が寝付くまで安室は隣に腰を掛けていた。どうしてだか、互いに核心に迫るようなことは言わずに、とりとめのないことをポツポツと語った。最近は味噌汁が美味しく作れるようになっただとか、センター対策の英語はリスニングがまるで聞き取れないだとか。
 安室もまた、安室透の口調のままに、ゆっくりと相槌を打っていた。そうこうしているうちに眠気が私の瞼を重たくする。今は何時だろう。安室が部屋に帰ってきた時点でもう日が沈んだ後だったから、そろそろ日付を超えるだろうか。もぞもぞと枕を抱きしめた。こうしないと、上手く寝付けない。

「……あのさ、安室さんって、なんでこんなに優しくしてくれるの」

 眠気にゆっくりとなる口調を自覚しながら、私はベッドサイドに浅く腰かけた姿を見上げた。安室は、ウーンと小さく唸る。私の額をそっと撫でつけた。暖かな手のひらだ。

「いくら違う世界から来たって思ってたって、優しくする必要ってないじゃん」
「そこは、僕が優しいからだと思わないんですね」
「……だって」

 ――だって、安室さんは潜入捜査官だから。
 とは言えなくて、だっての後は軽く口を引き結ぶのみだった。安室はそんな私の表情を見て可笑しそうに片眉を吊り上げた。そんな彼のひざ元に、ハロが嬉しそうに飛び乗る。その撫でつけられていた手がハロのもとへ向かうのを、やや名残惜しく見送った。

「正直言うと、最初から全てを信用していたわけでもありません。今も、十割確信を持っているわけでもない」
「……だよね。安室さん、最初めちゃめちゃ怖かったし」
「はは……。理由は二つ」

 彼は二の指を私のほうに突き付けた。それがいつだかの沖矢の仕草と重なって見える。探偵業――正しくは二人とも違うが――のクセなのだろうか。

「一つ。どれだけ調べても、やっぱり君があの日落ちてきた事実に変わりがないこと。これは前も話しましたね」
「あの、落下がどうのってやつ」
「そう。非現実的な存在を受け入れたのは、それが原因です」

 彼は立てていた二つのうちの中指を折り曲げた。「二つ」、そう呟いた後――彼はどうにもむず痒いような表情で、唇を小さく震わせた。

「――君が、昔の僕に似ていたから」

 それはあまりにロジックから外れた理由で、あまりに安室らしくない答えだった。
 彼自身もそう自覚があるのだろう、気恥ずかしそうにしているのはその所為かもしれない。
「最初は、君にも言いましたね。例え疑わしい人間であろうと、人権がある限り最低限の生活を確保しようと思いました」
 安室の膝の上で、ハロが心地よさそうにコロンと転がって腹を見せた。それをぐしぐしと撫でながら、彼はその時のことを思い返すように小さく笑った。

「でも君はどうしようもないくらい生活力がなくて、どうしようもないくらいに人にも自分にも無頓着で。そんな姿を見ていたら、昔そう叱りつけた奴のことを思い出してしまったんだ」
「それ、文字のことを言った人と同じ?」
「そうだよ。しょっちゅう諭された」

 ――そういえば、料理のことを話していたときに、素っ頓狂な反応をした私を見覚えがあると笑っていた覚えがある。それはもしかしたら、安室自身のことだったのかも知れない。

「どうしてか、君を他人だとは思えなかった。可笑しな話だよ、紛れもなく赤の他人だって言うのに……。入れ込むべきじゃないと思えば思うほど、たった一人母親を呼ぶ君を置いて行けなかった。置き去りにされるのは辛いって、自分に重ねてしまった」

 ハロを撫でていた手が、するっとブロンドを掻き上げる。ベッドサイドのランプに照らされた瞳は、やけにキラキラと輝いて見えた。彼の薄い虹彩のせいなのか、それともランプの温かみのある光のせいなのか。

