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 昔に比べれば、綺麗なノートを取るようになったと思う。
 向こうでは日々英語の勉強やら新しいバイトやらに明け暮れていたけれど、休日になると決まって安室に渡されたテキストを開いていたからだ。元から書き込みや付箋だらけだったテキストも練習帳も、私の書き込みが上回るほどに読み込んだ。それは、字が上手くなりたかったから。暇だったから。という理由もあるけれど、実際にはこのテキストを開いている時には、安室の姿を鮮明に思い出すからだった。
 
 勉強だけじゃない、料理をしているときも。
 私のたどたどしい包丁遣いを落ち着かない表情で見守る彼の視線が、すぐ傍にいるように思い出される。彼の筆跡を辿る、彼の味付けを再現する。そうしたら、ちょっとでも気持ちが紛れる気がするのだ。

「……」

 勿論、新出と一緒にいるのが嫌なわけじゃない。
 異国生活を続けるにおいて、彼は大きな支えだった。何度、もう帰りたいと彼に八つ当たりしたことか。ただ穏やかに受け止めてくれる彼に対して、泣きながら早く日本へ行きたいと嘆いたことか。
 新出は、叱りつけることもせず、本当に「そうですね」と頷いていた。それがどれだけ救いになったか、測り知れないところがある。奇妙な話だ。世界を超えてこちらに来たときには駄々をこねたりなんかしなかったのに、たかだか海を超えたときにはこんなにもホームシックになるなんて。

「変なの……」

 たった一人の男にここまで感情が左右されるなんて、本当に不思議だ。だけど、彼が傍にいないことが、私にとっては大きかったのだろう。その大きい手の温もりが、どうにも心を落ち着かせる。

 ホテルの中で、テキストの間に挟んだままの封筒を大切に仕舞いこみ、私はまだ九時も回っていないうちにベッドに入ることにした。大丈夫、日本のどこかにはいるはずなのだから――。きっと、会えるはずだ。

 私はそっと布団の中で、小さい子どもみたいに丸まった。どうか朝がくるのならば、あの眩い太陽のような金色が良いとと心の底から願いながら。





「で、どうしてここに来るんですか」
「……えへ、なんでだろ」

 呆れたように手元にあった小説の頁を捲りながら、沖矢がため息をついた。だって、どこに行っても安室の手がかりが落ちているわけもなくて、いざ彼を探すと決めても行き場がなかったのだもの。
 クラスメイトや梓や――会いたい人は何人もいるはずだったのに、気が付けばつま先は昨日と同じ方向へ向いていた。自分でも、その理由はよく分からない。沖矢は呆れた、と言いたげに額を押さえるけれど、追い返すことはなかった。今日の紅茶はアッサムのミルクティー、若く飲みやすい味わいだった。

「うっま〜……」

 自分の淹れたものとは何か淹れ方が違うのか、それとも茶葉の違いなのか。私は思わずゆるゆると頬が綻んでしまうのを感じながら、軽く頬を押さえた。

「沖矢さんは、いつも家にいるんですか?」

 ティーカップを両手で支えながら尋ねると、彼はストレートの紅茶を口にしながら相槌を打った。
「いえ、新一くんが留守の間だけ家を借りてるんです」
「え、新一くんここに住んでないの」
「普段は探偵業をしていますから。全国引っ張りだこですよ、あの少年はね……」
 沖矢はどこか微笑ましそうに、ククと笑いながら、客間に飾ってある家族写真を見遣った。
「蘭さんが、折角会えるようになったのにと憤っています」
 そう肩を竦める。コナンの姿でさえあれだけ事件に首を突っ込んでいたのだから、しっかり本業として成り立てば、そりゃあ津々浦々事件解決のために駆けまわることだろう。『新一!』なんて頬を膨らませながら彼の帰りを待つ少女を思うと、確かに微笑ましく思う気持ちも分かった。

