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 日本に滞在を始めてから、二週間と少し。いや、ただしくは帰還と言うのか――それは今後の身の振り方によるとも言える。学校もバイトもない私の日常は、安室の情報を集めながらも、そのうちの四割ほどを工藤邸で過ごしていた。沖矢は何となく、気を遣わなくても話せる相手になっていて、自然と彼のもとに訪れる機会も増えた。あと、彼の作る料理に胃袋を掴まれた気持ちもある。

「だって、美味しいんだもんなぁ」

 ふわふわに焼き上げられたパンケーキを飲み込んで、ほうっと吐息とともに頬を押さえれば、目の前でティーポットを傾けていた男が「はい?」と穏やかに聞き返す。安室直伝であるパンケーキレシピとよく似ていたが、中にクルトンが入っていて、尚更食感が豊かになっていた。悔しい。

「ううん……沖矢さんって、パンケーキの美味しさに嫉妬しただけ……」
「別にパンケーキ職人になるわけでもなし」
「安室さんが負けたみたいで悔しいじゃん」

 添えられた生クリームをパンケーキで掬うを、ぱくりと口の中に放る。ほどよく柔らかな甘みが、胸をいっぱいにしていく。口を尖らせると、沖矢が可笑しそうに口元を押さえてクスリと笑った。ウ、と言葉に詰まる。


 どうにも困ったことに、最近私はこの男――沖矢昴のことを、異性として意識してしまう時がある。本当に三年前は一度としてそういう感情を抱いたことはなくて、まあイケメンだ美形だとは色めき立っていたけれど――自分でも不思議なのだ。そもそも、何故か沖矢としてのスタイルを貫き通すあたり、隠しごとがあるのだろうとは思う。しかし、それさえどこかミステリアスで色っぽいとすら思えてしまった。
 この三年で、私も成人して男の好みが変わったのだろうか。元より綺麗な顔立ちをしていたので、一度意識してしまうと中々に刺激が強いのが難点だった。


「白木さん?」


 はっと意識を戻すと、亜麻色の髪を耳に掛けて、細い目つきがちらりと薄く開き私を見上げている。フレームの隙間から覗く目つきは何とも綺麗で、私は騒ぎたい心をぐぐっと我慢して「なんでもない」と首を振った。

 ――沖矢昴に見惚れたなんて、安室さんになんて言おう。

 一番会いたい人に合わせる顔がない。スコッチの――彼の親友に対する確執は解消されたのだろうか。本編も終わったのだし、されたと良いのだけれど。だとしても元々相性は良くないとの話だったので、きっと安室は反対するだろうと想像した。そう思うと、懐かしくてちょっとだけ含み笑いを零す。

 私の笑った顔を見て、沖矢はどこか幸せそうに――気のせいだろうか、いつもより柔らかく笑みを浮かべて、するりと器用な指付きでティーカップを摘まんだ。

 どうしてそんなに、大切そうに私を見るのだろうか。
 その視線に弱いのだ。私が笑うと自らも幸せだと言わんがばかりの、笑った時のきゅっと眉間に寄る浅い皺が、綺麗だと思ってしまう。パンケーキの味も忘れて、そのクスクスと笑う表情を眺めていたら、再び彼が私を呼んだ。

「そろそろ日も暮れるでしょう、送りましょうか」
「あ……もうそんな時間? 大丈夫、自分で帰れるから」

 ありがとう、とお礼を述べてから、淹れてもらった紅茶をぐいっと呷った。風情のない飲み方をしてしまったなあと、少し恥じた。時計を見れば、もうすぐ七時を回ろうという時間だ。今は春先なので、外はまだほんの僅かに日の色が残っていた。

「そういえば、沖矢さん。この近くのスーパーって今もある?」
「ああ、まだありますよ」
「そっか。今日の夕食買っていこうかなあ」

 新出はまだ仕事中だろうし、考えながらトレンチコートを羽織ると、沖矢は僅かに険しく顔を顰めた。

「しかし、そうしたら帰りが遅くなるでしょう。やはり送っていきますよ」
「え? 良いってばあ。一応もう大人なんだし」

 ケラケラと笑って首を振る。なるべく遅くならないように時間を調整することもできるし、ホテルまでの道のりは以前の帰路と異なり大通りなので、人気もある場所ばかりだ。以前とは異なりそれほど危機感も強くなく、気軽な気持ちで言ったのだ。

