44


 私はバイト代で買ったリュックサックに必要な筆記用具と試験表を入れたことを確認し、腕時計を見遣った。腰を上げて物音のするキッチンに顔を出した。もう何度目なのか、ピカピカの皿にずっとスポンジを滑らせている安室に私は苦笑いを零す。

「もう行くのかい」
「もうって……そろそろ行かないと。先生にも余裕もって行けって言われてるし」
「やっぱり送っていこうか」

 センター試験の当日。私も多少の緊張はしていたけれど、元より楽観主義な体質もあり、まあなるようになると思っていた。一か月前には考えもしていなかった進路なのだから、結果が悪くてもしょうがない。一度挑戦の機会を得ただけ感謝しなければと、そう思っていたからだ。

 安室は昨夜から矢鱈そわそわと私の様子を気にしていて、それがちょっとだけ面白かった。なんでそっちのが緊張してるんだと笑ったら、安室はバツが悪そうに項を掻いていた。いつものスニーカーを履いて、靴ひもをしっかりと縛りなおす。一応午前には終わる予定で、その後は友達とご飯を食べに行くので、帰るのは夕方になるはずだ。

「安室さん、今日は仕事?」
「いや、今日は家にいるよ……。気を付けて」
「うん。ありがとう」

 行ってくるね、とリュックを背負いなおすと、ふと指先を掴まれた。振り返る。安室はジっと私を見据えてから、その指先を小さく引き、私の体を引き寄せた。ぽすんと、その体に抱きとめられる。先ほどまで淹れていたコーヒーが香った。
 普段の言動に反して不器用な手つきが、ぽんぽんと、優しく背を叩いた。それが嬉しくて、私は彼の背を抱きしめ返した。温かい。心地よく感じる体温を手放すのが、少し惜しい。

 その体から手を離そうとしたら、安室はもう一度しっかりと私の背を抱いて、これが今生の別れだとでも言うかのように大きな手で後頭部を強く撫でた。
「痛いよ」
 安室らしからぬ乱雑な手つきに、私は笑った。嫌じゃなかった。安室は私を抱きしめたまま、「芹那」と名前を呼ぶ。ぱっと顔を上げると、会った頃より伸びた前髪がくすぐったく私の輪郭を掠めた。金色のカーテンの中で、彼の虹彩だけが鮮やかだ。

「……遠くでも、君のことを大切に想っている」
「……なにそれ、たかが試験じゃん」
「良いから、忘れないでくれ。どこにいたって、僕は芹那の味方だよ」

 ふにふにと、指先が私の頬を柔くつねりながら、安室は口の端を持ち上げた。私はその表情にちょっとだけ自惚れて、ニヤニヤとしながら尋ね返した。

「家族?」
「――ああ。そうだよ。だからいつでも、僕を信じて」
「モチ。安室さんを疑ったことなんて……あるけど」
「ふ、素直でよろしい」

 ぎゅうとその首に抱き着いて、私も彼の丸っこいブロンドを撫でる。一通りその指通りを味わうと、体を離して穏やかに笑う彼の顔を見て頬を緩めた。安室は私へ手を伸ばすと、今度は抱きしめるのではなく、するりと後ろ髪を持ち上げて器用に一つに結い上げてくれた。マフラーの外で、緩く結ばれたポニーテイルが踊る。

「ありがとう」
「うん。気を付けて」
「行ってきます!」

 玄関を開けると、ちらほらと細かな雪が舞っていた。寒そうだ、そう思いながら、私は足を踏み出した。――「行ってらっしゃい」、と安室の声を、背中で聞いた。





「つっかれたー……」

 ぐったりと机に突っ伏して、数十秒。既に退出の指示が出ており、周囲の生徒たちは余韻もなくすたすたと部屋を出ていく。正直全問手ごたえがあったなんてことはないけれど、安室に言われた通りひとまず全部マークシートにチェックはしておいた。英単語や古典などの、暗記した部分は多少なりと解けたし――。まあ、私にしては上等だったと思おう。

