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「キュラソー……」

 思い浮かべた名前は、つい口裏を突いて飛び出てしまった。パチンと驚いた強気な目つきが私を見る。しまったと口を押さえたが、きっともう彼女の耳には届いてしまっただろう。

 ――キュラソー。映画に出てきた黒の組織のナンバー2であるRUMの腹心。
 それだけでも驚くべきことではあったのだが、私が驚いているのはそれではない。私の知るコナンという作品で、彼女がここにいるはずがないのだ。キュラソーは、少年探偵団を守るために瓦礫の下敷きになってしまったのだから。

 だからこそ、驚きのあまり何も取り繕うことができなかった。同時に、考えた。確かあれは安室が赤井秀一の生存を知ってからの出来事――。つまり、緋色シリーズよりも後の時系列のはずだ。
 それは、もしかしたら私にも助けることのできた命だったのかもしれない。
 なんだか彼女を見殺しにしてしまったような――そんな気持ちになった。結果として無事でいてくれたのは何よりだけれど、私にできることは何もないと、そう考えていた自分に後ろめたさが走る。

「驚いたわ……。もしかして、あの人たちと関係あるのかしら」
「まあ、そんなような……。ごめんなさい、こんなふうに呼んじゃダメですよね」
「案外気に入ってるのよ、そのコードネーム」

 笑った彼女の清々しい表情に偽りはなく、肩を軽く竦めながらコツンと踵を鳴らした。どうやら、風見を追うつもりらしい。

「――まあ、今はただのお姉さん≠セけどね」

 くすっと笑った声は、風と共に爽やかに耳を擽る。ちょっとだけ意地悪っぽく笑う彼女の横顔の、美しいことといったらなかった。




「……なんでキュラソーが生きてるんだろう」

 私は新出と共にホテルに戻ると、自室に篭って一人呟きを落とした。
 落ち着いて映画の内容を思い返してみる。間違いなくキュラソーは最後に亡くなった描写があるし、風見もそれを確認していたはずだ。しかも、今は黒の組織としてでなく公安の協力者ということは、その時に何かあったとしか思えない。

 そしてその何かとは――きっと、私のように名探偵コナンという作品を知る人物の介入だろう。しかし、安室は確か以前に此方の世界に来た人物は皆殺されたと話していた。だから、可能性は二つ。一つは、単純に向こうの世界から来たことを悟られないよう、何らかの方法で隠れ住んでいたこと。一つは、私が来たよりも後に此方の世界に来たと言うことだ。

 その人は大丈夫なのかな。今もこの世界のどこかにいるのだろうか。

 私は偶然安室に拾ってもらえて、しかも彼が思いのほかずっと親身になってくれたおかげで平和に過ごせているが、他の人はどうなのだろう。見ず知らずの人間であっても、さすがに命の危機が迫るような状況にあったとしたら。――もう、黒の組織はないとは言っても。

 
 私は少し悩んだが、一度安室に相談を持ち掛けることにした。忙しいかと思っていたけれど、案外コール音は短く、悪戯っぽい声色が『悪戯電話じゃないだろうな』と笑った。この間電話をしたばかりだというのに、そんな声が懐かしく、恋しく、私はベッドの中にぼふっと飛び込みながら笑った。

 事情を離せば、安室は少し考え込むような間の後に『そうか』と呟く。
「や、別に助かったぶんにはバンバンザイだし? 全然原作から変わってるのは良いと思うんだけど、誰がそんなことしたのかなって思って……」
『確かに君の言う通り、キュラソーは東都水族館での一件以来公安で保護をしてきた重要参考人だ。観覧車の暴走から、間一髪で抜け出したんだよ』
「そっか……」
『出血がひどく意識は朦朧としていたらしいが、声を掛けたのは男だったそうだ。あの場にいた人間すべてをしらみつぶしに探すのは無謀だったから、あまり気にしてはなかったけれど……』
 安室もどことなく気になる部分があるらしい。私の話を反復するように呟いてから『分かったよ』と返答が返ってきた。