「駄目です」

 険しい声色だった。以前はよく聞いた声だったが、私が帰国してからは殆ど聞いた事のない声色に、私はビクっと肩を揺らした。顔を上げると、声と同じく眉間に不快さを表しながら、沖矢は叱りつけるように私を呼んだ。


「女性への犯罪率は二十時を過ぎると跳ね上がります。人気が多いからといって、夜の町を一人で歩くのはあまり感心しませんよ」


 ――だから、送っていきます。
 沖矢が一方的に言い放った言葉に、私の視界がじわりと滲んだ。意識してではなくて、殆ど反射的に、自然と――目の奥から押し出されるように、薄く涙の膜が揺らいでしまった。私が滲む視界をなんとかしようと瞬けば、涙の膜は粒になって目じりをはらっと伝っていく。

「な……」

 ぼやけてしまって、声を零した沖矢の表情はよく分からなかった。ただ薄い春生地のジャケットを羽織ったシルエットが、私のほうにそっと近寄ることだけは分かる。
「あ、やば……コンタクト外れちゃう……」
「そんなことは良いから、どうかしましたか。気分でも悪い?」
「ごめん、そういうんじゃないから……大丈夫」
 零れた涙を袖口で押さえる。ごしごしと拭ったらメイクが崩れてしまうから、ぽんぽんと水分を吸うように拭った。ごくんと飲み込んだ唾は、しょっぱい。

「マジでごめん。ちょっと、思い出しちゃっただけだから」

 あはは、となるべく明るく笑いながら、私は頬を掻いた。沖矢が意外そうに「それは」と呟くのに、照れくさくて踵を返す。

「安室さんも、同じこと言ってたの。私その時もね、安室さんが心配してくれたのが嬉しくて……。だって、あんなに裏ばっかりありそうな人なのに。私を、ただ純粋に心配してくれたって、それだけが嬉しかったんだ」
「……大人として、当然なことをしただけではないでしょうか」
「えー? 赤井さんはやんないくせに」

 茶化して肩を竦めた。何度か瞬いていたら、瞳も大分乾いて、私はようやくのこと沖矢のほうを振り向いた。彼もまた、軽く苦笑を浮かべたまま私の後ろをついて歩く。このまま送ってくれるつもりらしい、さっきのこともあったので、何も言わずそのまま一緒に帰路につくことにした。

「それにねえ、別に当然なことでも良いもん。安室さんがしてくれるから特別なんだから」

 ふふ、と私はにやける頬を両手で包みながら歩いた。彼がこの頬をふにりと摘まんでくれるのが好きだった。暖かい彼の指先の温度が、私の体全身を巡ってポカポカと温めていくのだ。
「親ってさ、ムショーの愛をくれる人って言うじゃん」
「無償、ですか」
 私の片言な熟語を、沖矢は落ち着いた口ぶりで直す。そう、それだと私は指を立てた。

「他の場所から来た私に、そんなものくれる人いないでしょ? 私思うんだよね、友達も、恋人だって……無理でしょ。何もくれない人を好きになるなんて、無理無理」

 無償の愛――大学の講義で教授が題材に取り上げていたものだった。
 見返りを求めない愛。それは例えば、恋人に愛されることであったり、大切に想われるということすら投げ出したもの。結ばれなくとも、一緒にいられずとも、相手のことだけを考えて与える愛。それが無償の愛だ。
 
「親ってそうなんだよね。お金が掛かったって、面倒が掛かったって、愛してくれたもん。……何があっても、味方って人が、急に世界からいなくなるのって、怖かった。でも、安室さんがそれをくれたの」

 ――これは私の勘違いかもしれないけど。
 けれど、私は彼から見返りを求められたことはなかった。厄介払いされたのだとしても、彼から何かを欲されたことは一度としてない。優しさだけ、私の生活のための知恵だけを与えただけ。

「だから、この世界で私にとっての味方は安室さんだけかな〜って。なんか語ってるみたいで恥ずかしいわ」

 やめようっと、軽口に照れ隠しを含みながらそう言ったら、背後からフ、と笑う声がした。彼は何とも表現し難い複雑な笑顔をしていて、私は目を丸くした。馬鹿にしているような、どこか辛そうな、それでいて柔らかなような。絶妙に優しく、絶妙に引き攣った顔をしていた。

「本当に、人を買い被る人だな、君は……」

 ぽつりと呟いた言葉。眼鏡の位置をくいと直しながら歩く横顔は、やっぱり綺麗だった。私はそうかななんて軽く返しながら、その足並みに合わせて歩調を緩やかにした。


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Shhh...