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 男が立ち去って暫く、安室はゆっくりと振り返ると私に優しい笑みを浮かべた。そして、そっと私の指先を引く。

 たぶん、彼のクセというのか――意識的かもしれないが、安室は私を連れていくときに、よくそうしていた。私の人差し指か中指あたりを、きゅっと指先で摘まむように手を取るのだ。まるで幼い子の手を取るような丁寧さに、そんなに小さな存在ではないのにと思うこともある。

「……行きましょう。怖かったですね」
「ありがとう」
「いえ、君が声を出してくれたから」

 マンションまであと少しの距離を、彼は穏やかに私を引きつれて歩いた。普段通りに穏やかな安室ではあったが、その後ろ姿がどこか違和感に満ちている。最近は自惚れでなければ、取り繕わない穏やかさであったのに、出会った頃に戻ってしまったような。原因は、先ほどの男のほかに考えられなかった。

「安室さん……?」
「――え、ああ。どうかしたかい」
「さっきの人、なんか知ってるの」

 もしかしたら、組織の中で知った顔だったのかもしれない。だとしたら、こうして尋ねるのは野暮だろうか。確かに触れた指先の温度が、ずいぶんと遠くに感じられてしまって、私は言葉を呑みこむことができなかった。

「その、不思議な人だったでしょ? 私最近、男の人に触られたりすんの苦手だけど……。危ないんじゃないかなって思ってても、なんか嫌じゃなかったんだよね」
「……ごめん。嫌だった?」
「あ、違う! 安室さんは、ぜんっぜん大丈夫!」

 しょぼくれたような声色に、慌てて首を振り否定すると、安室はククっと喉を鳴らして笑った。瞬間的に、揶揄われたのだと理解して、ちょっとだけ拗ねた。なんだ今の犬みたいな声、ズルいなあ。

「……さあ、行こう。夜食は何を作るつもりだった?」
「親子丼! ねえ、ウチって卵まだあったよね?」
「買う前に確認しなさい……。まだあるけど、賞味期限が近いから丁度良かったかな」

 そんな会話を交わしながら、私たちは家に戻った。そういえば、安室は出掛けていたのに、どうして部屋の灯りが点いていたのだろう。消し忘れたのかな。几帳面な安室に限ってそうではないような気もするけど――。まあ、良いか。私はスーパーの袋からネギと鶏肉を取り出して、冷蔵庫の中を覗いた。卵の賞味期限は、確かに明後日に迫っていた。




 驚くべきことだが、翌日も、電灯の下にその男はいた。
 センター試験対策の補習を受けた後で、時間は十八時を回る頃だった。それほど遅くなったつもりもないが、この季節柄どうしても日が沈むのは早い。受験生――一度言ってみたかった響きだ――には、どうしても時間が足りなかった。

 けれど、男は本当に何もせず、ただその街灯の下でぽつんと佇むだけなのだ。
 安室も険しい顔をしていたものの、沖矢の時のように厳しく言いつけるわけもなく、それが私の警戒心を余計に柔く溶かしていた。素通りしようか、どうしようか――。しかし安室がいない時に声を掛けるのは、やっぱり怖い。うん、今日はおとなしく帰ろう。

「……白木さん?」

 すれ違った時に、ふとそう声を掛けられた。
 その場には私と彼以外に人影はなく、すぐにその男の声だと分かる。思いのほか落ち着いた大人っぽい声色で、安室とは少し違った色気が耳を擽った。名前を呼ばれた拍子に振り返った。群青のプリーツが翻る。

「やっぱり、白木さんだ」

 ふ、と笑った声。その口ぶりは間違いなく私のことを知っているようだ。もしかしたら、フードを深く被っていて、彼自身も視界が悪いのかもしれない。それならどうして私だと分かったのだろう。全てにおいて、奇妙な人だった。

「本当だったんだ、帝丹高校に通ってるって」
「……誰? 私知ってる人?」
「さあ、知らないかもね。あはは、中身は知ってるかもしれないけど」
「どういうこと?」

 理解できないまま、眉間に皺を寄せた。彼はカラカラと陽気な声を上げて笑っている。聞き覚えがあるような気もする。ないような、気もする。

「降谷零に拾われるなんて、運が良いなあ。こっちの立場がないよ」
「ふるや……」

 その言葉に、驚いて顔を上げてしまった。そこで一つ思い至ったのは、もしかしたら彼も私のように別の世界から来た男なのではないかということだ。それなら安室の素性を知っているのにも、私のことを知っているのにも説明がつくかもしれない。だったら、別に顔を隠さなくたって――。


