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 息を切らしながら男の背中を追った。
 さすがは公安警察――。降谷のサポートを担っている姿は伊達じゃないらしく、このあたりの地理に慣れていなければ一瞬で撒かれてしまっただろう。何度となく沖矢やハロと訪れていて助かった。おかげで何処が行き止まりかくらいは、体が覚えている。しかし流石に体力に差があるわけで、四度目の曲がり角を曲がったあたりでそのノッポな背中は大分遠くに見えていた。

「待って……ッ!」

 息を切らしながら叫ぶ。ようやく見つけた手がかりなのだ、行かないでと叫びをあげるものの、その背中は私の声なんて届いていないようだった。それでもそのままにしてはおけなくて、何も考えずひたすらにその背を追う。
 春の陽気に、汗が滲んでいく。暑い。今すぐ服を脱ぎ去ってしまいたいくらいに暑い。それは走ったせいなのか、叫んだせいなのか――それとも、ようやく会えるかもしれないとドクドクと高鳴る鼓動のせいなのか。はたまた、その全てなのかもしれない。

「逃げんなよお」

 成人男性とは体格も違う。遠くなる一方の背中に言葉を投げつける。息が苦しい。ぜえぜえと息を整えて、工藤邸から暫く離れた路地で、私はようやくその足を止めた。止めたかったわけではないけど、止めざるをえなかったのだ。

「……いったあ」

暫く無理して走ってしまったせいか、折角固定してもらった足首は靴が窮屈さを感じるほどに腫れあがっていた。私は足の甲を押さえて、唸りながらしゃがみこんだ。悔しい。やっと、やっと会えると思ったのに。その足がかりを自らの不注意で手放してしまったことが悔しかった。足はそんな私の心の中の叫びを訴えるように、ズキンズキンと熱く脈打っている。

 じわじわと、その情けなさに涙が浮かんだ。
 こんなことで泣くなんて、馬鹿みたいだ。私は浮かんだ涙を強く瞬いて誤魔化した。しかし誤魔化そうとすればするだけ、嗚咽はどうしようもなくこみ上げる。押し出された涙が、ぽつんとアスファルトに零れた。

 それを慌ててグシグシと拭い、私は唇を引き結んだ。大丈夫。別に風見だけが手がかりというわけではないもの。それに、沖矢と安室に繋がりがあるらしいことも分かったし。あの男、知っていて黙っていたな。畜生。まんまと騙されるのもこれで二度目だよ。工藤邸に戻ったら、思う存分問いただしてやる。
 
 ――だから、大丈夫。泣かなくたって大丈夫だ。

『どこにいたって、僕は芹那の味方だよ』
『だからいつでも、僕を信じて』

 安室がそう言っていたのではないか。姿が見えなくとも、この世界のどこかに彼がいるから――私を信じてくれる、彼がいるから。だから大丈夫。大丈夫の、はずなのだ。

「ふ、う……う……」

 なのに涙がぼろぼろと零れ出てしまうのは、やっぱり掴みかけた彼への手がかりを逃したせいか。それとも、心を許しかけていた沖矢に再び嘘をつかれたのではと疑念が生まれたからだろうか。足が、ずくずくと唸りを上げるように痛むからかもしれなかった。

 こんなふうに、ボロボロと涙をこぼすのは久しぶりだった。
 だってもう二十を超えた大人なのだから、こんな泣き顔のまま歩くのは恥ずかしくて、涙がおさまるまで時間を置こうと思ったのだ。スン、と鼻を啜って、ひたすら涙が収まることを願いながら、アスファルトの汚れを見つめていた。


「……具合でも?」


 おずおず――そういった様子で声を掛けられて、私は顔を上げる。そして、キョトンと目を丸くしてしまった。だって、そこにいたのは私が先ほどまで精いっぱいに追っていた気難しそうな男だったのだから。
「あ、いえ。急に蹲るものだから、心配で……」
「それで……わざわざ戻ってきたの」
「分かっているさ。自分でも甘い奴だと……」
 彼はなんだか気まずそうに項を掻きながら、薄い眉を顰めた。その恥ずかしそうな、イマイチ決まらない表情が何だか安心して、私は自然と口元が綻ぶのが分かった。逃げたのはそっちなのに、心配になって戻ってきたなんて。詰めが甘いというのか、人が好いというのか――。

