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「え、何て?」

 私はきょとんと目を丸くして、隣で鼻歌を歌う梓の横顔に振り向いた。梓は特段気にしていない様子で、頷くと手元でシャカシャカとメレンゲを泡立てている。私が口をぽかーんと開けていたからか、彼女は長い髪を耳に掛けてもう一度可笑しそうにクスクスと笑いながら繰り返した。

「ほら、毛利先生……。あ、会ったことなかったっけ」
「あ、まあ……。二階の探偵事務所の先生でしょ?」
「そうそう。コナンくんたちの所の。安室さんって毛利先生の一番弟子じゃない」

 冬休みの最終日だった。
 暫く勉強のためにと入っていなかったバイトだったが、今日は安室が急な用事(――まあ、十中八九仕事だろうけど)が入ったとのことで、代わりに出勤しているのだ。久々のポアロは冬の野菜がたっぷり入ったメニューが増えていて、新しいスープもほくほくと頂いたところだ。
 ――賄いも食べ終えて皿洗いをしていたところに、梓は「そういえば」と手を打って話し始めたのだった。

「毛利先生たちもよくここにご飯食べにくるんだけど、この間安室さんが『質問があるんです』なんて意気揚々と聞きに行ってたのよ。安室さんって何でも知ってるし……珍しいなって思いながら見てたんだけど」

 確かに、安室がそんな風に誰かに教えを乞うことのほうが珍しいような気がする。中々想像はできないものだ。梓はプっと笑いを堪えきれないままに零して、言葉を続ける。

「そしたら、『蘭さんとの仲が良好な理由は?』なんて聞き始めてね。最初は毛利先生、安室さんが娘を狙ってるって勘違いして大慌てしちゃって!」
「あ、あはは……」
「でもよく聞いたら、なんでもどうしたら年齢差のある子と仲良くなれるのかって。毛利先生、鼻を高くして『家族サービスでもしてやったらどうだ』、って言うの。安室さんすごく感激してたなあ」

 ――姪っ子でもできたのかしらね。
 梓が肩を竦めたところで、カランとドアベルが鳴った。どうやら店の備品を配達に来たようで、梓が慌ただしく入口へと駆け寄っていった。私は一人残されたまま、シンクの掃除をしていた。

 ――それって、もしかして。いや、もしかしなくても。私のことか!
 確かに、記憶でいくと安室は既に二十九。親子とまではいかなくとも、私とは十一歳の歳の差があった。彼の見た目は若く、本当に二十代前半と言われても不自然でなくて、ついそのことを忘れがちだ。

「じゃあ、前のあれが家族サービス……?」

 スキー場に連れていかれたことを思い出しながら、一人首を傾げた。そしてゆるゆると頬が緩んでしまうのを我慢できず、そっと片頬を押さえた。スノボーを教えてくれたのも嬉しかったけれど、それ以上に、安室がそんなことを考えてくれたことが嬉しかった。仲良くなりたいと思っていてくれたんだ、とか。言われたことをそのまま行動に移すなんて、案外素直なんだなあ、とか。


 ――思ったより、安室さんって不器用だったり。


 そんなの、人に聞くより私に言ってくれたら良いのに。
 そう思うものの、わざわざ毛利に尋ねるあたりに、彼の実直さと不器用さを感じる。私の隣にいる時はあんな余裕そうに微笑んでいた割に、きっと色々と悩んだのだろうと思えば、じわじわと愛おしさが湧いた。

「マジ尊い……」

 パチンと手を合わせて、架空の安室像を拝んでおく。彼は二次元キャラクターではないと散々に頭に刻もうとしたところだったが、好きなキャラクターにそうまでされて喜んでしまうのは許してほしい。

 帰ったらハロの散歩に行って、ついでに安室のぶんの夜食でも作っておこう。きっとお腹をすかせて帰ってくるに違いない。私は梓の鼻歌が移ってしまって、ふんふんとレトロなメロディーを口ずさみながら明日の仕込みを始めた。




「やば、ちょっと暗くなっちゃった」

 夕陽は既に地平線からほんの少しの頭を飛び出させているだけで、私は少しだけ小走りにスーパーを出た。バイトが早く上がれたぶん、夜食用にとスーパーに寄ってしまったからだ。まだ買い物には慣れなくて、いまいちどの食品が良いだとか、そういうのに疎いから選ぶのに時間が掛かってしまう。