『仕事の合間に調べてみましょう。確かに、こちらの知識があるのなら、その人物の把握くらいはしておいたほうが良い。君のように仮戸籍を作ったのかもしれないから、その線から追うことにするよ』
「うん、ありがとう」
『別に礼を言われることじゃないさ……。他に、何か手がかりがあったりするかい。芹那が知っていることと違うこととか。もしかしたら同じ人物が関わっているかもしれないから』
 
 私はそう言われて記憶を辿った。強いて言うのなら、沖矢昴が存在することだが――。それはもう安室も知るところだろうし、いちいち言わなくても良いだろう。

「あ……。原作と違うかは分からないけど、ちょっと気になる人なら会ったよ」
『へえ、どんな? 思い出せますか』

 気になる、というか既視感が思い出せなかった人。だけど、会ったときの感じはキュラソーを見たときと似ていたような気がする。実際に会話を交わしたと言えど、私は外見の特徴くらいしか覚えておらず、まさかこんな特徴で日本国内から特定なんかできないよなあと思った。

 高身長で、ガタイもそこそこ。面長な顔に並ぶ、安室とよく似た垂れた目つきと、正反対に太くきゅっと吊った眉が印象的だった。煙草を吸いにきていたから喫煙者で、歳は二十代か三十代か――見た目は大人っぽかったけれど、喋り方が思いのほか若かったから、印象は曖昧だ。

 それから出会ったファミレスの場所を伝えると、安室は暫く黙りこくってしまった。

 先ほどのような考え込む雰囲気もなく、どちらかといえば言葉をなくしているような雰囲気だ。やっぱり、あまりに抽象的すぎたのだろうか。何なら似顔絵でも描いて送ろうか、と言葉を続けると、安室はようやく自我を取り戻したように『いや』とそれを諫めた。


『……知り合いによく似ていたんだ』
「本当!? あー……そうかもしれない。だから知ってたのかも」

 私はもう一度遥か奥に仕舞われた記憶を掘り返してみるが、やっぱり思い出せない。ウンウンと唸っていたら、安室は『今度声を掛けてみるから、会ってみるかい』と提案した。彼がそう言うくらいだから、信頼できる男なのだろう。――安室の同僚に、そんなキャラクターは出てきただろうか。

 もしかしたら、何か手がかりになるかもしれない。私は二つ返事で「分かった」と返せば、安室は真剣な声色で『ただ……』と切り出す。ごろんと寝返りを打って、天井を眺めながら、安室の言葉を待った。

 言葉を溜める安室の様子に、珍しいなと思った。いつでも思ったことを言う人だったし、仮に言葉を潜めていたとしてもそれを感じさせない人だったからだ。彼が言葉に詰まるほど言いづらいことだったのだろうか。

 すう、と息を吸う感覚が受話器越しに伝わった。
 一体何を切り出すのだろうかとそわそわしていたら、彼は至極真面目な声色のまま、まるで帰宅が遅いと叱りつけたときと同じような雰囲気で話し始めた。

『ソイツと会うときは、いつもみたいな恰好を絶対にしないこと』
「……え? いつもって」
『出来る限りTシャツとデニム……シルエットがでない形のもので……。できるだけカーディガンも羽織っていってほしい』
「待って。安室さんが会って良いって言うんだから、きっと良い人……だよね」

 私が痴漢だらけの満員電車に乗るような口ぶりじゃないか。そんな怪しい男に、安室がまさか取り合うようなことはない――と思いたい。いや、信じている。語尾を上げて疑問形のまま返すと、安室はぐぐっと唸ってから重たいため息をついた。

『……まあ、警察官としては良い奴かもしれないね』

 半ば諦めのような呟きに、私は天井をの電球を首を傾げながら見上げた。本当に、いつもの安室らしくないと思ったのだ。


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