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「……白木さん」

 そう控えめに私を呼ぶ――これが夢だと分かったのは、私が元の世界の制服を着ていたからだった。振り返って「どうしたの」と言えば、彼女は手に持っていた本をいくつか私に差し出した。
「これ、新刊出たから……」
「うわ、持ってきてくれたの。ありがとー」
「ううん。また選択授業でね」
 ひらひらと手を振り合って、私は単行本をチラっと見遣った。昔から、物事に執着をしない性質だ。だからこそ熱しやすく話も合わせやすいが、同じくらいすぐに興味は他に移る。それは物に対しても、人に対しても、そうだった。

 ふわ、と小さく欠伸を零す。しかし別に彼女のこともこの漫画のことも嫌いなわけではなく、断る理由もない。私はひとまずそれをスクールバックに詰めて、友人から借りたバンドのCDを手に取る。このギターやってる人、すごく格好いいんだよなあ。ちょっとだけ先輩に似ているような気もして――私は憧れの三年生の先輩を思い出しながら、へへっと頬を緩めた。





「ふぁ……」

 欠伸を手のひらに零す。向かい側の席でペラリと頁を捲る音が止まって、沖矢はふとこちらに顔を上げた。しまった、大口を開けていたの、見られてしまっただろうか。ぱしっと指先で口を閉じて、私はへらっと笑った。
 
 沖矢は眼鏡の位置を直してから、再び手元の本へと視線を落とした。そしてもう一ページ捲りながら、眼鏡の奥の視線を文字に走らせる。

「寝不足ですか?」

 こちらに目も遣らないものだから、一瞬私に向けられた言葉だとは気づけなかった。私がぼやーっと黙っていたら、不思議そうに沖矢がこちらを一瞥したので、ハっとして答えた。

「ううん。ちょっとボーっとしてただけ……」
「にしても、顔色が芳しくない。今日は早く休んだほうが良い」
「え? マジかあ、恥ずかし」

 隈とかできていたかな、と目元を摩っていたら、沖矢は苦笑いしながら「別に不細工なんて言ってないでしょう」と言う。――私もそこまで思ってない! そんな言い草に機嫌を損ねて私は立ち上がった。

「分かった。じゃあ今日はもう帰る」
「……送りますか?」
「また明日!」

 一方的に言い捨てて踵を返す。我ながら、子どもっぽいことをしているとは思った。しかし、どうしてか沖矢といるときは、まるで三年前に戻ったような――そんな心の根が零れてしまう。言っておくが、これでもソコソコ世間渡りは上手になったほうなのだ。一応。

「失礼、いやな言い草をしたなら謝ります」
「別に、今にはじまったことじゃないじゃん」
「……肝に銘じます」

 小さく肩を落としたシルエットに一つ鼻を鳴らし、私はスタスタと玄関まで歩いて行った。勝手知ったる工藤邸――。最近はこの家に遊びにくる機会が多くて、つま先の方向に迷いはない。
 多少鼻息を荒くしながら大きな玄関の扉を開けると、眩しい日差しと共に「おわっ」と驚くような声が差し込んだ。キラっと日差しが反射するレンズ、チクチクとした髪のシルエット。

「風見さん」
「ああ、君か。急に出てくるから驚いた……怪我は大丈夫か?」
「もう大分良いよ。風見さんはお仕事?」

 私は彼が持ついくつかの大きなショッパーを眺めながら尋ねた。まるでセレブの買い物帰りのような荷物の多さに、一体何が入っているのだろうと純粋に疑問だったのだ。風見は一瞬「え」と言葉を詰まらせた後、咳ばらいをする。

「まあ、そんなところか……。もう帰るのか」
「沖矢さんと喧嘩したから帰る。風見さんも変なこと言われないようにね」

 スポーツサンダルのストラップを留めて、私はさっさと玄関を後にする。風見が苦笑したような気配がした。
 ――まだ昼時。やれることはたくさんあるのだから、こんな苛々していてもしょうがない。折角だから、友人が進学したという大学にでも遊びに行ってみようか。そう思っていると、どうやら風見の後ろにいたらしいシルエットと肩を軽くぶつけた。

