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 くらくらとする頭を押さえながら瞼を持ち上げた。意識はまだぼんやりとしていて、今まであったことを思い出すのに時間が掛かったくらいだ。そうだ、マンションが――。そこまで考えて、私は頭痛に顔を歪めた。くるりと辺りに視線を配って環境を確認する。
 マンションの個室とは異なるけれど、私がいるのはベッドの上だった。何の変哲もない白いベッド、大きさはセミダブルくらい。壁紙は淡いサックスブルーで、窓枠には星の絵面が散りばめられていた。一見、子ども部屋のような雰囲気だ。部屋の中は温かいが、曇った窓ガラスから外気の冷たさを感じる。
 
 ゆっくりと体を起こしたら、暖かな羽毛布団が捲れる。丁寧に毛布まで敷かれているあたり、どうやら悪い人に掴まったわけではない――のではないだろうか。単純な頭では、そのくらいの推測しか立てれなかった。

 どうやらマンションらしくはなく、どこかの家の一室のような雰囲気だ。ドアをちらりと開けると、下へと降りる階段があった。長い間寝ていたのか、着ていた制服は皺が強く残ってしまっていた。
 降りるべきだろうか。一度白い扉を閉めてうろうろと部屋の中を物色していると、扉の外から階段を上がる軋みが聞こえた。ギクリとして、一応ベッドの縁に腰を掛けておく。扉を開けると、そこにいた男は少し驚いたようにこちらを見た。外人らしい、薄くくすんだグリーンアイだった。

「……こ、こんにちは」

 その顔を見た瞬間、この状況が何かはともかく、自分の体に危機はないと安心して力が抜けてしまった。はは、と愛想笑い気味に声を零すと、目の前にいた紳士的な男は髭に隠れた口元をニコリとさせたのが分かる。

「こんにちは、お嬢さん。体は平気かね」
「まあ、ちょっと痛いけど……」
「無理もない。彼是四日間横になっていたのだから」
「四日間!?」

 そりゃあ、頭も腰も痛いはずである。どうやら水は飲ませてくれていたのか、喉の渇きこそなかったけれど。そう意識をしたら、お腹がぎゅるると音を立てた。下腹部を押さえて唸ったら、初老の男は苦笑いをして私を手招いた。

「おいで。軽食でも取ろう」

 差し出された手を掴む。ヒンヤリとした薄い皮膚。優しい手つきに引かれて、私は痺れる足を動かして階段を降りて行った。

 ウッド調のダイニングテーブルには、かじりかけのサンドウィッチが置かれていた。男は一つ咳ばらいをすると、新しいものを取り出してくれた。ポアロのサンドウィッチよりもずっとパサパサしていたけれど、淹れたてのホットミルクと合わせる分には程よい。もぐもぐと口いっぱいに頬張れば、「ゆっくりお食べ」と男は笑った。

 紳士的な雰囲気を纏う男を、恐らく私は知っている。
 どうして目の前にいるかは、分からないけれど――。ミルクを一杯飲みほした頃、男はようやく話を切り出した。

「……さて、聞きたいことは?」
「あ、えっと……とりあえず、ここは……?」
「ここはオンタリオ州、こちらの協力者の借家だよ」
「……お、おんたり……?」

 聞き慣れない単語に首が斜めに傾いていく。男は私のたどたどしい復唱を耳にすると、分かりやすく言葉を仕切りなおした。

「ああ、カナダのオンタリオ州――。とある男に頼まれてね、君には証人保護プログラムを適用させてもらった」
「証人――えと」

 待て、落ち着こう。証人保護プログラム、というのはコナンの中で聞いた事がある。確かジョディが言っていたのだ。名前や戸籍を別人のものにして、証言者を保護する制度。そして、目の前にいる男の存在に、私は一人の男の姿が浮かんだ。

