52


 沖矢の応急処置は流石というべきか、丁寧でしっかりとしていて、しっかりと固定された足首は動かしても鋭い痛みを感じなくなっていた。器用な指先がするすると包帯を巻いていく姿は、どこか色っぽく思えて、ドキドキとしてしまったのはなかったことにしたい。指が足の裏をついとなぞるのがくすぐったくて、そのたびにケラケラと笑っていたら「こら」と短く咎められた。

「はい。これで良いでしょう……あとは先生によく診てもらうこと」
「ありがとーございます。FBIって応急手当までできるんだね」
「基本的なことくらいならね」

 すごいすごい、と調子に乗って足をぱたぱたと動かしていたら、沖矢は呆れたように私の両足をきゅっと捉えた。これでも足元は素足のままだったので、ぎょっと目を丸くしてしまった。さすが、彼ほどの男になると素足の女に触ることなど何とも思わないのだろうか――。それとも、私のことを女として見ていないのかはさだかじゃない。そうだとしたら、失礼なことだ。

「ね、ねえ〜。沖矢さん、ちょっと恥ずかしいんだけど」

 そわそわとしながらつま先をもぞつかせると、沖矢はハっとしたように手を離してくれた。大きくて、暖かな手だった。その体温が、ますます彼に対する好感度を上げていってしまう。顔が赤くなるのをついっと視線を逸らして誤魔化しながら、私は靴下を履きなおした。

 ここ数年、恋愛感情のれの字すら味わうことがなかったものだから、まるで初恋に戻ってしまったみたいな気分だ。胸の騒ぎを落ち着けながら、ちらりと横目で沖矢を追いかけた。彼はすっと立ち上がり、キッチンのほうへと踵を返した。恐らく、紅茶を淹れにいったのだと思う。


 ――弱ったものだ。
 今やるべきことは安室を見つけることだと、頭では分かっていても、彼を目の前にするとどうしてか感情がざわざわと騒ぎ立てる。いやいや、大丈夫だ。私の目標は、安室と再び一緒に住むことなのだから。うん、今思い直したから、大丈夫。


「白木さん?」


 ひょこりと顔を出した沖矢に、私はびくっと体を跳ねさせてしまった。私が声を上ずらせながら「はい!」と勢いよく返事をしたら、その眉が片方だけクっと下がり、彼は一つの呼吸分笑った。まるでしょうがない人、とでも言いたそうな表情で。
「いえ、ミルクは要るかと思って。フルーツフレーバーだったので」
「あ、じゃあ要らない……」
 言えばにこやかに頷いて、彼は再び姿を消してしまった。私はと言えば、先ほど心に決めた宣誓はどこへやら――すっかりその笑顔に見惚れて口を半開きのまま固まっていた。

「本当になんでなんだろ……」

 ふうー、と息をつきながら独り言ちる。安室の丁寧な姿勢に彼を重ねてしまっているのだろうか。あの男の素性を知っていてもなお、その優しい笑顔に異性としての意識が向いてしまう。

「なーんか、落ち着くんだよね」

 小綺麗にされた客間で、そっと目を閉じる。重厚なソファの背もたれに凭れて、体の力を抜いた。家具からは、使い古されたヴィンテージらしい香りがする。こんなもの、別に馴染みもない。すり、とその固い生地に後頭部を摺り寄せていると、空気が変わった。ふんわりと爽やかな香りが鼻を擽る。ああ、この感じに、やっぱり馴染みがあるのだ。


「……パフェ食べたいなあ」
「パフェ?」

 
 はっとして、私は瞼を持ち上げた。紅茶をテーブルに下ろして、柔く首を傾げた。声に出していたつもりはなかったから、私ははにかんで笑いながら頬を掻いた。

「ごめん。ついホームシックに……」
「ホームシック……というと、ご両親に?」
「ううん。安室さんシック。あの人の作るデザートって天下一品なんだから……」

 他に美味しいものは沢山あるけれど、彼の作るデザートは別格である。元より料理が上手いということも相まって――そして、恐らく私がドンピシャに食べたいものに、彼の作るものはハマるのだ。思い出したら涎が出そう。頬を緩ませていたら、沖矢が可笑しそうに笑った。

