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 軽やかな鼻歌を部屋に響かせた。
 部屋には春らしい暖かな風が舞い込み、身支度を整える途中に小さく欠伸が零れるくらいだ。私の心もそんな穏やかな気候と同様に弾んでいて、だいぶ痛みの引いてきた足首で鼻歌のリズムを取った。

 原因は、安室の連絡先を手に入れたことだ。
 工藤に教えたものとは異なるプライベート用のものらしく、『くれぐれも悪戯電話はしないように』と安室に注意され、私は笑いながら「本当にいくつだと思ってる?」と呆れてしまった。彼の今の仕事が何かも分からないので、こちらから掛けることは憚られたけれど、電話帳に登録されたそのたった一件が私の心を強くする。

 そうだ。今までのように不確かな安室の背中を追うのではなく、彼の仕事のめどが立つまで私は待っていれば良いのだ。そう思うと、不安に思っていた日本での生活にもゆとりができ、今日は久しぶりにポアロでも訪れようかと思っていた。以前は急にバイトを辞めてしまったし、ちょっとでも顔を出せたら良い。ついでに、久々に美味しいランチが食べたかった。


「ぎゃ〜!!! おばけー! ごめんなさいごめんなさい、悪霊退散ー!!!」


 ――ので、まさか絶叫と共に塩を蒔かれるだなんて、これっぽっちも予想していなかったのである。ぱらぱらと頭上に降り注ぐ細かな塩たちを、私はポカンとしながら眺めた。三年前とそれほど変わっていない容姿、あいかわらず肌はキメ細やかで、髪の毛はキューティクルに満ちていた。いつもニコニコと愛想良く笑んでいた瞳が、今は私に向けてうるうると涙を貯めている。

「……あ、梓さん」
「イヤーッ! 喋ったーっ!」
「いや、その……。何?」

 喋るだろうよ、そりゃあ。
 まるで幽霊か化け物でも見たような反応に、私は訝し気に首を傾げた。私がいつまでもそんな顔をしていた所為か、梓は恐る恐るこちらに一歩近づき私を覗き込む。

「あ、もしかして芹那ちゃんのソックリさんとか……双子の妹とか……」
「ううん、芹那だけど……」
「やっぱりおばけじゃない! キャー!!」

 ――なんだ、このコントみたいなやりとり。
 店の客たちも皆大声を張り上げる梓を不思議そうに見ている。そりゃあ、周囲から見たら生身の人間に塩をぶっかけている可笑しな状況だ。キャアキャアと叫ぶ梓に声を掛けようとしたとき、私はアッと声を上げた。

『まだ調査中で事件か事故かはハッキリしねえんだがなあ。何しろ人が一人亡くなっちまって……。気の毒なもんだ、丁度お嬢さんくれえの若い女の子だったそうだよ。高校生で一人暮らしだったんだと』

『死んだ人間を、それ以上追おうと思わんだろうさ。組織の奴らが、赤井くんにそうだったように……』

「――そうだった……」

 私、そういえば一度は死んだことになっているのか。カナダでの生活は本名でこそなかったけれどかなり伸び伸びとしていたし、こっちに帰ってきたからは沖矢と工藤くらいしか再会していなかったから気づかなかった。
 道理で梓が怖がるはずだ。彼女からしたら、一度は死んだと聞かされた人がその姿のまま現れたのだから。私はひとまず彼女を落ち着かせようと思って、そのあたふたとする手に触れた。きゅっと軽く指先を掴むと、梓は指先をピクリと跳ねさせて、私を見つめ返す。

「……芹那ちゃん?」

 おずおずと、彼女が尋ねる。
 梓がパニックにならないよう、私はなるべく落ち着いてゆっくりと頷いた。すると先ほどまで恐怖に潤んでいた瞳から、ぽろっと涙が頬に流れ落ちていく。私はギョっとしてその顔を見た。
 梓はそのあとも、次から次へと涙を零しながら、はらはらと流れていく涙を指先で拭った。
「そっか。そうなの、無事だったのね」
「あっと……ごめんなさい。ちょっと、都合があって……」
「ううん、無事だったなら良いの。良いの……」
 何度も繰り返す言葉に、罪悪感がギュウギュウと私の胸を苦しめた。梓がそこまで私のことを想ってくれているとは、予想外だったのだ。心の優しい人なのだと、思った。