 相変わらずくれぐれも暗くなる前に帰るよう安室から口酸っぱく言われていたし、実際私自身も少しばかり不安が胸を占めていた。また前みたいに変な奴が寄ってきたらどうしようと思った。安室が言うには、あの男たちは組織の関係者だと言うし――。

「沖矢さんもいないしなあ」

 例え目的は監視だったと知っても、やっぱりこの帰り道を送ってくれたことには感謝をしたい。安心できる大人の男が一人隣にいる事実は、思いのほか心の支えになっていたようだった。

 チカチカと街灯が不規則に点滅した。
 太陽の光を失った路地は、いかにも幽霊やら不審者が立っていそうな固く暗い夜道だ。そわそわとする心を落ち着けて、私は小走りでマンションまで帰ることにした。早くハロに会いたい。あの小さな温もりを抱きしめたら、幾分かそれも落ち着くような気がした。

 たた、と私一人分の足音が、思いのほか道に反響していく。ダウンジャケットは、こうして動くにはボリュームがあって鬱陶しかった。マンションの灯りが目について、私はようやくその足を少し緩めた。階段の上で、安室の部屋に灯りが点いていたからだ。

 心の底からホっと安堵の息が漏れて、私はビニール袋を持ち直して、少しばかり早歩きにその場所へ急ぐ。


 ちょうど、二本目の電柱を過ぎたところだった。
 手首を掴まれた感覚に、ぎゅうと胸のうちの不安が締め付けられるようにうねる。大丈夫、安室がいると思えば、大声を出す準備は出来ていた。良し、と息を大きく吸いながら、私は掴まれた手の先を振り返る。

「……?」

 不思議と、いつものように汗を掻いたり、指先が震えたりはしていなかった。
 何だろう、奇妙な感覚だ。街灯がチカリと灯ると、フードを被った(――恐らく)男のシルエットが明らかになる。強い街灯の光に、フードの下は影ってしまっていた。そこまで恰幅が良いわけでも、ヒョロリとしているわけでもない。フードを被っていること以外に何の特徴も持たない人影だ。

「誰……?」

 男は答えなかった。ただ、どこかで会ったことがあるような気がした。既視感とでも呼べば良いのか――それにしては、記憶に残っていないが。つい助けを求めることも忘れて、私はそのフードを覗き込むように男と向き合っていた。
 
 男はただ、私の手首を掴み、ジっと立ち尽くしたまま。恐らく数十秒はそうしていて、先に我に返ったのは私のほうだった。

「あの〜……、用事がないなら行きますけど」

 そう言っても、彼は動かない。迷って手首を振り払おうとするけれど、男のほうが力は強く、中々振りほどくことができなかった。次第にその物も言わず立ち尽くすだけの態度が気味悪く思えてきて、「あの」と何度も強く声を掛けた。


「――……あ、安室さん!!」


 よく響く路地に、私の声が反響していく。聞こえたかな、ここからじゃ届かないだろうか。不安に思いながらマンションのほうを見ていると、「芹那?」と私を呼ぶ声はマンションの反対側から聞こえた。

 声のほうを振り向くと、彼はずかずかと私と男の間に割って入り、厳しい顔をして男の手を振り払う。私よりも何周りか大きな背中に安堵して、張り付きながら、ちらっとフードの男のほうを覗き見た。
「何か?」
 そう尋ねる安室の声は冷たい。私に向けられているわけでもないのに、それに一番吃驚してしまったのは私だった。返ってこない言葉に煮えを切らせたのか、振り払った際に掴んだ男の手を、安室がぎちっと捻り上げた。

 しかし暫し間を置いて、安室は訝し気に、その手を離した。諦めた――というよりは、驚きのあまり離してしまった――と、そんな風に、私には見えた。


「…………ろ?」


 安室が、ぽつりと小さく何かを呟いた。本当に零れてしまったほどの音量で、同じタイミングでハロの鳴き声がして、その呟きは殆ど掻き消されてしまった。傍にいる私に僅かに聞き取れたのは、その呟きが疑問文のようなイントネーションであったことだ。

 男は安室の呟きを聞くと、静かに踵を返して、音も立てずに歩いて行ってしまった。暗闇に溶けるような、黒いフードを被った男だった。


prev Babe! next
Shhh...