「ならせめて、君が帰る場所を見つけるまで、僕がその場所になろうと思った」
「……本当に?」
「どうだろう。証拠はないんだ」

 冗談めかして、安室が肩を竦める。
 その瞬間に、心の底で押さえ込んでいた何かがパキっと外れたような――自分でもよく分かっていなかった感情が、体を大きく震わせた。この世界に来て初めて、地に足がついたような、安心感がそれを外したのだ。
 
「……う」
「こらこら、なんでまた泣くんだい」
「わかんない……わかんないの」

 滲む視界を手で拭うが、次々と浮かぶ涙にそれが追いついていかなかった。灯りと、彼の輝く髪の毛だけが滲む視界でもぼんやりと光って見えた。安室の声で、彼がちょっと笑い混じりなのが分かる。
 親指の腹が、私の目じりを拭っていく。安心したのだ。――そうか、安心した。
 
 その時初めて、この世界に来て以来の感情が全て順々に思い返されていく。
 知らない土地に来て不安だったこと。戸惑ったこと。もう会えない友人や母親への恋しさや寂しさ。警戒心を剥き出しにされたことへの恐怖心、男に押さえつけられた時の、どうしようもない絶望感。
 ああ、私、怖かったのか。寂しかったのか。
 自分でも、気づいていなかった。昔から流されやすい楽観主義な方であったし、この世界でもそうなのだと思っていた。イケメンに拾われたし、何の不自由もしてないしなんて、傍観者のように考えていた。
 違った。結局、それを伝える相手がいなかったのだ。怖かったと泣きつく人が、寂しいと寄り添う人がいないから、言ってもしょうがないと思っていた。赤ん坊が、親の反応がないと泣き声をあげなくなっていくように、心はよく分かっていたのだろう。

「わ、私はね」

 泣きながら、震える声で、今度は私が想いを伝える番だと思った。
「安室さんが助けてくれたのが、嬉しかった。安心した。料理や勉強を教えてくれて、私のために走ってきてくれて――心配してくれて、嬉しかった。安室さんが、大切だって、思ってた」
 私の枕元に手を置いて、安室が苦笑いしながら顔を近づけた。さらりとした髪質が私の頬を擽るくらいに、彼の顔が近くにある。それなのに、不思議と厭らしさは感じられず、ひたすらにその瞳に釘付けになった。

「ようやく言ってくれた。君が受け入れてくれたなら、呼ぼうと思っていたんだ」

 笑ってから、彼は「芹那」と名前を呼んだ。
 その響きは新鮮で、だけど誰に呼ばれるよりも落ち着く。夜の冷たい空気の中で、私の鼓膜を静かに揺らした。

「これからどれだけ嘘を重ねても、どれだけ離れた場所にいても、芹那が望むのなら――僕は君の家族になるよ」
「……嫌じゃないの。出会って数か月だよ、てか、そんなに私のこと好きじゃないじゃん」
「そんなのこれからで良いだろう。君が望むのなら」

 ズルい問いかけだと思った。私には、母親がいる。けれど、その響きは悪くないとも思った。家族か――。なんだか、その呟き一つで、私の心が強く保てるような気がするのだ。

「その場合、私って何になるのかな。妹? 娘? 嫁?」
「……うーん。次女かな」
「待って、一番上ってハロだったの!?」

 次女かな、のタイミングで安室が枕元に寄り添ってきたハロの頭をポンっと叩くものだから、私はぷっと噴き出してしまった。するとハロがキュウンと悲しそうに鳴いたのがどうにもツボで、私はひとしきり大笑いした。安室も同じように、くくくと喉を鳴らしながら可笑しそうに笑っている。

 まあ、良いか。名前がついていなくたって。私はひたすら、目の前にある温もりが幸せで、ようやくのこと安室の考えていることが僅かに掴みとれたような気がした。

 ――彼はきっと、ずっと一緒であった幼馴染のことを思い出したのだろう。怪我を手当してくれた女医のことを、思い出したのだろう。私もいつか、安室のことを思い出す。きっと、私のように――心細く戸惑う人を見つけたときに、彼のことを思い出す。そして、同じことをするのだろうと、何となくそう思った。


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Shhh...