「良いな〜、私も早く安室さんに会いたい」

 そういえば、映画の中で蘭が待てば待ったぶんだけ、会えた時に嬉しいと言っていた。だとしたら、次に安室に会ったときの私の喜びは相当なものになるだろう。今はそれを期待して我慢するか――。なんて心の中でぼやいていたら、沖矢がケホっと小さく咽込んだ。
 私は何の音だと目を丸くして視線を持ち上げる。袖口で口元を拭いながら、沖矢は苦笑いを浮かべて見せた。

「すみません。君がまだ、その……彼のことを考えているとは思わず」
「はー、何言ってんの? 私、安室さんのこと大好きだもん。絶対見つけ出して、もっかい一緒に暮らすんだから」
「……彼が、今は無理だと言っても?」
「駄目、三年間無視したんだから、埋め合わせさせる」
 
 ついっと顔を逸らして拗ねた素振りをすると、沖矢はやはり可笑しそうに笑いながら「まだ子どもだな」と呟いた。

「……まあ、安室さんが私のこと要らないからアッチ行けっつーなら、カナダに帰るけど。あっちの生活も嫌いじゃないし……」
「ホォー……。やはり寒いんですか」
「めっちゃ寒い! でもその分景色はメチャクチャ綺麗だよ、人生で初めてオーロラも見に行ったし、都会に行けばオシャレなお店もたくさんあったの」
「それは良かった」

 そう微笑んだ彼に、何が良かったのだろうか――と一瞬戸惑ったが、そういえば安室が口利きを頼んだのは赤井だったとジェイムズから聞いていた。そうなると、彼も私のことを守ってくれた一人と言えるのだろうか。感謝しておかないと。(――単に邪魔だったという説も、否定できない。)

 柔く微笑みながらティーカップの中を揺らす姿に、ふと安室の面影が重なった。顔や声は似ても似つかないけれど、少なくとも沖矢昴という仮の姿は、安室透の姿と僅かに似通うところがあった。
 そんな姿を見ていたら、ジワジワと胸の端に留まっていた虚しさが、中心に向かって浸食を始める。私はカップを置いて、指をモジモジとさせながら、殆ど独り言に近いような呟きを落とした。


「……でも、やっぱり安室さんがいないと寂しいや」


 へら、とせめてもの愛想笑いを浮かべながら。こんなこと、沖矢に話したってしょうがないことだと思いながら。

「僕には不思議です。たった数か月一緒に過ごした男に、数年焦がれるほど思い入れがあるなんて」
「時間の長さ、関係あります? 赤井さんだってそうだったじゃないですか、私知ってるんだから」

 ふふ、とちょっとだけ厭味っぽく笑ってみせる。沖矢は眼鏡の位置をくいっと直してから、広い肩幅を小さく落として、つられるように笑った。やっぱり、以前よりもどこかニヒルっぽさの欠けた笑い方をした。

「……確かに」
「でしょ。ママと同じくらい大好きなの、だから、一緒にいたいんだ」

 単純な理由だった。好きだから、ただ一緒にいたい。そして願わくば、彼がもう二度と一人悔やむことのないように。慰めてあげたいわけじゃない、ただ、ただ、一緒にいさせてほしい。

「よし、決めた。新一くんに聞いてみよ」

 うん、と拳を握りなおす。沖矢が「どうして彼に」と首を傾ぐ。私はニコっと笑って人差し指を立てて見せた。
「だって、探偵してるんでしょ。人探しは探偵の基本じゃん」
「まあ、確かに……。しかし、彼がいつ帰ってくるかどうか」
 沖矢がそう告げた時に、客間の扉が開いた。二人で顔を上げると、ヤンチャそうな顔つきを驚きに染めて、青年が立ち尽くしている。ネイビーのスーツは、仕事着なのだろうか。

「……芹那さん、か?」

 じっとこちらを見つめる青年に、私の心の中のオタク心がそわつく。コナンの姿を見た時も相当興奮したけれど――工藤新一だ! ぴょんと跳ねた後ろ毛が、彼が首を傾げた拍子に揺れた。

 そして、何故か彼は沖矢のほうを一瞥してから、「駄目な大人」と一言呟いたのだ。意味は分からなかったけれど、赤井に対してのその一言はジワっと面白くて、私は自己紹介の前にぶっと勢いよく噴き出してしまった。


prev Babe! next
Shhh...