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 次の日を迎えると、私と安室とハロと――そのどのものでもない、軽いノック音が部屋に転がり込んだ。どうやらリビングで寝こけていたらしい安室も、その気配に素早く体を起こしていた。シャツを腕まくりして、ブランケットを掛けた姿は何とも絵になっていたので、勿体ないと心底思ってしまった。
 玄関を開けると、その体にはやや大きいシルエットのスケボーを抱えて、丸い瞳がレンズ越しにこちらを見上げた。「こんにちは」、子どもらしい高い声で、彼はニコっと笑う。私の背後から、安室も顔を覗かせて、穏やかに微笑んだ。

「やあ、来ると思っていたよ」
「……安室さん」
「君は本当に賢い子だ。なに、アイツがいないなら手を出すつもりはないさ」

 そう言うと、彼は私のほうに向けてチラと目くばせをした。どうやら、この部屋で話をするつもりらしい。――私、この場にいたら邪魔だろうか。そうは思ったものの、わざわざ出ていくのも妙な気がする。コナンを部屋へと招き入れながら迷っていると、安室が軽く私の指先を引いた。

 彼はそのままキッチンに向かうと、まるで我が家のように手慣れた様子で飲み物を淹れ始めた。まあ、そもそも彼が買いそろえたものであるし、正直私が使うよりも安室が使う頻度のほうが高い。リビングにあるソファにぽすっと座り込んだ小さい体を見守りながら、私も向かい側にクッションを置き、腰を下ろした。

 目の前で難しそうな顔をした少年は、紛れもなくあの江戸川コナンなのだと感じる。もう私の前でも猫被る気はないらしい。ジっと私が見つめている視線に気づくと、複雑そうに、申し訳なさそうに眉を下げた。少年らしい幼い頬や細い手足に、私のほうが罪悪感に駆られてしまう。

「……昨日はごめんね」

 コナンは、ぽつりと私に向かって謝った。
 最初は何のことかと思ったが、もしかして、昨夜の出来事に責任を感じているのか。赤井との作戦は、一応コナンの考えたものであるのだから――。思わぬ謝罪に、慌てて首を振った。

「そんな、コナンくんが謝るようなことじゃないじゃん。第一、昨日は……正直、私が約束を破ったのが悪かったんだし……」

 そう、改めて思えば、一方的に約束を反故しようとしたのは私だ。確かに沖矢が私を見張っていたりだとか、口先上手く言いくるめていた節があったにせよ、飲み込んだ条件を先に追いやってしまったのは、紛れもなく私なのだ。
 確かに、殺されかけたのは予想外だったけれど――。沖矢には申し訳ないことをしたと思う。私がいなければ、通常通り、つつがなく作戦は上手くいったはずだ。

「ううん。それでも、命を危険に晒したのは良くなかったと思う……。少なくとも、ボクは」

 そう呟くコナンの表情には、どことなく憤りのような感情が垣間見えて、彼は本当に主人公なのだなあとしみじみ思った。沖矢の正体がバレたら、もしかすると自分自身まで危ぶまれることがあるかもしれないのに。

 彼の正義漢に感動していたら、安室がたっぷりとミルクの入ったコーヒーと、オレンジジュースを机に置いた。ドクドクと動揺が隠せず、頭の中をキャパシティ越えした思考が巡り続けた。

 ――だって、今ここにいるのは安室とコナンの二人で。
 原作では彼らは敵でもないが、味方同士というわけでもない。強いて言うなら、目指すべき敵が同じであるだけで、立場もその目的もバラバラな連合軍だ。安室はコナンの素性に気づきつつあるが触れることはなかったし、コナンもまたこんな面と向かって二人で話すようなシーンはなかったのだ。

「……さて、君がここに来たと言うことは、少なくとも和解目的だと考えて良いのかな」

 安室は私の傍らによいしょ、と腰を下ろしながら、コナンに問いかける。コナンはやや俯いたまま「うん」と小さく呟いた。

「安室さん……。お願いだから、赤井さんの正体をバラさないでほしいんだ」
「あ、あのっ……! 安室さん、私からもお願いです」

 変わってしまった原作の流れに、私も急いで食い下がった。安室は私が食い下がったことには少々意外だったようで、不思議そうに私のほうを覗き込んだ。そして、彼は眉を下げて小さく笑う。

