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 清々しい空気に、キャリーの小さなタイヤがゴロゴロと転がる音が響き渡る。カナダの冬は相当寒さが応えたので、桜の花びらがハラリと舞う穏やかな陽気に心が躍った。買ったばかりのスニーカーは正直それほど軽い代物じゃなかったのだが、それすら気にならない。
「日本サイコ〜!」
 私はるんるんと今日泊まる予定のホテルへ足を向けた。新出が大き目のバッグを背負いなおしながら、のろのろと後ろをついてきた。チェックインを済ませてからは、米花町をぶらぶらと散歩した。かつて私の部屋があったマンションは、修繕後外装の色を変えてブラウンの壁が立ち並んでいる。相変わらず、野良猫がよく出入りするマンションだった。

 私は上の階層を見上げる。さすがに、安室はいないだろうか。そうは思ったけれど気になって、ジッと近くの花壇で日向ぼっこをしながら見上げていると、知らない夫婦が安室の住んでいた部屋から姿を現した。

「……まあ、だよね」

 そもそも潜入捜査の意味がなくなったのなら、ここに住む理由もないのだし。私は肩を竦めて、それからゆったりと鼻歌まじりに散歩をした。黒いミニスカートに、ブルーのスウェット。少し厚手のものを選びすぎたかもしれない、歩いていたら体温が篭って、腕は軽くまくり上げていた。

 
 そういえば、組織がなくなったのなら、多少なりと私の知る原作から変わっているのだろうか。そうだ、江戸川コナンは元の姿に戻れたのかな。だとしたら、工藤邸には工藤新一がいるのかもしれない。
 ――それは、ちょっとだけ興味がそそられた。
 確かにミーハーなファンではあるけれど、一応漫画を読んだ身としては、ものすごく気になる点だ。ハロの散歩に通っていた道を使って、私はその好奇心の赴くまま工藤邸に向かった。

 ――いや、もしかしたら工藤新一なら、安室のことを知っているかもしれないし。

 うんうんと一人頷きながらも、心の中の好奇心が勝っている。私はソワソワとしながら、一段と目立つ洋館に足を運ぶ。街並みは以前から然して変わらない。もしかしたら変わっているのかもしれないが、私の記憶には残らない程度の変化なのだろう。

 古めかしい呼び鈴を押すと、洋館の中にキンコンと音が響いた。カメラに向かって名乗り出れば、重苦しい扉が僅かに開いた。


「……え?」

 そして、予想していた姿とはまるで異なるその立ち姿に、私は口角を強張らせて首を斜めにした。黒い春ニットのハイネックにチノパン、亜麻色の髪が日に照らされる。知的な眼鏡の奥で細められた目つきが、私を捉えて意外そうに小さく開いた。

「お、沖矢さん……」

 なんで、という声は、殆ど空気を震わせなかった。
 だって、組織がもうないとしたら、安室と同じように沖矢がこの邸にいる必要はないのだ。そもそも赤井が変装をしているのは、組織から身を隠すためなのだから。
 組織がないという情報自体がダウト――。いや、でもジェイムズがそんな嘘をつくとは思えない。まさかとは思うが、そんな中途半端な状態で帰国を許可するくらいだったら、最初から証人保護プログラムなんて適用させないだろう。

 私が目を白黒とさせながら後ずさると、沖矢は口元を摩り何か考え込むようにしてから、私のことをちょいちょいと手招いた。確かに、何か事情があるのならば、外で話すようなことではないのかもしれない。

 私は軽く会釈をしてから、久しぶりに工藤邸へと足を踏み入れた。
 玄関には沖矢の革靴以外に、もう少しだけサイズの小さな男ものの靴が並んでいる。恐らく――順当に予想するならば、工藤新一のものだろうと思う。(既にその順当≠ゥらは外れてしまっているので、定かではないが)。

「お、お久しぶり……です……」

 以前この邸を訪ねた時には、ずいぶんと迷惑をかけ――後悔はしていないけれど――、加えて相当気まずいシチュエーションを作り出してしまった身であるので、少しだけ肩身が狭かった。言われるがままにリビングに招かれて、淹れられた紅茶に礼を述べる。

