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「こら、芹那。手が止まってる」
前から叱咤が飛んできて、私はハっと目の前の問題集に意識を戻した。時計を見れば、彼是三十分ほど同じ問題で止まっていたようだ。あははと苦笑を零しながら、ペンを握りなおした。
――安室とコナンと、三人で話し合ったあの日から、一週間が経つ。驚くほど穏やかな一週間だった。安室も一体全体どうしたというのか、以前のように部屋を空けることもなく、まるでただのアルバイターのような日々を送っていた。空いた時間で、こうやって私の試験勉強を見てくれている。
彼はあの後でも、頑なに安室透として私に接した。コナンに渡した封筒が一体何かは分からないが、どうやら何らかの形で和解のような形になったのだろう。さすがに沖矢に会いにいく勇気はなかったけれど、図書館で会った歩美たちから沖矢の話を聞いた。彼もまだ、工藤邸にいるらしい。ということは、安室が彼の存在を今だリークしていないのだ。
「……う〜ん」
気づけば声に出して唸ってしまっていて、安室はハラっと読んでいた小説の頁を捲ると、ふっと笑いを零した。私が顔を上げれば、彼は目線を落としたまま、堪えられなかった笑いに口元を歪めていた。クックック、と喉が鳴るのに、思わずときめいてしまったのは内緒だ。
私はわざと拗ねたように「笑うなよ〜」と、テーブル下に足を滑らせて向かい側の足を軽く蹴った。
「すみません。全然別のことを考えていたみたいだから」
「だってさあ……」
逆に、どうしてそんな当然のように日常を過ごせるのだろうか。それとも、そう見せているだけなのか――どちらかは分からないが、私には安室のその平然さのほうが奇妙にしか思えない。
安室はそんな私の考えを見透かしたように、頬杖をついて、口元だけ薄く微笑んだ。どれほど食い下がっても、封筒の中身を教えてくれることはなかったので、それについてはほぼ諦めている。彼と情報の駆け引きをしようなんて、無謀な戦いはしない主義だ。
「煮詰まっているなら、息抜きでもしに行くかい」
「……息抜き?」
楽しそうな単語に、つい背筋が伸びてしまった。
確かに時間がないことは重々分かっていたのだが、何しろ今まで勉強のべの字にも触れてこなかった人生だ。こうして机に向き合っているだけで、集中力がゴリゴリと削れていく。
以前の安室と赤井のことを考えていたこともあり、殆ど頭の中はキャパシティをオーバーしていた。そこに突然ポンっと浮かれた言葉が差し伸べられて、私は心が疼くのを感じる。
「……でも、もうあとちょっとだし」
ぐぐ、と自分の頭にある理性を総動員にして引き留めていると、安室はやっぱり可笑しそうに笑いながら「まあまあ」とこちらを宥めた。
「頭には休息が必要さ。現にテキスト、これだけしか進んでないし」
と、指された私の問題集の薄さに、私は押し黙る。集中できていないのは確かだった。安室がにこやかに勧めてくるのが満更でもなくて、私は悩んだ挙句「ちょっとだけなら」と彼の誘いを受け入れた。
◇
「……う、っわ〜!!」
ぽす、と地につけた足が柔らかく飲まれていく。はあ、と零した吐息はどこまでも白い景色に紛れていって、私はキラキラとその景色を眺めた。
「す、すご……。真っ白……冷たい……」
「お待たせ、借りてきたよ」
「うわうわ、可愛い〜! ありがと安室さん!」
安室がざくざくと雪を踏みしめて、大きなスノーボードを抱えてきた。ピンクと黒のチェック柄にでれでれとしてそれを受け取った。思いのほか大きくて重たいボードを抱えて、私は胸が高鳴るのを感じた。
「――まさか、こんな遠出するなんて思わなかったけど」
