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「ね、お願い! お願いだから……依頼料上増しするから!」

 ぱちんと両手を合わせて頭を下げると、ソファに腰かけた青年が困ったように頭を掻いた。私の手にはスマートフォンが握られていて、青年は口を曲げて「せめてソレしまってくんねえかな」と恥ずかしそうにしていた。それでも、私が絶対に誰にも見せないからと頼み込んだら、咳ばらいをして深くため息をつく。

「分かったよ」

 しょうがなさそうに呟かれた言葉に、私は喜々としてスマートフォンを構えた。この世界に来る前から持っていた、ネットにはつながらないものだ。ほら、万が一にも流出とかしたら困るかもしれないし――。そわそわとつま先をスリッパの中でもぞつかせながら、目を輝かせた。工藤が、ンン、と一度咳ばらいをした。


「……お、俺は高校生探偵、工藤新一」
「うわーっ! すごいすごい、ありがとう新一くん!」

 これこれ! 映画の冒頭での決まり文句だが、一度は生で聞いてみたかったものだ。私は感激して、思わず彼の手を取りぶんぶんと振り回した。嬉しさのあまり両手で包むようにその手を取ってしまったが、工藤は僅かに頬を赤らめてそっと私の手を押さえた。

「あ、ごめん。つい……。浮気させるつもりじゃなかったんだけど」
「いや、んなこと思ってねえって……」
「なら良かった。ああ〜、これならコナンくんにも言ってもらえば良かった」

 がっくしと肩を落として過去を悔いていると、工藤が苦笑いを浮かべながら「何て?」と尋ねる。彼にとっては、江戸川コナンという存在はもはや懐かしいものなのだろうか、その表情はどこか満更でもなさそうだ。
 私はその表情に少し安堵しながら、へらりと笑った。「うーん、迷うけど」と前置きをしてから、頭の中にアニメで聞いた台詞を思い浮かべる。真実はいつも一つ!≠竄チぱりこれも痺れるけれど、これは工藤新一でも言ってくれそうだ。江戸川コナンでしか聞けない台詞と言えば――。

「あ、ぼくトイレ〜!」
「ブッ、おいおい。まさかそれも漫画とかになってんのか!?」
「超名言だよ。かあわいいよね……あれれ〜、可笑しいぞ〜! って」
「わり、もう良いから……」

 沖矢の淹れたコーヒーを噴き出して、彼は顔から耳までを赤く染めてゴシゴシと口元を拭う。工藤新一と言うと主人公のイメージが強くて、あまりそういう風に見たことはなかったけれど、こうやって眺めると年頃の青年なのだなあと実感する。年下だということも相まって、青年の姿と言えどちょっとだけ可愛らしくも感じた。

 ウウン、と本日二度目の咳払いは、意外にも工藤の横に腰かける男からだ。工藤はギクリと肩を強張らせて、沖矢を振り返る。彼は細い目つきをニコっと笑ませた。工藤新一も私も彼のことを知っているのだから、別に口調を崩しても良いと思うのだけど――彼も彼なりに事情があるのだろうと思う。

「それより、白木さんは工藤くんにお話があるのでは?」
「あ、うん。そうなんだよね、実は安室さんを探してほしくて……何か知らない?」
「安室さんを?」

 工藤は意外そうに目を丸くした。私は頷く。もしかしたら、探す以前に連絡先とかを知っているかもしれない。期待を込めて彼を見上げたら、工藤は首筋をポリポリと掻いた。

「あぁっと……。連絡先とかは知らないんだよな、ホラ、用心深い人だから」
「まあそうだよね。ねえ、新一くん探偵やってるんでしょ。探すの、手伝ってくれたりしないかな」

 身を乗り出して尋ねたら、彼はぐっと言葉を詰まらせるようにして、それから悩ましく視線を逸らした。

「あの人にも、姿を隠さなきゃなんねぇ理由があるだろ。あんまり、探ったりとか……ないほうが良いと思うけど」

 工藤の言うことは尤もで、そう言われると私には押し黙ることしかできなかった。確かに、今探してくれと頼んでいるのは安室の為ではなく、百パーセント自分の都合である。私は幾度か頷きながら、でも飲み込むことのできない感情をポツポツと呟いた。

