43


 翌日、恐る恐ると街灯を覗いても、もうあの男の姿は現れることはなかった。それにホっとしたような、結局正体が分からずじまいでモヤモヤとするような気もする。安室は沖矢から聞いたのか(コナンから、なのかは分からないが)次の日の夜、私に男の詳細を尋ねた。私は隠すことなく、見たままを彼に答える。

「どういう人なんだろうね。私のこと知ってるみたいだったし、もしかしたらアッチの世界の人なんじゃないかな~って思うんだけど」
「……銃で撃たれたっていうのに、ずいぶん呑気ですね」

 安室は呆れた風にため息を零すと、茹で上がったパスタにホワイトソースを掛けた。良い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私はバツの悪い顔を浮かべる。昨夜、沖矢にもそうやってため息をつかれたからだ。
 ――あの時沖矢がいなければ命がなかったことを、分かっていないわけではない。
 楽観主義な方ではあるけれど、この世界に来てからは命の危機を感じたこともあるし、それなりに理解はしているつもりだ。

「……けど、どうしても怖くなかったんだよねえ。それが不思議なの」

 これは強がりではない。もう安室に嘘をつく必要なんてないし、正直な想いのままだ。ウーン、と悩まし気に唸ると、安室はテーブルにパスタとサラダを並べながら首を傾げた。

「前も言っていたね。それは良い人に見えた、ということかな」
「分かんない。でも……本当に、言ってることは変だったけど」

 ぱちっと軽く手を合わせて挨拶をする。安室も小さな声でそれに続いた。珍しく、何か考え込んでいるようだった。本当に、珍しい――正しく言えば、その悩むような姿を私に見せるのが珍しかった。普段は、そんな素振りも見せないような男だ。

 険しい感情が、太く凛々しい眉が歪む表情で伝わった。私はほどよい硬さに茹で上がったパスタを噛みしめながら、彼の表情を何となしに眺めた。綺麗な顔だ。だけれど、どうしてか私の心は晴れなかった。彼がそうやって顔を歪めているだけで、私の心まで靄が掛かったような気持ちだった。

 安室は暫く黙りこくってから、視線を落とした。金色の睫毛の下、いつもは私の姿を映すアイスグレーの鏡が、睫毛の影で暗く翳った。


「……君は、この世界にくるべきじゃなかったのかもしれない」


 私は思わず顔を上げて、彼の名前を呼んだ。言っていることは、沖矢とまるきり同じなのに、安室がそう言ったことが思った以上にショックだった。安室は淡々とした口調のまま、「いや」と続けた。

「すみません。帰る場所のない君に言うことじゃなかった」
「……ううん」

 私はフォークを握った手を強張らせて、首を振った。安心できる場所。平和な場所。

「でも、その場所には安室さんが、いないよね」
「……誰かに言われたね」
「沖矢さんに。この世界の中でもそう、きっと穏やかで何もなく過ごせるような場所に私がいたら、安室さんは傍にいないんだろうなって……」

 噛みしめたパスタは、味がしなかった。私も彼と同じように、やや俯きがちになってフォークの先を齧る。彼の仕事は、日本の平和を維持することだ。彼自身はいつだって平和な場所にはいない。

「そうだね」

 淡々と、安室は返事をした。なんだか、それが悲しくて。パスタを食べながら涙が浮かんだ。まるで彼が、私と別の場所に居ても構わないと答えたのだと、そう思った。堪えられない涙が、ぽろっとテーブルに丸く染みを作った。

「芹那?」

 驚いたように、安室の目つきが丸く私を見つめた。ぼろっと零れた涙を拭って、私はふるふると首を横に振る。こんな被害妄想もはなはだしいようなことで、安室を困らせてはいけないと分かっている。
 けれど、彼が家族になってくれると――そう言ったから。その時から、私の中ではずっと隣にいてくれるものだと、そう思ってしまっていたのだ。安室は慌てたようにして、指先で私の目じりを拭った。

「ごめん」
「違う……ごめん。ほんとめんどくさいことしちゃって、ごめん」
「違うんだ、そんなことを言おうとしたんじゃない。君が元の世界を取り戻せたら一番だけれど、そうじゃないんだ。君が、そういう想いをしない国を作りたいんだ……」

 慰めるように微笑んだ安室に、私は何も言えなかった。そんなことは良いから、私と今のような日常を送ってほしいと、密かに願ってしまうのは――やっぱり、悪いことだろうか。


「ごめ、ちょっとだけ頭冷やしてくる」


 止まらない涙を拭いながら、私はぱたぱたと部屋を出た。「危ないよ」と引き留める声はしたけれど、彼は決して私の腕を引くようなことはなかった。遠くまで行こうとは思わない。危ないと、彼が言っていたから。

 マンションの階段で腰かけて、冷えた空気に当たるだけで良かった。きっと、安室自身もそれを何となしに見越して追ってはこなかったのだろう。

 安室はどうしてあんなことを言ったのだろう。
 沖矢が言っていたように、私を邪魔だと思う人間がいるからだろうか。ここが、危ないから。安室自身に、私が邪魔だから。
 考えたらキリがないけれど、私はこの世界を嫌だと思ってはいなかった。彼がいる。学ぶ場所を与えられて、きっと元の世界では経験しないような知識を身に着けた。怖いことも不安なこともあったけれど、安室がいたから、今はそんな感情も飲み込むことができた。


 冷えた空気に当たり十分ほど経つと、こつんと階段を追う足音がした。振り返れば、眩いほどのブロンドが夜風にふわりと靡いた。彼は私の隣に腰かけ、いつもより少しばかり乱雑な手つきで頭をぽんぽんと撫でた。

「ごめん、さっきのは僕の言い方が悪かった」
「……うん」
「照れくさいが、僕は君のことが大切なんだよ」

 私が「嘘」と安室を睨みつけると、安室はあの綺麗な笑顔を浮かばせて、肩を揺らした。夜の中に彼の輝くブロンドは、まるでその周りだけ光を纏っているみたいに見える。

「君が思っているより、ずっと大切だよ」
「嘘だあ」
「さっきああ言ったのは、本当に君の身に危険があると思ったからだ」

 そう険しい顔で告げると、安室はトン、と私のほうに肩を凭れさせた。大きな体、凭れられると私の体はよろけて、バランスを崩したことにけらけらと笑った。

「それって、あの男の人のこと?」

 さらりと、腕に綺麗な髪が触れていく。彼の言葉に、単純な私の頭は軽く浮かれていた。今は、彼がそう言ってくれるならそれで良いと思おう。私は少しスッキリとした頭で、そのまま尋ねかけた。



「うん。……僕にも、彼の正体が分からない」


 安室は指先を組んで、人差し指同士をトントンと幾度もくっつけながら告げる。
「分からないからこそ、怖いんだ。何をしたいのかも、分からない」
「安室さんにも分かんないことってあるんだ」
「……たくさんあるさ。君とのかかわり方だって、こうして悩んでる」
 はぁ、と重たいため息が傍らから零れた。悩ましくする安室とは正反対に、私はそんな彼を見れば見るほどニヤニヤと笑みが浮かんだ。それこそが、安室の人間らしさのように感じられた。

「ニヤニヤするなよ」

 ぎゅう、と軽く頬を抓られた。
 私はその柔い痛みに笑いながら、安室のほうを横目で見る。勝気そうな垂れ目も、私を見ていた。
「パスタ、残してごめんなさい」
「……良いさ、明日グラタンにしよう」
 肩を竦めてみせた安室に、私は喜んで飛びついた。夜の空気に、私たちの声はよく響いていたと思う。


prev Babe! next
Shhh...