「まるでスイーツ係だなあと思って……」
「もちろん、安室さんのことも好きだけどさ。スイーツ込みで……」
「込みで?」
「あは、これ言っちゃ駄目だよ」

 ケケケと悪魔のように笑いながら言うと、彼は眉を持ち上げ意地悪そうに笑った。なんだ、その顔――ちょっと格好いいなあ。悔しく思いながらその姿を見つめていた。じっと見つめながらティーカップを手に取ると、思ったよりもたっぷりと入っていた紅茶が傾いた拍子に手に掛かる。

「あつ」
「ああ、もう……忙しない子だな」

 手を摩ったら、彼はポケットから取り出したハンカチで私の手を拭った。煙草の香りはしない。禁煙しているのかなあと思いながら見つめていると、沖矢は呆れたようにティーカップの位置を戻す。「ありがとう」と肩を竦めてから、私はもう一度そのティーカップに手を伸ばした。

 ふと、そのティーカップのハンドルに妙な汚れがついていることに気が付いた。
 なんだろう――。紅茶が垂れたものではなくて、私が使っているファンデーションに近いような。まさか、私のものだろうか。沖矢のものかもしれない。だとしても、どうしてこんな所に。

 不思議に思って凝視していたら、沖矢も釣られたように不思議そうに私を見た。まあ、良いか。汚れなら拭いておけば良いのだから。軽く手で拭うと、やはりファンデーションやコンシーラーに近いものだ。

 ――顔用のものが、こんなところについたりするのかな。

 うーん、やっぱり不思議だ。もやもやと考えながらティーカップに口をつける。ノンシュガーにしては甘い風味が口に広がって、私は先ほどまでの思考をその中に溶かしてしまった。
「美味しい〜……」
 はぁ、と暖かな息を零す。「それは良かった」なんて、彼は笑った。ゆったりとした声色。甘い香り。トクトクと心地の良い鼓動の音がした。




 ぼんやりとした視界に、私はごしごしと目元を擦る。ゆっくりと上体を起こしたら、柔らかなブランケットが肩元から落ちた。どうやら、眠ってしまったようだ。申し訳なかったと思いながら、私は大きく欠伸をする。

 部屋を見回すと沖矢の姿はなかった。けれど天井高い豪華な洋館は間違いなく工藤邸の内装だった。

「沖矢さん〜……? すみません、私寝ちゃったみたいで……」

 声を掛けながら、すぐ傍に揃えられていたスリッパを履いた。この家は広いから、ちょっとやそっと声をあげたくらいじゃ、別部屋にいては気づかないこともあるかもしれない。ぼさぼさになった髪を手櫛で整えながらどうしたものかと廊下に出たとき、ちょうど真っすぐ廊下の先にある大きな玄関から、コンコンとノックの音がした。

「沖矢さん、お客さんだって」

 と、もう一度呼びかけてみるが返事はない。インターフォンを鳴らさなかったということは、きっとこの家に馴染みのある人間なのだろう。もしかしたら工藤かもしれないし、ちょっと顔を出すくらいは良いだろうか。

 ぺたぺたとカーペットの敷かれた廊下を歩いて、私はいつも出迎えられる側の玄関へと足を向けた。コンコン、ともう一度控えめなノック音。はいはいと心の中で返事をしながら、私はその洋館の鍵を開け、扉を押し開けた。


「……えっ」


 目の前にいた男に、私は声を零した。
 見覚えがある――あるのは、以前の世界でのことだ。メアリーはすぐに思い出せなかったが、彼のことはよく覚えている。神経質そうな顔つきに、黒縁のスクエアフレーム、縦に長いノッポなシルエット。渋いカーキ色のスーツには、皺一つ寄っていない。
 気難しそうな顔つきが、私の姿を捉えてすぐに驚愕に変わった。

「――失礼、人違いでした」

 彼は平然とそう言ってのけると、くるりと百八十度踵を返して、長い脚をスタスタと足早に動かし始めた。私は数秒だけ呆然として、すぐに靴を履きなおし彼の背を追った。

「んなわけないでしょーが!!」

 こんな大きな洋館に人違いだなんて、そんなことがあるか!
 確か、彼の名前は風見――。公安に所属する、降谷の部下である。彼が沖矢昴――赤井のもとを訪ねるとなれば、きっと降谷が関わっているに違いない。私はようやく掴んだ安室の尾を逃さないように、鈍く痛む足元を叱咤してアスファルトを蹴った。


prev Babe! next
Shhh...