息抜きというから、精々買い物とかハロの散歩だとか、そのくらいに考えていたのだ。ついたのは都内から車で走ること暫く、一面銀世界のスキー場だった。驚きは隠せなかったけれど、安室がウェアから何から全て用意してくれていて、もしかしたら最初から連れてくる気だったのかもしれない。
安室の着ている黒地にライムグリーンのラインが入ったウェアは、彼の私物のようで、私の着ているものとブランドも違った。彼はゴーグルを上げたまま、ははと笑った。吐息が、ふわっと白く舞っていく。
「今年の雪は良い雪なんだ。細かくて柔らかい、きっと転んでも痛くないよ」
「本当に?」
疑い半分に足元に積もった雪に触れようとしたら、思いのほか重たいウェアにバランスを崩してそのまま尻もちをついた。ぼすっと細やかな雪の山に埋もれて、まあ確かに痛くないことは実証できた。
「ふ、はは、あはは! 待って、ふふ……」
「そんな笑わないでよ……」
「ごめん。ほら、おいで」
すっと手が差し出されて、それを掴めば勢いよく引き上げられた。グローブ越しでも、彼の手のしっかりとした力強さは感じ取ることができる。私は彼の手に引かれるまま、白い世界を踏み出した。
安室はスノーボードも得意なようで、私に合わせて平面や初心者用のコースを往来しているものの、明らかに他の客とも一線を画してなめらかな滑りをしていた。最初はそんな彼に手を引かれて、自転車を習いたての子どものようになっていたけれど、慣れてくるとこれが案外楽しい。
元々体を動かすのは好きだったから、暫くすると一人で坂を滑れるくらいにはなってきた。安室の言う通り、転んでも柔かな雪がクッションになってくれて、殆ど痛みは感じない。
ゴーグルの隙間から吹き注ぐ冷たい空気が気持ちよくて、夢中で滑った。そのうちリフトもスムーズに降りれるようになり、その場所にも慣れ始めた頃、私は安室に「好きなところで滑ってきて良いよ」と断りを入れた。
何せ自前のボードやウェアがあるくらいなのだから、彼もまた息抜きになればと思ったのだ。後で合流しようと待ち合わせの場所だけ決めておいて、私たちは別々のコースへと足を向けた。
「そういえば、積もった雪なんていつぶりだろ」
ぎゅむ、と雪を踏み固めて、ぽつりと呟く。生まれてからずっと都内の真ん中で生きていたので、辺りはアスファルトばかりで、雪がドッサリと積もることなんて稀だった。小さい時に母親が、滑り台に積もった雪で作ってくれた雪だるまが好きだった。そんなことを思い出しながら、私は足を掛けて白い坂道を滑る。
その傾斜が緩やかになってきたところで、私が滑ってきた坂道を見上げた時、丁度黒いウェアが私の目の前をふわっと飛んで行った。
鋭い日差しに、銀色の雪がチラチラと舞って反射する。顔は殆ど見えなかったのに、どうしてだか彼が笑っているような気がする。伸び伸びとしていて、まるで翼がついているみたいだった。
「きれー……」
つい、そう独り言ちてしまうくらいに、その姿は人の目を奪った。
本当に、何をしても絵になる男だ。彼にできないことはあるのだろうかと思うほどに、その才能は多趣味に渡る。原作でもギターを引いていたし、料理もできる。何かできないことを探すほうが難しいような気がした。
――ううん、きっと、まだやってないだけ。
安室の言葉を思い出して、私はそう言い聞かせた。彼も、そうやって積み重ねてきただけ。私も練習したらあそこまでとは言わずとも、一緒のコースを滑れるくらいにはなるだろうか。
「まあ、息抜きのときは息抜きしなきゃね」
よし、とボードを抱えると、私はまたリフトに乗る。これが終わるときには、また次来ようと安室に言わせるような滑りになっていることを信じて。私は誰にも聞こえないであろう鼻歌を、ひっそりと口ずさんだ。
prev Babe! next
Shhh...