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「うわ、それ安室さんでしょ」

 ――ひょこりと顔を覗かせた。視線の先には、最近映画で見たばかりのキャラクターがクリアファイルで不敵に笑っていた。その持ち主は、ばっと私の顔を振り返る。大人しそうな白い頬が、ぽっと赤くなった。
 選択授業は学年のクラスが合同で、そもそも友人と体育を選択したのだが、人数オーバーになってしまったのだ。一人欠伸をしながら第二希望の美術を受けていた時、偶然隣に座った子の持ち物に目が留まった。ちょうど知り合いもいなかったので、これを機に授業内で仲良くしようと思ったのだ。

「し、知ってるの?」

 ――可愛い声。
 大人しい子だとは思っていたけれど、重たい黒髪からは想像できないような、か細く綺麗な声が通った。別に自分の声にコンプレックスを抱くことはなかったけれど、彼女のものに比べれば天と地の差である。

「知ってるよー。映画、マジで良かったよね!」
「うん。すごく良かった……」
「私も安室さんが一番好きなんだ。良かったら話そうよ」

 気軽な気持ちで話しかけた――彼女が、私の安室透への知識を深める切っ掛けとなった。彼女は私が「この間アニメも見始めちゃってさ、最初に出たときの弱そ〜なかんじ。ギャップだよね」と言えば、喜々として何度もうなずいた。元より原作の大ファンなのだという少女から、選択授業のたびにコミックを借りるようになったのだ。――といっても、コミックは文字数が多くて、そもそも文字自体に苦手意識があった私がキッチリと読んだのは、ミステリートレインと緋色シリーズくらいだけれど。

 それでも、憂鬱に考えていた選択授業に一つ楽しみができた。
 私はその程度に思い、浮かれて考えていたと思う。普段から喋るような子ではなかったけれど、地味ながらに器量の良い子で、時たまその美肌の秘訣を聞いたものだ。そんな彼女から、所謂いくつかの二次創作というものを読ませてもらったけれど、その頃には私の興味はすぐ間近にライブが迫ったアイドルへとシフトしてしまっていた。


 ―――
 ――
 ―

 ――あの時、もうちょっと詳しくなっておけばなあ。

 そう、今になっては思うこともある。まさかこんな世界に来るだなんて思ってもいなかったので、後悔しても仕方ないのだ。私は途方に暮れていた。原因は、今斜め前の座席で欠伸をしながら外を眺めている男だ。

 ホテルの近くにあるファミリーレストランで見掛けた彼は、恐らくコナンの中のキャラクターで――。私はあまり見たことのない男だったのだが、確か前の世界で、二次創作作品として紹介された中にいた気がするのだ。だけど、それが誰なのだか、私は思い出せないままでいた。多分、アニメの中にいたとしても、それほどシリーズになったわけではない人物なのだと思う。


「……う〜ん」


 新出が手洗いから帰ってくるのを待つ間、一人頭を悩ませていたが、結局結論はでなかった。まあ、そのうち思い出すかもしれない。原作の展開は三年前に終了しているはずなのだから、今は誰がキャラクターだろうとあまり関係ないし。
 うん、と一人で納得しているうちに、新出が席へと戻ってきた。ちょうどそのタイミングで注文していた季節限定のグレープフルーツパフェがやってくる。ヨーグルト風味のクリームとミックスされた酸味に、私は舌鼓を打った。安室の作るものには敵わないが、こんな安価な値段で手に入れるには贅沢なスイーツである。

「最高……」
「本当にスイーツが好きですね、白木さんは」
「トーゼン。はぁ〜、暫く食べてないと、メープルシロップが恋しい……」

 あっちのデザートは、日本での物とは少し違うとはいえ、それはそれで格別だった。日本の味付けよりコックリとしていて、甘さがふんだんなスイーツ。考えるだけで涎が出てきそうだ。

 新出は苦笑いしながら、ドリンクバーのホットコーヒーを口にした。その穏やかさからは、先日私が足を腫らして帰ったときの散々な怒りようは想像できない。恐ろしさといったら、説明をしに付き添ってくれた風見さえ引いていたのだもの。
「先生って怒ると恐いタイプだったんだね……」
「そ、そうですか? いや、恥ずかしいな……」
「恥ずかしがるのもバカバカしいくらい恐かったよ」
 思わず彼の本性を疑って、それから数日顔を合わせるたびにビクビクとしてしまった。けれど、彼もさすがに頭にカっときていただけらしく、素はいつもどおりの優しい男だった。
「それは……。君がホテルを飛び出た挙句怪我をして帰ってきたから……」
「あは……まあ逃げたのは私か」
 へへ、と誤魔化すように肩を竦めた。確かに、そう言われたら私が悪い気しかしない。また怒られたらたまらないと、私は彼の機嫌を伺うように覗き見た。新出は苦笑こそしたが、そのまま優しく続けた。