「分かってるんだけど……。でも、安室さんが姿を隠さなくても良いようになってから迎えに来てくれる保障だってないじゃんか。だからって、もう一生会えないのは嫌なの」
「芹那さん……」
「あ、別に新一くんが依頼を断ったって逆恨みなんかしないから! そんときは、何とか考えるし」

 まあ特に当てはないけれど、安室のことだ。きっと今もどこかで、この国のために捜査を続けているのだろう。組織がなくなったとて、彼のすることは変わらないのだ。どこか突拍子もない場所にいるわけでもないのだから。

 だから気にしないでほしいとかぶりを振ると、工藤は一つ謝り、頭を下げた。この後他の依頼人と会うのだと、忙しなく資料を鞄に入れ、彼は工藤邸を出掛けて行った。私は彼ににこやかに手を振り、唯一の手がかりとも言える青年の背中を見送ると、小さく肩を落とす。


 つい零れてしまったため息に、沖矢がクスリと笑った。私はしょぼくれた態度を隠すこともなく振り返った。私の表情を見て、彼は益々可笑しそうに笑うのだから、意地が悪い。

「そんな顔をせずとも」
「……してないし」
「嘘つき。ほら、何か美味しいものでも食べましょう」

 優しい力が、肩を叩く。私はそれに頷いて、彼に促されるままダイニングへ向かった。彼が夜食に作ったのだというビーフシチューを温めなおしてもらった。確かに作中でもカレーを作って振る舞ったりしていたが、これが中々に美味しい。コクがあるし、肉もそれほど高いものではなさそうなのに柔らかく、焼いてくれたバケットもよく合ってた。
 沖矢も向かいに座り、紅茶を嗜みながら、ビスケットをぱきんと半分に割る。

「美味しいですか?」

 にこやかに尋ねられて、口の中身をごくんと飲み込んでから頷いた。もぐもぐと柔らかな口触りを楽しんでいたら、目の前からスルリと長い指先が伸びる。ちりっと頬に触れる爪先は、そのまま私の髪の毛を掬って耳に掛けていった。

 殆ど力の入っていない、くすぐったいほどの指先は思いのほか体温が高い。ぱっと顔を上げると、その瞬間沖矢がニコリと微笑んだ。

 その微笑みに、つい見惚れた。
 なんだか、まるですごく大切にされているような――そう勘違いさせるような視線に、ドキリと心が鳴った。頬に、かあと血が集まるのが分かる。熱い顔を冷ますように自分の手のひらを頬に当てた。

 いやいや、相手はあの赤井秀一である。
 私は何をこんな見せかけの優しさにときめいているのか。というか、あれだけ好みじゃないタイプじゃないと言っておいて――それは確かなのだけど。容姿が嫌なわけじゃない。人間的な相性の問題だ。
 現に、以前会ったとき、彼がどれほど容姿を整えていようと、ドキドキと脈を高鳴らせることなどなかった。
 
 なのに、今の私の心は、確かに目の前にいる彼に高鳴っていた。
 それが妙な気分で、だけどそう自覚してしまうと益々顔に血が昇ってしまう。どうしたものかと、ひとまず沖矢から視線を逸らして誤魔化そうとしたとき、私は手からぽろっとスプーンを取り落とした。
 落ちたスプーンはそのままスリッパの先にぶつかり、すこんっとフロアを滑っていく。沖矢は腰を屈めて長い手でそれを拾うと、私の近くにあったナプキンで先を拭ってからこちらに返した。肩が揺れる。


「ふ、くく……ははっ! いえ、失礼……ふふ……」


 堪えられない笑いが、彼の口を大きく開かせた。綺麗。キラ、とその笑顔が瞬いたような――そんな風に見えた。私はポーっとその姿に夢中になってしまう。ドキン、ドキンと何度も胸が鳴る。

 ――いやいや、そんな……まさか。

 そう思うけれど、マグカップを手に取ってミルクたっぷりのカフェオレを口にしながら、「ありがとう」と言う私の声は、自分でも妙に上ずったように聞こえた。


prev Babe! next
Shhh...