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 風見の車に乗って、少し離れた場所にある整形外科に立ち寄った。一度捻った部位は私の無理くりな走法によってもう一度反対側に捻られたらしく、年老いた医者からは小言を言われてしまった。

「骨に異常がなくて良かった」

 そう呟いた風見の表情は、無骨な中にもほんのりとした温かさがある。私はそれに少し申し訳ない気持ちを覚えながら、頭を下げた。私の怪我に対して、ここまで面倒を見てもらったのだ。「ありがとう」となるべく丁寧に告げると、拍子抜けたように目を丸くしてから、頬骨の出っ張った顔が僅かに血色づいた。

 ごほん、と染まった頬を誤魔化すように咳払いが響く。
 治療を終えた後、連れてこられたのは風見が拠点にしているというマンションの一室だ。彼は安室とは違って潜入捜査をするわけではないが、こうして秘密裏な話をするときに使うらしい。曰く、角部屋で隣の部屋は空室だ。――どこかで聞いた事のあるシチュエーションに、私は苦笑いした。

「すまない、偶にしか来ないから埃が……。ごほっ、窓を開けよう」

 フローリングに薄く積もった埃。家具も最低限しか並べられていない殺風景な部屋だった。風見がから、とリビングの窓を開ければ、ふわりと春らしい暖かな風が吹き込む。カーテンが揺れた。
 私の頬が、自然と綻んだ。――「懐かし」、小さく独りごちた。
 初めて安室に、部屋を与えられたときもこんな風だった。吹き込む風だけが心地よくて、埃がキラキラと日差しに光っていた。私はそれを気にしなかったけれど、彼は執拗に気にしていたなあ。今は、その積もった埃が気になる気持ちが、僅かばかりに理解できた。

「確かこのあたりにコーヒーがあったと思うんだが……」

 彼はキッチリとしていそうな風貌と相反して、部屋の中に入ると途端に挙動があたふたとし始めた。仕事はこなすというのに、マグカップ一つ、インスタントコーヒー一つ取り出すのにアチコチを徘徊している。そもそも男にしてもひょろりと長い背丈をしていたものだから、部屋の中をばたばたとされると一層五月蠅く感じた。

「……風見さんちょっとアッチ行ってて。私がコーヒーいれたげる」

 ひょこっと足を引きずりながら、その大きな図体を押しのける。風見はレンズの奥から意外そうに私を見つめた。まあ、確かに家事ができそうだと言われたことはないが。にしても――。
「何その目……」
「少し意外で……。気に障ったか」
「べっつに。誰に仕込んで貰ったと思ってる?」
 ふん、と軽く鼻を鳴らしながら、私は足元にあった少ししけったインスタントコーヒーを取り出した。まずはマグカップをお湯で温めておく。インスタントコーヒーは注いだらそのままお湯をいれるのではなくて、水で練ってから。お湯は電気ポットからそのまま注ぐと熱すぎるので、ティーポットで少し温度を下げてから注ぐのだ。
 全部、安室に教わったこと――。だからこそ自信を持って、私はキッチンに立つことができた。コーヒーを淹れる香りが懐かしく恋しい。そういえば、沖矢の淹れるコーヒーも良い香りがしたものだ。

 風見のものは無糖のまま、私のものには砂糖を少しだけ混ぜて、軽く拭いたダイニングテーブルに向かい合った。彼はコーヒーを一口含むと、素直に「美味しい」と言葉を零した。本当に、色々と真っすぐな男だった。安室とは正反対のように見えるのに、本心にある僅かな優しさのような暖かさだけが似通って思える。


「あの、安室さんは……」


 よし、と意気込んで声に出してみたものの、私は尻すぼみに言葉を小さくしてしまった。風見に、一体何を聞けば良いのだろうか。だって、工藤でさえ安室の情報を漏らすことを拒否したのだ。彼の部下である風見ならば、尚更なのではないか。
 ――というか、風見はどうして私を見て驚いたのだろう。
 どうして、私から距離を取ろうとしたのだろう。それを考えていたら、私の声は益々小さくなって、風に消されそうな声量しか出なかった。

