51


「っくしゅ」

 むずむずと鼻をくすぐられる感覚に、我慢できずにくしゃみを一つ落とした。部屋に響いたその音に、現同居人である新出が目を鋭くさせる。まずいと反射的に思う。新出はあらゆることには寛容であるが、こと体調については職業柄のせいか安室と同等――それ以上に口うるさいところがあった。こんなたった一つ零したくしゃみで外出を全て禁止されては堪ったものじゃない。

「あーっと、私沖矢さんのとこ行くんだった。じゃ、いってきまーす」

 へらへらっと笑いながら、私はまさにダットの如く――(どう書くんだっけ?)、部屋を飛び出したのだ。後ろから「待ちなさい!」と追うような声がしたけれど、生憎運動神経はこちらが上だ。

「ごめん! でもマジで超元気だから!!」

 背後に向かって叫びながら、私はホテルの廊下を走って駆け下りていった。こればかりは真実で、くしゃみはしたけれど、別に他に不調はない。咳や頭痛があるわけじゃないし、昨日からすこぶる元気だ。それでも新出の手に掛かれば一度検査をしなければ、薬を出しましょうと言う話になるだろうと経験が語っているので、悪いが夕方まで沖矢のもとに身を隠すことにしよう。いくら彼でも、他人の家にずかずかと乗り込んでくるようなことはないだろう。

「……ないよね?」

 ちょっとだけ不安にはなったが、私はすたこらとアスファルトを走っていった。最近は通り慣れた道のりだったので、迷うことなく足取りはそちらに向く。最近タダ飯ばかり強請っているような気もするので、手土産でも買っていこうかなあ。通りかかったベーカリーに視線が逸れた――その時だった。

「うわっ」

 よそ見をした所為だろう、ちょうど目の前にあった細い路地から人が出てくるのに気が付かなかった。気づいたときには足はそのまま走りだしてしまっていて、人影を避けようとしてグラリと体勢が崩れる。殆ど右足を挫くようにして横のめりになってしまい、すぐ傍にあるガードレールに体が傾いた。

「……大丈夫?」

 ぐっと、私の体を細腕が支えていた。女の私から見てもホッソリとして長い腕で、どこにそんな力があるんだろうと、支えられながらも不思議に思うほどだった。私の体は既に目前にガードレールがあるところまで傾いていて、きっと体重も大分そちらに寄ってしまっているはずだ。

「だ、大丈夫です……?」
 
 状況を上手く呑み込めないまま返事をすると、私を支えていた細い腕に力が入り、傾いた体を元に戻す。すごい――素直に感心して惚けながら体勢を戻す。礼を言おうと顔を上げたら、私は「きゃあ」と小さくはしゃいだ。まるで女優のような抜群のスタイルに、ちょこんと乗った小さな頭。クセのあるショートヘアは、安室のものよりも更に薄い色素のプラチナブロンドだ。私を見下ろすグリーンアイの周囲はグレーのアイシャドウで彩られていて、本物の女優かのような華があった。

「か、かわいい〜……」

 ありがとうございます、と口にするはずだった口から零れたのは、感嘆の言葉だった。本当に、私が憧れる女性像をそのまま絵に描いたような人だ。そりゃあ現実的に見たら、まず人種が異なるのだけれど、こんな銀幕の向こう側みたいな雰囲気の女性には強い憧れがある。日本のアイドルも好きだけど、どちらかと言えばレトロな映画の女優のほうが好みなのだ。

 女性はプラム色のリップが乗ったヘの字にさせた小さな唇を、ふっと綻ばせた。ニコニコ、というよりも、ニヒルに片側だけが持ち上がるような笑い方で。オシャレなアンバー色の縁をしたボストン型の眼鏡を取り払って、ずいっとその小さな鼻先をこちらに近づけた。私よりだいぶ背が高いのか、腰を多少かがめながら。

「それはどうも。ところで、足を捻ったんじゃないかしら」
「え? うわ、本当だ」

 ずっとその腕が支えてくれていたので気にしていなかったけれど、足を浮かせると僅かに痛みが走る。それほどひどく捻ったわけではないが、歩くのには少々痛みがあって、意識すればするほどその痛みは足を重たくした。

「良かったら送ってあげる。車、すぐそこなの」
「ええ、すみません……。私がよそ見してたのに」
「気にしないで。年頃なのにそんなに街中を走りまわるなんて、娘を見ているみたいで放っておけないから」
「娘さん……え、子持ちなんですか!?」

