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 帰りの車に乗り込むと、ふくらはぎがプルプルと震えた。それほど疲れたつもりはなかったのだけど、慣れない雪の上に立つのはそれだけで筋力を要したらしい。最近ロクに運動してなかったしな、と反省しながらシートベルトをつけたら、安室が暖房を入れた。
 私は機嫌よく運転席を振り返って、頬を綻ばせた。駐車場にあった自販機で買ったココアを手渡されて、その温もりに益々口角が緩んでいく。

「ありがとーございました! めっちゃ楽しかった〜!」
「いえ。こんな時期に連れ出してしまってすみません」
「良いの良いの。イマイチ集中できなかったし……久々に体動かしたらスッキリした!」

 プルタブを開けて、まだ湯気の立つココアをちみちみと喉に流し込んだ。ごくんと飲むとそれが食道を通って腹に落ちるのを、暖かな温度で感じた。ぷはっと温もりを帯びた吐息をつく。
「ココアうま〜……」
 冷えた指先を温めながら零すと、安室は軽く口角を持ち上げてから、車のキーを差し込んだ。

 安室の運転で山を下りながら、私は外をぼんやりと眺めていた。先ほどまで晴天だったはずの空模様は、暗い雲が覆っている。山は天気が変わりやすいなんて言うけれど。ふあ、と欠伸が零れてしまって、私はそれを手のひらで押さえてからチラっとハンドルを握る安室を見遣る。
 彼は視線を前に向けたまま、ふと私から見えるほうの口元を笑ませて「寝ても良いですよ」と言った。別に遠慮をしているわけじゃないのだが、どうにもこの空間で眠ってしまうことが勿体なくて、ふるふると首を振った。

「そうかい」

 安室は否定も肯定もせず、ただ穏やかに頷くだけだった。
 首を振ってみせたものの、このまま何もせず空を見上げていたら本当に眠ってしまうような気がして、私は何となしに彼に話しかけることにした。自然と話題はスノーボードの話が浮かんで、昔よくやってたのかと尋ねれば、彼は少しだけ間を置いて頷いた。

「そう。僕もちょうど受験のシーズンだったな」
「……そうなんだ。受験とか、安室さん勉強しなくても大丈夫そうじゃん」
「僕のこと何だと思ってる? 一応試験前は人並みに緊張したさ」

 はは、と苦笑いした安室を見て、私は意外だと目を丸くした。どこを取っても欠点のない男にも、一般人と同じような経験はあるのかと思った。いや、それは少し失礼だったかもしれないが、実際そう思ったのだからしょうがない。

「そうしたら、ちょっとくらい息抜きしろって連れてこられたんだ」
「――それは、噂のお友達?」
「まあね。彼にはいろいろなことを教えてもらったから」
「……安室さんが」

 そう尋ね返すと、安室はちょっとだけ得意そうにして「勿論僕も教えたけど」と付け足した。そんなところで負けず嫌いにならなくとも、と思ったけれど、勝ち誇ったような表情が可笑しくて私は肩を揺らして笑う。

「ね、他にはどんなこと教えてもらったの」
「それ、知りたい?」
「だって、安室さんっぽくないんだもん。気になる」

 そう言えば、安室は気恥ずかしそうにしたものの、拒むことはなくポツポツと話し始めた。その友人は幼馴染であり、互いに欠けた部分を補うように得意分野が異なっていたこと。安室がその頭脳や才能に全ての能力値を振り切った男だとすれば、友人は好奇心が旺盛で、様々な経験を自分の糧にするような男だったということ。

「本当に多趣味だったよ。料理も釣りもギターも、アイツがやらなきゃやろうとも思わなかったのに」
「私はその友達の気持ち分かるけどな。やるからには形からしっかり入りたくなっちゃうっていうか」
「そう、それでやたらと雑誌やら道具やら、そういうのを揃えたがっていたなあ」