 彼女はその後も、涙を流す顔を恥ずかしそうに押さえながらポツポツと呟いた。

「お葬式にも行ったの。遺体は焼けてしまっていて、損傷が酷いって見せてもらえなくて、とても悲しかった。ご親族もお見えにならなかったし、芹那ちゃんが、そんな苦しい最期だったんだって……。きっと、苦しくて、ずっと助けを求めていたのかなって……。すごくすごく、悲しかった。無事で良かった……」

 看板娘の笑顔も今だけは影に隠して、彼女はぐすっと鼻を啜った。――そうか、私焼け死んだことになっていたから。確かに、私も知り合いがそうだったらショックだ。梓は、こちらの世界に来たときからずいぶんと可愛がっていてくれたから、そのぶんの感情もあったのかもしれない。

「心配かけて、ごめんなさい」

 私はギュウと胸が抓られるような想いのまま、眉を下げて謝った。梓は慌てたように流れる涙を払って、ニコっといつもの愛嬌ある笑顔を浮かべる。

「良いのよ。芹那ちゃんが元気だったなら、事情があったってなくたって……。そんなの良いの」

 梓は濡れた頬をハンカチでしっかりと拭うと、流れた髪の毛を耳に掛け、エプロンを結びなおした。そして私をカウンターへと誘う。梓はまだ僅かに目じりを赤くしながら、口元には笑みを浮かべてもう一度しっかりと私を見つめた。
 そして、にっこり、と優しく微笑む。


「おかえりなさい」


 ――おかえりなさい。お帰り。
 ポアロでバイトしていた時に、必ずそう出迎えてくれた姿を思い出した。喫茶店のただの文句なのかもしれない。けれど、私はそれがやけに嬉しくて、でもちょっとだけ恥ずかしい。あの時はこっぱずかしさのあまりに口を突かなかった言葉を、今ははにかみながら告げることができた。

「……ただいま、梓さん」

 そう笑ったら、梓はにこにことフルーツパフェの準備に取り掛かった。




「う、お腹苦しい……」

 張りきった梓の賄いフルコースを胃袋に詰め込んで(さすがに断れなかったし――)、私はお腹を抱えたままポアロを出た。カラカラ、と聞き慣れたドアベルが鳴る。梓曰く、やはり安室は三年前にポアロのバイトを辞めているらしく、それ以来は音信不通なのだという。私にも会わせたかったと言う言葉には、深く頷いておいた。

 それにしても、久しぶりのポアロのランチは美味しかった。安室がおらずとも、元より評判の良かったレシピもたくさんあったし、きっと彼がしっかり引継ぎしていったのだろう――ハムサンドや限定のメニューはそのままに残されていた。
「また今度こよー」
 梓との再会も嬉しかったし、とご機嫌に踵を返した時、バッチリと見慣れない姿と視線が合った。ポアロの隣店――なんだっけ。看板には、いろは寿司と書かれている。そうだ、いろは寿司。

 その暖簾を下げる姿としっかり、それはもう運命を感じるほどに視線が合ってしまって、そのまま逸らすのも気まずく、何となく「こんにちは」なんて挨拶をした。
 運命を感じるとは言ったが、視線が合ったのは五十か六十くらいの初老の男性で、チョン、と鼻下に乗ったチョビ髭と眼帯が特徴的だった。私の挨拶を受けて、ぺこりと笑って頭を下げる。その口元には出っぱが目だった。

 私はその姿を眺めて、久しぶりにコナンの原作のことを思い返す。
 確か、彼は脇田――。黒の組織のナンバー2であるRUMを探す展開で、候補者の一人に挙がっていた男である。しかし、原作終了後の今もここの店に勤めているということは、きっと違ったのだろう。

 ――てっきりそうだと思ったんだけどなあ。

 ネットでは、アナグラムがどうだとかで話題になっていた有力候補だった。結局、RUMは誰なのか、その展開がコミックに出る前だったので、私には分からない。残りの候補は、若狭と黒田だったか。ううん、どっちだったんだろう。ちょっとだけ気になる。
 もし安室に直接会えることがあったら、それとなく聞いてみようかな。さすがに教えてくれないかもしれないけれど。僅かな好奇心を津々と刺激されながら、私はぐぐっと背伸びをした。


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Shhh...