 欠伸を零しながら、友達と近くのファミレスに入った。
 試験会場の傍にあった所為か、学生が多く、私たちもその風景の一部であった。友達とあれはできなかったとかコレはこうだったとか後悔を繰り返しながらも、そんなやり取りが何だか幸せだった。

 新しくしたものを似合っているねと言われれば。
 好きな人に一つ挨拶を返されれば。
 いつも売り切れの自販機で、ココア缶の一つでも買えれば。

 それが幸せの一部だと感じていたあの時と同じだ。ほんのりと小さな幸せをハンバーグと共に噛みしめて、私は帰路につく。友達と笑顔で別れてから、機嫌良く踵を返した。

 ――帰ったら、何と報告しようかなあ。

 思ったよりできたよと笑おうか。ぼちぼちだったとクールに振る舞おうか。どちらにせよ、きっと安室は笑顔で褒めてくれると思う。勉強をして褒められるのなんて、小学校の低学年以来だ。悪くないなあ、と機嫌良くアスファルトを踏みしめていく。

 最寄り駅からマンションへと向かう途中、サイレンの音が聞こえた。赤色灯がくるくると回っていて、眩しい。なんだか人の声も騒がしくて、私は首を傾げながら、夕陽が沈んでいく道を歩いて行った。

「ねえ、聞いた?」
「ええ。あそこのマンションねえ……。前建ってたアパートから立て直したばっかりでしょう?」
「もしかしたら呪われてるのかもね。女の子も一人亡くなったって」
「気の毒に」

 人混みから漏れ聞こえる不穏な会話に、胸がざわついた。歩調が、段々と早くなる。マンションの周辺はバリケードテープが張り巡らされていて、私の目を益々痛くした。野次馬を掻き分けて、エントランスの前に出た。まだサイレンに照らされたマンションを仰ぎ見る。


「……嘘」


 真っ白だった壁は見る影もなく、黒ずみ、灰色の煙が窓から空に昇っていた。窓の黒い焦げを見る限り、火元は私の部屋かそのすぐ近くだったことは明かだ。

 ――どうして、何で。

 眉間に皺を寄せて、呆然と部屋を見上げていたら、強面の刑事が声を掛けてきた。ずんぐりとした風貌の男で、声も見た目としっくりくるようにしわがれている。

「あー、お嬢さん住人かい。悪いがあと一時間かそこらは入れそうにないんだわ」
「……か、火事ですか?」
「まだ調査中で事件か事故かはハッキリしねえんだがなあ。何しろ人が一人亡くなっちまって……。気の毒なもんだ、丁度お嬢さんくれえの若い女の子だったそうだよ。高校生で一人暮らしだったんだと」

 私はその話を聞いて、嫌な予感が止まらなかった。ぎしぎしと、心が軋んでいく。五月蠅く鳴る鼓動を押さえ込むように相槌を打つと、私は踵を返した。――ポアロには、安室はいるだろうか。沖矢でも良い。この状況を説明してほしかった。

 安室が、まるで別れの挨拶のように、私を抱きしめてきたことが頭に染みついて離れない。

「……ッ、安室さん……!」

 待って、行かないで。安全じゃなくても、平和じゃなくても良いから。掻き分けてきた人混みを、再び縫うようにして戻っていく。どこへ向かっているかも判断がつかないままに、足を進めた。早く、早く――!

 ようやくのこと人だかりを抜けて、ひとまずポアロへと足を向けた。安室がいるかは分からなかったけれど、マンション以外に彼の場所を知る唯一の場所だったからだ。

 走った。ひたすらに、走った。寒さで膝が赤くなった。リュックのなかで筆記用具が音を立てる。邪魔になって投げ捨てそうになる衝動をぐっと堪えながら走った。大丈夫、あと少し。きっとポアロに行ったら、彼がいつものようにいるはずだから。「どうかしたのかい」、と。キョトンと皿を磨きながら立っているはずだから。

「……あ」

 自分に言い聞かせながら走っている途中で、リュックサックをぐっと掴まれた。私は声を零す間もなく、くらりと意識が反転して、そのまま暗闇に意識を溶かしてしまった。

 
prev Babe! next
Shhh...