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「白木さん」

 私を本名で呼ぶ声は、昨今ただ一人しか思い当たらない。振り返ると、案の定ニコニコと仏みたいな顔をした男が手を振っていた。手に持っている仕事用の鞄を見ると、どうやら彼も仕事終わりのようだ。

「新出せんせー。もうお仕事終わったの?」
「今日は出張で、院のほうは休業してるんだ。丁度良かった、晩御飯でも買って帰ろうか」
「やったー! 私今日はハンバーガーが良いな」

 駐車場まで二人で歩くと、ドライブスルーで馴染みのバーガーショップに寄った。こちらに来て最初のころはメープルシロップに感動していたけれど、もう慣れてしまった。日本より塩気の適当なポテトを齧りながら、広い空を車窓から見上げる。

 私がカナダに来てから、すでに三年の月日が経った。地元の大学に入学し、今はキャンパスライフを満喫中である。新出は証人保護プログラムの先人として、安室がサポートに声を掛けてくれていたらしい。私の後を追って、わざわざこの地に移住してくれている。最初は物価も英語も何も分からないままで、ジェイムズもこの地に長くは留まれず途方に暮れていたものだから、彼がいてくれたのは本当に助かった。受験の手続きから生活の知識まで、さすが若くして病院を継いだだけあり、彼は優秀な医師だった。

「なんだかご機嫌ですね」
「あはは、分かる?」

 私は頬をニヤニヤとさせたまま、コーラでぱさついた口の中を潤した。
 この三年で、世の情勢はずいぶんと変わっている。ジェイムズから伝え聞く限り、既に組織は壊滅状態にあり、FBIも日本から撤退しているらしい。私が日本から姿を隠している間に、原作は終わりを迎えているのだ。
 それ以上のことは知らない。江戸川コナンがどうなったのか、組織の幹部たちの行方は――。さすがにそこまでのことをペラペラと喋るような立場に私はいなかった。ただ、一つ言えるのならば、これで私の異世界人というステータスは全くもってただの附属品に成り下がったということだ。だって、私の持つ知識にはもう二年の遅れがあるのだから。

 ジェイムズから、日本に帰っても大丈夫だと通達があったのはついぞ一週間前。日本警察の追撃で、指名手配されていた最後の幹部が捉えられたのだと聞いた。以来、私はひそかに待っていた。帰ってきても大丈夫だと、安室から連絡の一つが入ることを。

 
 ――だけど、来ないのだ。
 もう戻っておいでの一言が、いつまでも掛からない。ほー、なるほどねえ、私はもうどうでも良いってこと? そんな一方的な拒否が、この三年間、彼への想いを募らせた私に通用すると思ったら大間違いである。


「と、いうわけで……。ジャジャーン」


 私はご満悦に、新出に先日取ったばかりの飛行機のチケットを見せた。勿論、二枚分だ。新出はチケットと一緒に並べた通帳を見ると、飲んでいたコーヒーをごほっと咽させた。
「い、っ、ごほっごほっ、まに……」
 ――いつのまに、と言ったのはニュアンスで聞き取れた。通帳に書かれているのはここでバイトをするときに作った銀行の口座で、毎月FBIから振り込まれる生活費とは別途である。生活費を節約してちまちまと、バイト代からも貯金を続けて、満を持して三年。ようやくこの貯金を活かす時が来た。

「そんなことしなくたって、ちゃんと申請すれば帰国費用くらい……」
「でもそれじゃあ安室さんに伝わっちゃうじゃん。いつまでも迎えに来ないんだもん」

 ちょっとくらい驚いてもらはなくては。悪戯にチケットを振り回していたら、新出は苦笑いを浮かべた。多分、ここ三年で私の我儘には大概慣れたのだろう。ここに来たばかりの時は、日本に帰りたいと散々にごねていたから――、いや、結構一年前くらいまで定期的に言ってたかも。

「……それに、もしかしたらコッチいた方が都合良いって思われてたらやだから」

 指先をもじもじとさせて呟くと、新出は柔らかな眉を下げた。今なら、こっちに国籍もあるし、大学に在籍もしている。先日テストが終わったばかりで、次の秋までは長い春休みだ。もし拒まれてどうしようもなくなったら、逃げ場があった方が良いと、ちょっとだけ怖気づいてしまった。FBIに帰国申請をしたら、もう日本にいるしかなくなってしまうのだし。

「事情は分かりました。自分の帰る場所があるというのは良いことですから」

 にこ、と穏やかに新出は微笑む。
 彼がどこまで私のことを知っているのかは、定かじゃない。もしかしたらジェイムズたちから一通り聞いているのかもしれないし、何も知らないかもしれない。ただ、彼は何も知らなくとも、きっと全ての人間に対してこういう男なのだ。お人好しというか、聖人じみているというか。

「新出先生……。この間は彼女との時間を駄目にしてごめんね……」
「それは言わなくて結構ですから……。彼女じゃありませんし……」

 先日、彼が歩いている背中を目にして、一目散に抱き着きに行ってしまった自分が恨めしい。もう少し良く目を凝らせば、彼がしっかりと背広を纏っていて、横にはアジア系の美女がドレスを着ているのも目に着いたのだけど。私の姿を見ると、彼女は日本でも英語でもない言葉で何やら罵声を浴びせて立ち去ってしまったのだ。曰く、仕事で会った患者の一人のようで、何度か食事の予定を入れていたらしい。こんな良い男のフラグをパーにしてしまった罪は背負いきれない。

 新出は眼鏡の位置を直しながら、気持ち頬を赤くした。揶揄い甲斐のある大人である。
 まあ、かくいう私ももう一応大人の仲間入りなのだけど。酒を飲むようになった程度で、未だその自覚は全くない。たまに、女性として云々と説教をするのは新出くらいだ。

 私は玄関に飾ってある大き目の姿見を見た。
 別に、三年前から劇的に見た目が変わったわけじゃない。制服は着ないけれど、服の趣味も然して変わってないし、髪の毛もここの大学だと黒髪というのは逆に珍しくて、それが気に入っていたので染めていない。もしかしたら、胸が少しだけ大きくなったかも。(太ったとも言うかもしれない――)。きっと、一度見ればすぐに私だと気づくだろう。

「うん。大丈夫だよね」
「はい、きっと。ところで、飛行機の発便はいつですか」
「明日の朝!」

 ごほっ、と本日二度目の咽び声が響いた。私はきょとんとして「え?」と首を傾げたら、新出は諦めたように息をついた。
「荷物を纏めましょう」
 はは、とブリッジに指を掛けて笑う顔に、私もにへらと笑った。まあ、ちょっとばかり急だとは思うけれど――。早く安室の顔を見たい。こんなことなら、写真の一つでも貰っておくのだった。

「まあ、いっか。会いに行けるわけだし」

 ――と、そこまで呟いて、私ははてと首を傾げた。
 そういえば、あのマンションは部屋が燃えてしまったわけで。というか、そもそも組織を追う必要がなくなった今、安室透という男は存在しているのだろうか。会いに行くって、どこに行けば良いのだろう。
 難しく眉間に皺を寄せた。とてもじゃないが、梓に素性を明かすようには思えない。ひとまず日本に行ってから考えようか――。出発するための荷物をキャリーに積めながら、でもそんなことを考えるのも楽しかった。折角なので、私が全文英語で提出した小論文も持っていこう。さぞ驚くだろうと得意げに考えながら、パンパンになったキャリーをなんとか押し込めるのだった。


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Shhh...