「――伏せろ!!」


 よく音の響く路地だった。
 びりびりと体が痺れる感覚が走って、殆ど反射的に私はその場にしゃがみ込んでいた。先ほどの声と入れ違うように、耳を劈くような発砲音。背後にあったゴミ捨て場の看板が、嫌な音を立ててひしゃげた。

 その後すぐに、ぱしゅ、と静かな、しかし鋭い音が間近を貫いていく。今度は男のすぐ後ろの街灯にビシリとヒビが入る。フードを被った男が舌打ちをして、逃げようとしたところにもう一度。今度は輪郭の間近を掠めたようで、深く被っていた黒いフードがはらっと後ろに舞い上がった。

「……ちっ」

 見覚えが、あるような気がした。
 どこで見たのだろう、その顔を。それだけは上手く思い出せなくて、ただ男の吊り上がった目つきが私の方を無愛想に睨みつけるのだけが印象深く見えた。彼は慌てたようにフードを被りなおすと、再び暗闇のなかに溶けていった。

「……大丈夫ですか」

 じり、と歩み寄った大きな革靴。私はゆっくりと視線を上げた。男は小型の拳銃から筒状の――何と言ったか。多分、映画とかで良く音が鳴らなくするためにつける部品だ――を取り外すと、懐に仕舞いこむ。
「……沖矢、さん」
 座り込んだままの私に、男は手を差し伸べた。私が手を差し出すのも待たずに、手首をぐいっと掴んで立たされる。強引な手つきは、安室のものとはまるで異なっていた。少し気まずい気持ちはあったけれど、ゴミ捨て場を振り返ると、そこには私が座り込まなければそうなっていただろう未来を知らしめるような看板が焦げ落ちている。

「あ、ありがとう……」

 強張ったままの声色で告げれば、沖矢はその手をさっと離して、重たくため息をついた。あくまで今は外なので、口調だけはそれなりに丁寧であったが、「別に大したことでは」と告げた言葉に棘があるのも確かだ。

「あの男は?」
「知らない……。昨日もここにいて、その時は安室さんに助けてもらったんだけど」

 そう答えると、沖矢は男の消えていった方を遠く眺めながら眉間に皺を寄せた。そして、こちらを一瞥もしないまま「彼は」と尋ねた。安室は明日には帰ってくるはずだと答えれば、沖矢は静かに頷いた。


「……君は、本当にこの世界に来ない方が良かったんだろうな」


 沖矢は、一本煙草を口に咥えて、マッチで火を点けながら呟いた。煙草を噛みながら喋るせいで、普段の穏やかさが掻き消えている。私は厭味かと思って口を歪めたが、彼は暗闇に一筋の煙を立てて、諦めたようにため息交じりに深呼吸をした。

「それって、どういうこと……ですか?」

 沖矢の態度が妙に喉に引っかかって、私は尋ねる。
「さあ。言葉のままの意味ですよ」
「私が邪魔だってこと?」
「それもありますが……。僕以上に君を邪魔に思う奴らがいるということかな」
 沖矢の視線の先を眺めて、先ほどの男がそうなのかと首を捻る。
 安室が言っていたから、組織にとって私が都合の悪い人間だというのは理解できた。だけど、それなら私も安室も知っていることなのに、沖矢がそうも言葉を濁すのがヤケに気になる。

「いっそ、どこか平和な土地でのうのうとしてみては?」
「……結局、どっか行けってことでしょ?」
「君も、その方が似合っているでしょう」

 沖矢は指に深く煙草を挟み込み、煙を燻らせていく。平和な土地って――それができないから、安室の傍に置いてもらっているのに。相変わらず、厭味ったらしい男だ。それに――。


「だって、そこには安室さんいないじゃん……」


 ぽそっと一人呟くと、その言葉は彼の耳にも届いたのだろう。沖矢は心底呆れたような煙混じりのため息を零した。


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Shhh...