「良かったですね。手段が掴めたようで」
「……うん! だから、もうちょっとだけお世話になります」
「はは、ここまで付き合ったんですから、お供するよ。こっちでの仕事の目処もまだだしね」

 そう笑った新出に、私はペコリと頭を下げた。正直日本では別に新出と行動を共にしなくても大丈夫なのだけど、こう言ってくれているので、それに甘えよう。今からすぐ一人暮らししろと言われたら、分からないことだらけだし――。

「実は帝丹小学校での校医をまたお願いできないかって言われてるんだよ」
「ああ、良いじゃん! 新出センセー優しいから、子どもにすーぐ懐かれるし!」
「確かに可愛いけどね……」
「何その目。私子どもじゃないんだけど……」

 そうだね、なんて穏やかに笑っているけれど、どう考えても私のことを心底ガキだと思っている――そんな仏も真っ青なアルカイックスマイルを浮かべる新出に、私は額を掻いた。


 会計を済ませたときに、新出がアっと声を上げる。どうしたのかと彼を見上げると、どうやら携帯を手洗いに忘れてきてしまったようだ。寧ろ、忘れたまま今まで過ごしていたのか。案外そういうところはボンヤリとしているんだよなあ、と思いながら、私は店頭で待っていることにした。

 店を出るとふわっと強い風が桜の僅かな花びらを散らして、青々とした葉を靡かせる。このあたりでは遅い開花であったようだが、もうそんな季節も終わりらしい。瑞々しく揺れる青を見上げていると、どうやら後ろから続いて店を出たらしい――後続の客が押し開けたドアが、背中にドンっと当たった。

「っと、ごめんな」
「あ、いえいえ……。ちょっとボンヤリしちゃって」
「大丈夫? 服とか、汚れてない」

 そう紳士的に顔を出した大男は、私が先ほどまで座席で見つめていた男だった。一般客の中では、ずいぶんと目立つ容姿をしていたから印象深く覚えている。彼に対する、モヤっとした疑問が心に残ったままだったので、私はチャンスだと思いその男に話しかけることにした。もしかしたら、どんなキャラクターだったか思い出すかもしれない。

「お兄さん、ファミレスで何してたの? 待ち合わせ?」
「ン? あー、まあそんなところかな。実はまだ継続中なんだけど、ちょっとコレ」

 彼は人差し指と中指を緩く立てて、軽く煙草を吸うような仕草をした。そういえば、このファミレス、喫煙席が小さかったなあと思い出す。最近は人が多い都会に出ると、喫煙者ルームはいつもパンパンだ。彼も「肩身が狭いよ」と太い眉を下げて悲しそうにぼやいた。

「そんなに珍しいかね?」

 男は人が好さそうに苦笑いをしながら、小さく首を傾げた。何のことを言っているのか分からず、そのまま「何が」と尋ねれば、ちょいっとその指先は自らの毛先を弄ぶ。
「髪じゃなかった? さっきから、ジーっとこっち見てたからさ」
「……あ、気づいてたんだ。ごめんなさい、なんか知り合いに似てる気がしたから」
「へえ。生まれて初めて言われた」
 驚いたように、目が丸く開かれる。そりゃあ、あんまりそこらに落ちている容姿ではなかったけれど。安室の容姿を見た後ではショックは少ないが(何しろ、彼は世界の最高峰レベルの見た目をしているので――)、間違いなくこの街中でもトップクラスに目を引くはずだ。

 と、そんなイケメン鑑定している場合じゃないんだった。私が彼に名前を尋ねようかと思った時、新出が帰ってきた。このまま会話を続けるのも、不自然か。私は男に軽く会釈をして、その横を通り過ぎる。

 私の会釈にも、にこやかに、軽薄そうな見た目とは裏腹にキッチリとした会釈を返したのが印象的だった。男にしては長い、首元を覆うような黒髪が、新緑の中でサラリと流れた。


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Shhh...