 懐かしむように、安室は鮮やかさに欠けた瞳を細めた。そうかあ、そんな人だったのか。私が俗にスコッチと――そう呼ばれる安室の友人について知っていることは少ない。まあ、そもそもが死人であることもあり、必要な情報でしか回想に現れなかったからだ。多分、外見もそう特徴があるほうじゃない。チクチクとした無精髭と、ツンと吊り上がった目つき。作中で羽織ったグレーのパーカーだけがやけに印象的だった。

「……こういうことは、君のがよく知っているかと」
「ううん。ほら、あくまで主人公はコナンくんだし。安室さんのことだってよく知らないよ」
「僕としては、一番根幹の部分を知られているから生きた心地がしないよ」

 肩を冗談っぽく竦めてみせる。それはきっと、彼の本当の顔のことだ。バラすつもりはないが、安室がそんなに気軽に口にできる程度には、私に心を許してくれている――だなんて自惚れても良いのだろうか。

「だから、その人の話聞くの好きかも」
「それは良かった。人と話すことが好きな奴だったんだ――……僕とは違って」

 眉を下げて、柔らかく彼が笑う。どこか寂し気な雰囲気が醸される笑顔に、私はそっと口を閉じた。赤井の言葉が、頭に過ぎる。あの男の言葉は、さすがと言うべきか、いつだって私を悩ませる。


『たかが一人だろうな。漫画とかいうモンでこの世界を知る君にとっては』


 冷たく頭上に吐き出された言葉。心の底から否定できないくらいに、後ろめたさを残す言葉。今だってそうだ。私はスコッチの死というものを情報としてしか受け止めていない。
 けれど、安室は違う。彼にとっては、唯一無二の幼馴染であり、なくなったら二度と戻らない現実の命だ。それは当然のようで、実感しづらい事実だった。

 だからこそ、掛ける言葉が見当たらない。
 大丈夫だよと笑うのも、彼は復讐を望んでいないと止めるのも、どちらも違う気がした。ただ、安室のその寂し気な、何とも言い難い笑顔を見て、「そうなんだ」と適当に流すことも難しかった。

「……きっと、仲良くなれただろうな」

 ぽつりと、黙った私の代わりに安室が呟いた。珍しい。普段は安室のほうからスコッチについて口にすることは殆どない。私は首を傾げて、「私と?」と自分の方を指さした。

「ええ、きっと。アイツは面倒見が良かったし、女には優しかったから」
「安室さんだって優しいし面倒見良いじゃん」
「それは――……。ただの見様見真似だよ」

 誰の、とは言わなかった。けれど、その言葉の続きは私の頭の中で響く。それが悔しく思えた。私のことを助けてくれたのは、手を差し伸べてくれたのは紛れもなく安室透という男だった。断じて、スコッチやエレーナではないのだ。

「何か拗ねてるな」

 ふ、と鼻から抜けるような、吐息混じりの笑い声。顔を上げると、諦めたような苦笑が浮かんでいた。

「あのさ、私イケメンが好きなんだよね」
「……うん?」
「自分でも思うけど、結構ミーハーな方で。付き合うのもクラスの目立つ子や先輩ばっかりだったし……あれ、これは関係ないんだけどさ」

 つい脱線した話を、自分で元のレールに戻す。これじゃ私がただの面食いになってしまう。もうだいぶ冷めてきたココアは、飲み込むと少しイガイガとした。

「この世界の人、皆すっごい格好いいからさ。この後もっとイケメンが出てくるって思う。……あ、でも私は安室さん一筋で……。でも話したいのはコレじゃなくってね」

 しどろもどろになりながら、何とか話の腰を持ち直した。安室は驚いたように私のほうを見つめていた。それが、ちょっとだけ恥ずかしかった。

「でも、どんなイケメンより……優しい人より、面倒見が良いよりも。私は、安室さんが一番好きだよ、ずっと、ずうっとね」

 彼があの夜に語った「家族になる」という言葉が嘘じゃなければ。もじもじと親指を擦り合わせながら返事を待っていたら、安室はやっぱりちょっと得意そうに笑うと、ハンドルを握りなおした。


prev Babe! next
Shhh...