 ぎょっとして聞き返すと、彼女は私に肩を貸しながら頷いた。ちょっと言い方が失礼だっただろうか。つい驚いて、そのまま口にしてしまったから。だって、そのプロポーションと言い、風貌と言い、とても子育てをしているように見えないほど若々しかったのだ。

「本当に……? 世の中にはすごい人がいるんですね」
「息子にはよく若作りって言われるけど?」
「息子さんまでいるの!? 信じらんない。ていうか、若作りなんてしてナンボですよ!」

 支えられた反対側の手でぐっと拳を作ったら、今度こそ堪えられないままに女性は声を上げて笑った。元々ハスキーな声をしていたけれど、声を上げるとよく響く。見た目とはまた違った豪快な笑い方が更にセクシーで、私の中では益々彼女への好感度が上がっていた。

「――どこで何をしてるかも分からない馬鹿息子だから」

 女性はそう冗談めかして肩を竦めた。車も彼女の姿に恥じないような外車で、車種とかは詳しくないけれど一目で安くはないだろうことは予想できる。車高の低さに驚きながらも助手席に乗せてもらって、私は改めて彼女に礼を言った。その豊満なバストにシートベルトを通しながら、彼女は肩を竦める。


「私も周りをよく見ていなかったから、過失の割合は50:50――お互い様。それに、けが人を放っておくほど冷たい女ではないのよ」

 
 クスクス、と笑い声を零しながら、彼女はハンドルを握る。その台詞の響きに、私はどこか聞き覚えがあった。住所を尋ねられて、工藤邸の大まかな場所を説明すると、女性は「ああ、あの大きな洋館」と納得してくれたようだ。

 ――どこで聞き覚えがあったんだっけ。

 そう、聞いたのは、大分前だったような気がする。例えばこの世界に来る前だったような。でもそんなに何度も聞いたわけじゃなくて――印象に残っているのは、大切な言葉だったから? 何か忘れているような気がするのだけど。

 ぶつかった場所から工藤邸までは然程距離が離れていなかったので、十分ほどでその路地についた。女性は私を手慣れた風に助手席から下ろすと、振動した携帯をチラリと一瞥した。

「噂をしたら、娘から」
「へえ、きっとお姉さんの子だから、めっちゃ美人だろうなあ〜……」
「確かに美人だけど、お転婆な子だから。貴方みたいにね」

 ちょんっと綺麗な指先が私の鼻をつついて、少し恥ずかしく笑った。揶揄われたといえばそうだが、こんな美人に言われて悪いような気はしない。工藤邸のインターフォンを鳴らすのを見守って、彼女は軽く私に手を振り、エンジンを噴かせた。私も会釈をして、くるりとしたクセのある前髪を掻き上げた姿に手を振る。そういえば、あのグリーンアイを見たことがあるような――。


「あっ、え? 嘘!!」

 ずっと巡らせていた「50:50」という台詞の出所を思い出した時、彼女は既にアクセルを踏んでしまっていた。私はその車が去っていく姿を呆然と見つめる。

「あの、何かありましたか?」

 そう背後から声を掛けられて、私は勢いよく振り返った。そうだ、沖矢昴――赤井秀一の母親。確か、メアリー――。メアリー母さんと、呼ばれていたような。私はチャックの嚙み合わせが悪いような――そんな違和感を抱きながら、首を振った。

「ちょっと、怪我しちゃって」

 なんて言えば、沖矢は私が引きずる足に目をやった。それから苦笑して、「いくつになったのだか」と零す。それにヘラっと笑いながら、私は彼の肩を借りて邸の中へと足を運ぶ。
 ――息子、って赤井さんのことだよね……?
 同じく彼女の息子である羽田秀吉は、今でもテレビで顔を見るほどの有名人である。確かに対局で場所を転々とすることもあるかもしれないけど、どこで何をしてるかも分からないなんてことないだろう。

 なら、沖矢昴の存在を知らないのだろうか。FBI捜査官なのだから、機密事項だもの。彼が今どうして変装を続けているかは知らないけど、あり得る話ではあるだろう。私はいまいちしっくりこないような気持ちのまま、淹れたてのコーヒーの香りを大きく吸い込んだ。



prev Babe! next
Shhh...