 なんだか私以上にボヤっとした雰囲気の女性で、折角の涼し気でクールな顔つきがその和やかそうな表情に打ち消されてしまっている。ダークブラウンのショートヘアが揺れると、ぽってりとした唇と目力の強い眼差しがよく見えた。私のぶつかった力なんてたかが知れているだろうに、彼女はそのままよろめいてしまったから、私は慌てた。

「ご、ごめんなさい」
「……ああ、良いのよ。お嬢さんこそ大丈夫?」
「私は本気で何もないけど……」

 ふ、と笑った声色は、どこかで聞き覚えがあった。ハスキーで落ち着いた、けれど女性らしい声。誰の声だったか、そんなことを思い出しながら女性を見上げる。カッターシャツに黒いスーツ。風見の後ろについていた彼女がこの服装なのだから、きっと警察かその関係者なのだろうと思う。
 風貌だけ見れば『ゼロの執行人』に出演していた風見の協力者にも似ているが、それよりもはもっとツンと尖った華やかさがあった。多分だが、異国の血が混ざっているだろうクっと上を向いた鼻も特徴的だ。

 てっきり風見の仕事の補佐か何かだと思ったのだが、玄関が閉まっても女性は特段後を追うわけでもなく、姿勢よくその場に立っているだけだった。――そう指示されているのか、先ほどのボヤっとした表情を見る限り、置いていかれているのか。

「あの〜、風見さん行っちゃいましたよ?」

 恐る恐る女性に話しかけると、彼女はそのツンとした目つきをぱちぱちと瞬かせた。人形みたいに睫毛がビッシリとしていて、瞬いたら本当に小さく音が鳴っていたと思う。

「本当……。私、またボーっとしてた?」
「うん……。大丈夫? 体調悪いんじゃないですか」
「いえ、今日はあの子たちが運動会だから……上手にやってるかしら」

 ――成程。ただボーっとしていたわけではなくて、何か考え事をしているようだった。
「お子さんですか?」
「いいえ、友達よ。ここの近くなの」
 彼女はそう答えながら、凍てついた表情が解けるようにパっと明るく笑う。その表情を見ていたら私も少し嬉しくて、自然と笑ってしまった。

「お姉さんは公安の人?」
「所属は公安ではないけれど、捜査員として協力しているの」
「……それ、私に言っていいこと?」
「さあね、口止めもされてないから」

 ふ、と厭味っぽく女性は片側の口角を持ち上げた。まるで映画のワンシーンのようで、恰好いい。ふわっと髪を掻き上げたときに、その瞳がグラっと揺らぐのが分かった。多分、コンタクトレンズをつけているせいだ。私もカラコンをつけているときに、偶に瞬きでズレてしまうことがあるから――。

 何か、引っかかった。
 心の奥で、やっぱり彼女のことを知っているような気がした。前の男もそうだったが、こういうことがあると、どうしてもう少し知識を仕入れておかなかったのだろうと思う。いや、まあ――知っていても知らなくても、今更何も変わらないのだろうけど。

 きっと、どこかで出てくるキャラクターなのだと思う。既視感のそれが、以前会った男と同じだったからだ。うーん、こんなキャラクターいたっけか。けれど、そのハスキーな声色と部分的な表情が、私の心に引っかかりを与えるのだ。

「ごめんなさい、気を悪くした?」

 私が考え込んでしまった様子を見て、女性は短い眉を下げてこちらを覗き込んできた。ぶんぶんと首を横に振る。妙な間が不安を与えてしまっただろうか。

「ううん。お姉さんが――なんか自由っていうか? 心のまま〜って感じで格好良かったから。見惚れちゃった」

 ニコリと笑ってそう言えば、女性は風を受けながら、明るくもニヒルでもない、物寂し気に微笑んだ。どの笑顔も彼女らしくて、美しいと思った。


「……そうね、私は何色にでも染まれるはずだから」


 笑った声に、私の頭の中のパズルが急にカチンカチンと噛み合う感じがする。そんな、まさか――と否定する声も、同じように頭の中に響いている。笑ったコンタクトレンズの向こう側は――予想している色が輝いているのだろうか。


prev Babe! next
Shhh...