「ふ、ふふ、あは……! おかし〜!」
「笑わないでくれ……。大丈夫か?」
「うん。ちょっと足、挫いちゃってて……。さっき固定してもらったんだけど、そこが腫れちゃったみたいなんだよね」

 私がひょいっと足を覗かせると、男は三白眼をひん剥いてぎょっとした。最初メアリーに診てもらった時は、少し赤く腫れていた程度だった足首は、今や足首の細さを隠すほどにパツンパツンと腫れあがっている。
 先ほどまでよく見えていなかったけど、私も自分で改めてそれを見て「うわぁ」と声を漏らしてしまった。

「すっご……そりゃ痛いわ……」
「自覚なく走ってたのか、君は」
「だって、お兄さんが逃げるんじゃん」

 ツンっと顔を逸らしたら、男は大真面目にググっと言葉に詰まる。いちいち反応が大げさで面白い男だと思った。私は再び声を上げて笑いながら、その生真面目な表情を見上げた。

「ごめん、訳があって逃げたのは分かってるんだ。私、芹那。……知ってたかな」
「警視庁の風見だ。誤魔化しても無駄だろうから言うが、降谷さんから聞いてるよ」
「やっぱり! ねえ、安室さんって今どこに……」

 いるの、と言おうとした時に身を乗り出してしまって、思わず足もとに力を入れてしまった。私は声にならない叫びを上げて、ぎゅううと蹲った。風見はそんな私の姿を見ると一つため息をつく。

「君が聞きたいことがあるのは分かっている。今は先に治療を優先しても?」
「……風見さんが逃げないなら」
「そんな怪我をしておいて言うのか……。分かった、逃げないから」

 風見は軽く頷きながら、私のほうに手を差し出した。乾燥した、皮膚が厚めの手のひらだった。安室のものとはまた異なる、男の人らしい手だ。その爪先の深爪具合が、彼の几帳面さを表しているような気がした。

「まったく、聞きしに勝るじゃじゃ馬だな」
「うわ、それ安室さんが言ったの?」
「さあ……。少し触るが、許してくれよ」

 彼は私の体勢を立て直すと、膝に腕を差し込んでひょいっと体を抱え上げた。背に負わなかったのは、私がスカートを履いていたせいだろう。どこまでもお人好しなことである。きっとこの人の好さが、あの安室の名台詞に続いてしまうのだろう。


「なんかさ、警察って難しいんだね」


 ずっと姫抱きされているのも恥ずかしいし、何より顔が目前にあるのも気まずいので、私は何気なく口を開いた。風見は前を向いたまま、「難しいというと?」と生真面目に聞き返してきた。
「だって、良いことをしてもそれがプラスになるとは限らないんでしょ。折角人助けしたって、今の風見さんは公安としては駄目駄目なわけで……」
「駄目駄目……」
「そういうの、難しいなって思う」
 本人は駄目駄目、というワードがよっぽど心に刺さったのか、肩を落として幾度かオウム返しに呟いていた。だって、見つかってはいけないと分かっていて、同情して態々踵を返してくるなんて――。人間としては百点でも、仕事としては減点ものじゃないだろうか。

「そういう世界だから、しょうがない」
「世界って?」
「……良い人に、良いことがあるとは限らない。いつだって何かの犠牲になるのは、八割が善良な市民だ。それを防ぐために、我々は存在するのだから……」

 彼が呟きながら歩いているうちに、とある駐車場に着いた。どうやらここからは車での移動になるらしい。私を助手席に乗せ、エンジンをかけながら風見はちらっと私の方を一度見遣った。

「だからどうか、あの人のことも分かってやってくれ」

 そう小さく笑う男は、軽く肩を竦めて言った。分かってるけど、と拗ねて見せたら、風見は何も答えず、無言でアクセルを踏んだのだ。


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