「帰ってきていたんですね、知らなかった」
「アハハハ……。ジェイムズさんに聞いてませんでした?」
「確かに帰国許可が下りたとは聞いていましたが」

 まさか前触れなく帰ってくるなんて――。
 呆れたように、沖矢は穏やかに眉を八の字にさせた。私はそう笑う彼の表情を見て、呆気に取られてしまった。身構えていたものがポロっと抜け落ちた気分だ。てっきり、散々に厭味でも言われるのではと思っていたから。
 今がどういう事情かは分からないけれど、組織という大きな敵がなくなり、彼も毒牙が抜けたのだろうか。
 私は訳が分からないまま、けれど喉に引っかかったような疑問が堪えられなくて、そのままに尋ねてしまった。

「沖矢さんは……どうしてまだここに?」

 じいとその姿を見つめていると、沖矢は「それが、少し事情がありまして」と言葉を濁した。問いただそうとは思わないが、気に掛かるのは確かだ。その疑問を何とか飲み込もうとティーカップに口をつけて、私はまたも驚いた。

 今までも幾度か沖矢に紅茶を淹れてもらったことがあったけれど、確か赤井はイギリス生まれであったと記憶しているのだが――まさに、茶葉色のお湯とはこのこと、そんな紅茶しか淹れなかったのだ。絶妙にぬるいし、香りも殆どない。折角高いティーセットと茶葉なのに、勿体ないなあと思った記憶がある。

 それが、今日の彼の紅茶は美味しい。
 ふわっと爽やかなフレーバーが香って、口触りも良い温度だった。人間、三年もあれば成長するものだ。アルファベットの並びさえ曖昧な私が、いつのまにか英文を書けるようになったのだから、まあそういうこともあるだろう。

「何か」

 私が呆然としていたからだろう、沖矢は苦笑いを浮かべながら首を傾げた。私は慌てて首を振ると、素直に紅茶が美味しいのだと漏らした。こんなところで、嘘をつく必要はない。以前のように、隠しごとや条件があるわけでもないのだから。

「紅茶が……」
「だ、だって……あはは、ごめん。前の紅茶、言っちゃなんだけど不味かったから……」
「ふ、それは申し訳ない。お口にあって何より」

 口元を押さえて、沖矢は可笑しそうに肩を揺らした。
 良かった、別に癪に障ったわけではなさそうだった。私はホっと息をついて、彼に今皆はどうしているのか知らないかと聞いてみた。

 沖矢が知る限りでは、江戸川コナンは工藤新一に姿を戻したが、灰原哀は現在も灰原哀という少女として、今も阿笠宅に籍を置いているらしい。彼らの近況に想像を膨らませながら、少年探偵団の彼らももう四年生なのだと聞いて時の流れを感じた。

 さすがに彼にあまり関りのない人たちのことは知らないらしく、また今度新一に会ったときに聞いてみようと考えながら、私は本命の彼についてを口にした。


「……ちなみに、安室さんって、どこにいるかとか――知りませんか」


 ドキドキと小さく鼓動が鳴る。期待が半分、不安が半分。これでもし知っているといったら、会いに行って――何から話そう。まずは彼に私の想いを全部ぶちまけて、それからどうしよう。早くなっていく鼓動を沈めるように鼻だけで深呼吸をする。沖矢は数秒の間を置いて、申し訳なさそうにティーカップを置いた。

「……僕が知っていると、思います?」

 と、彼は厭味っぽく片の眉を吊り上げて肩を竦めた。
 ――まあ、思わないけれど。確執こそなくなったかもしれないが、彼らがプライベートでもニコニコと予定を合わせている姿は想像できなかった。いや、イケメンとイケメンが一緒にいて嬉しくないわけもないのだが。

「そっかあ……。梓さんに聞いてみようかな」

 ため息交じりに肩を落とせば、沖矢は他人事のように「そうですねえ」とワザとらしい敬語で、ゆったり相槌を打つのだった。


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Shhh...