「……安室さんは、もう私に会いたくないのかな」

 どこにいるの、何してるの、彼に会わせて。
 思い浮かんだどの台詞よりも先に、自信なく零れたのはそれだった。親指を弄って、もじもじと尋ねると、風見は「いや、そういうわけじゃ」と言葉に詰まった。
 だって、風見が私に会いたくなかったということは、私との関りを持ちたくなかったということに他ならない。そんなこと、私だって理解できる。でも、私にとってこの世界で無条件に信じられるものは、『僕を信じて』という言葉なのだ。だから、最後まで縋りつきたくてしょうがない。

「一応ね、カナダに荷物は置いてあるんだ。だから、アッチに帰ろうと思えば帰れんの……安室さんに、拒否られたら、居場所がほしいからって思って……」

 あははと空笑いを混ぜて呟くと、風見は慌てたように首を振った。がたん、と力強く置いたマグカップから、僅かにコーヒーが跳ねた。

「違う! ……あ、ただ……。言ったろう、あの人には、あの人の事情があるんだ」
「だから、分かってるの。分かってるけど……安室さんしか、いないんだもん」
「……そんなことはないさ。ほら、君の面倒を見てくれる先生もいる」
「新出先生は、皆に優しいんだよ。私じゃなくて、歳が未熟な女の子が困ってるから助けてくれてるだけ……。もちろん、感謝はしてるけど!」

 風見はすっかり弱ったように額を掻いていて、これでは私が駄々をこねる幼子みたいだ。――あながち間違っていないのかもしれないけど。うう、と口を尖らせていたら、風見は重たいため息をついた。

「……君のことは、実は三年前から知っていた。だからこそ言うが、降谷さんは君が思うよりずっと君を大切にしているよ」
「……三年間音信不通になっても?」
「はあ、分かった」

 ――何が分かったと言うのだ。もうすでに大人ぶっても無駄だろうから、この際開き直って取り繕うこともしなかった。私が彼をチラリと見上げると、彼はスマートフォンを取り出して、何度か操作の後、それを頬につけた。

「はい、風見です……。ああ、いえ――はい、はい。大丈夫です」

 こんな時に、仕事の電話――? どうやら向こう側にいるのは上官なのか、彼は電話をしながら腰を低くして、何度か頭を下げながら応えていた。私はそんな彼のことを眺めていたら、彼はそのスマートフォンを私に手渡す。

「へ?」

 きょとんと、そのシンプルなフォルムを両手で抱えた。
 なに、どういうこと――。理解できないまま通話画面を眺めたら、スマートフォンの向こうから『もしもし』とシンプルな発信が聞こえた。

「……も、もしもし」
『やあ。少しはお嬢さんになったと思ったのに、聞いたよ。ずいぶん無理をしたんだって』

 懐かしい声。
 柔らかな、太陽というよりは月明かりが降るみたいな声だ。私はその瞬間、スマートフォンを取り落としかけて、慌ててそれを拾った。「安室さん」と小さく言葉が零れる。

「あ、安室さん……」
『分かってるさ。……ごめん、何も連絡をいれれなくて』
「ほんとだよ……」

 その声を聴いていたら、心の底から安心した。声色は私を嫌っていない。前と同様、どこか柔らかく懐かしそうなものだった。涙は零れなかったけれど、彼の声を聞くと緊張が緩まったようで、ふあ、と小さく欠伸が零れてしまった。耳ざとく『今欠伸したろ』と意地悪く言われてしまった。

『今追っている事件が、少し危ない案件なんだ。こういう形でしか連絡を取れないことは、謝るよ』
「そうだったんだ……そうだろうとは思ってたけどさ」
『本当に? 風見まで追うあたり、よっぽど疑ってたんじゃないか』
「だって、心配だったんだもん」

 言えば、彼はクツクツと喉を鳴らして笑った。その笑い声に、私はニマっと口角が持ち上がる。現金なもので、途端に心が明るく、自信が出てきた。私は笑みを浮かべながら、そっと彼に尋ねた。

「それが終わったら、またお隣さんになっても良い?」
『……ああ。ハロも寂しがってる』
「そっか……そっかあ」

 私は何度も噛みしめるように、確かめるように、何度も「そっか」とぼやいた。安室はその返答に対して何も言わなかったが、なんとなく、向こうにいる彼も笑っているのではと思ったのだ。


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Shhh...