「あ、赤井さんが言ったんですか?」
「おや、噂通りこちらのことはよく知っているようだね。ジェイムズだ」

 にこりと握手を求められ、名乗りながらそれに応える。しかしジェイムズはおっとりと、静かに首を振った。
「だが、頼まれたのは赤井くんじゃない。ほら、君が一番よく知る捜査官だよ」
 そうぴっしりとしたスーツを纏った肩を竦められた。私が会ったことのある潜入捜査官と呼べる男は、二人しかいない。赤井秀一と――安室透だ。まさか、と顔を上げれば、ジェイムズは穏やかに紅茶を口にした。

「あちらからの申し出だった。それを適用させて協力さえしてくれれば、赤井くんのことをこれ以上探ることはしないと。どちらにせよ、組織にリークされては大変だったのでね、条件は飲むしかなかったよ」
「……安室さんが」

 ふと、コナンに渡していた封筒が頭に過ぎる。そうだとしたら、彼はずいぶんと前から私をこちらに送る気だったのだろう。そんなことをつゆ知らず、私は一人で浮かれていたのか。考えたら、虚しかった。

「彼の計画は完ぺきだった。焼死体は個人情報や死亡推定時刻を左右しやすい。自分の任務もこなしたことにできるし、君の安全も確保できる」
「私の安全?」
「死んだ人間を、それ以上追おうと思わんだろうさ。組織の奴らが、赤井くんにそうだったように……」

 私の、安全――。
 赤井のことを憎む想いを、きっと私はよく知っている。あの日打ち付けられた壁の音を、聞いていたから。それを差し置いてまで、腹のうちに溜め込んでまで、私を安全な場所へと逃がしてくれたのだ。
「そっか、安室さんが……」
 呟きを落とすと、ジェイムズは優しい手つきで肩を軽く叩いてくれた。

「君の気持ちは分かる。きっと彼に大切にされていたんだろう。これからは君はここの住人として、幸せに日々を営むことになる。近くには良い大学も沢山ある、土地柄も良い」
「……ここで、一生暮らすの」
「勿論、一生とは言わんさ。芹那くん、君はまだ若い。だが――組織の奴らが一掃されるまでは、中々難しいだろうが……」
「なるほど、ありがとうございます」

 私はぺこりと彼に頭を下げた。きっと忙しい中だろうに、私に付き添ってカナダまで来てくれたのだ。ジェイムズの優しい「気にしないでくれ」という言葉にもう一度頭を下げてから、私はもう一滴二滴しか残っていないホットミルクを、カップを逆さにして喉奥に流し込む。

 戦慄くな、唇。滲むな、涙!
 
 震えそうになった指先を巻き込んで、私はマグカップをダイニングテーブルにがんっと勢いよく置いた。取っ手にヒビが入ったかもしれない。

『どこにいたって、僕は芹那の味方だよ』

 安室が名残惜しく私を抱きしめた、その体温を思い出した。きっと彼なりに、私のことを想いやってくれたこと。そんなことは理解できている。得体が知れないと言っていたあのフードの男を、不安に感じていた気持ちも分かる。

 でも――でも、ムカついた。
 どうしようもなく腹が立つ。私の幸せを、勝手に決めるな。
 確かに命を失うことは恐ろしかった。乱暴を働かれるのは怖い。だけど、それ以上に、私はあの人と一緒にいたかった。初めての感情だった。

 安室の言う通り、私は昔から事勿れ主義というか、物事には執着せずに生きてきたほうだと思う。そのほうが傷つかなくて済む。失敗したとき、失ったとき、ヘラヘラと笑って納得することができるからだ。そうやって、生きてきた。

「やめた」

 自分でも抑えきれないほどに、私はあの男に執着している。
 一緒にいられないことが歯がゆく悲しい。何があっても、二人で笑う日々を、あの日手放した体温を戻して見せる。何も話さずにカナダに送ってすみませんでしたと、三日三晩ずっと私の好物を作らせて添い寝を命じてやる。


「あの海で私を拾ったのが運の尽きだったって、思わせてやるし……」

 
 何も知らない土地で、私は一人拳を握る。ジェイムズが、力が抜けたように苦笑いした。涙は、次に彼に会うその日まで、暫し堪えておくのだ。


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Shhh...