「――そうか。そうだった、君は知っているんだな」

 私は、話さないと。安室に――そのことを。
 私はちらりとコナンに目くばせをした。これから私が話すことは、きっと信じられないことばかりかもしれない。きっと、赤井は全てを信じてはいなかった。それは、昨夜私に向けた彼の態度で何となしに感じた。当然だ。それが、普通――寧ろ賢い男なのだから、尚更そうなのだろう。
 しかし、安室は信じてくれるだろうと、今の私には安心感が温かく残っていた。


 私は二人に、自分の世界のことを話した。
 この世界に酷似しているが、異なる世界だったこと。そこで存在した名探偵コナンという漫画の話。コナンは最中警戒したように、私の話を何度も掘り返した。ずいぶんと細かいところまで質問をしてきた。答えられるものと答えられないものがあったけれど、肝心な部分はなんとか覚えていたと思う。

「その、どこまで言って良いか分からないけど、二人の何となくの素性も知ってる。特にコナンくんは主人公だから、安室さんたちより知ってることは多いかも」
「……信用、できるの」

 私を見上げる瞳は、鋭さと共に不安を湛えていた。
 私はコナンに向かって、しっかりと一つ頷いて見せた。小さい手を、きゅうと軽く握る。ふにふにとした、細い指先。本当に、体は小学生なのだ。

「大丈夫。コナンくんがそれを隠している理由も知ってるし、絶対にそれを言う気もないよ。これだけは、絶対」

 コナンの命もそうだが、彼が幾度となく命を投げ出してまで救おうとする女の子を私は知っている。強く言い聞かせるように伝えれば、コナンは軽く口を噤んだ。信じてもらえるだなんて、思ってはいないけれど――分かってもらえないか。諦め半分に手を離したら、安室が口を開いた。

「それは、僕からも保証するよ」
「安室さん」

 コナンはぱっと安室のほうを見上げる。得体のしれない私よりは、コナンにとって信用に足る人物だろう。「どうして」と小さく零して、すぐに私の顔色を窺った。そんなことを気にするメンタルではないけれど、安室が然して驚いた様子を見せないのには、私も意外さを感じた。
 そりゃあ、別世界から来た〜だの云々とは聞いていたけど、自分たちが漫画やアニメだったと聞いたら普通少しくらい驚かないだろうか。

「芹那の話を踏まえて聞いてほしい。僕は彼女を拾って――、それ以来、こちらの情報網でできる限りの調査は進めたつもりだ。ごめん、こればっかりは職業柄でね」
「ううん」
「それで――。多分、これは憶測にすぎないのだけど、君のような存在はどうやら初めてではないんだ」

 私は自分のことを指さした。君のような、と復唱する。――きょとんとしている所に、コナンが「それって」と結論を急いだ。

「前にも同じ世界から来たような人がいる。男女関係なく、それこそ前に残っているのは五年前か。その前は八年前……」
「そ……そうなの……!?」
「ああ。彼らの証言で一致しているのは、戸籍のない人間たちであること。東京都、という場所からやってきていること。――そして、やたらと原作≠ニいう言葉を引き合いにだすことだ」

 私はその言葉に、じわっと心が温かくなるのを感じた。そうか、そうなんだ。私は一人ではないんだ。この世界のどこかには、私と同じような境遇の人がいる。ほっとした。しかし、コナンが重たそうな口を開く。

「……でも、ボクが主人公だって言うなら……。その人たちに、会ったことはないよ。芹那さんみたいな人を見たこともないし」
「そりゃあそうだ。彼らは皆、この世界で亡くなっている。だからこそ、ここに資料が残っているんだから……」

 安室の言葉に、私は飲んでいたコーヒーをごきゅっと勢いよく飲み込んでしまった。亡くなった、って死んじゃったってこと。やっぱり、と独り言ちるコナンを横目で眺めて、私は彼らの驚くべきポイントがズレていることに、ひっそりと疎外感を感じていた。


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Shhh...