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 私は男との待ち合わせ場所に着くと、セルフサービスの水をちみちみと飲みながら時計を眺めた。安室の知り合い――と言われて紹介されるのは初めてのことで、なんだかソワソワとする。風見と会ったのは偶然だったので、そんな気持ちも起きなかったのだけど。彼に恥をかかせないように、なんて謎の責任感まで生まれてきて、不思議と背筋が伸びてしまった。

 
「……なんだかんだいって、安室さんの言われる通りに来ちゃったし」

 
 私は自分の服装を見下ろし、苦笑いする。色気のない無地のTシャツにテーパードパンツと薄手のジャケット。あの後「なんで?」と幼い子どものように問い詰めてみたが、安室は言葉を濁して「何でも」なんて、都合の悪い親みたいなことしか言わなかった。
 それでも私にとって彼の言葉は他の誰の言葉よりもズッシリとくるわけで、納得できないままに言われた通り、体のラインの出にくい服装で訪れたのだ。現金な自分に呆れながらも、そんな感情すらちょっぴり愛おしいとも思えた。

 そんな時だった。
 向かいの席に、一人の男がどっかりと腰かけたのだ。それは紛れもなく以前ファミレスで見掛けたままの男で、長い髪を軽く掻きわけると、垂れた目つきで私をジトっと見据えた。なんだか睨まれているようにも感じて、ギクリと体を強張らせる。

「へえ〜……」

 第一声はそれだった。
 人を眺めておいて第一声が「へえ」だなんて、失礼な男だ。そうは思ったが、大人っぽい顔色はどことなく苛立ったように口を曲げていて、私は何かしてしまったかと自分の行動を脳内で振り返っていた。
 まさか、水を先に取りに行ったことだろうか。そんなわけないとも思ったけど、安室の同僚ということは三十代くらい。年下に舐められているように思っても可笑しくはない。
 私は慌てて「すんません」の「す」の字を口にしようとしたとき、彼は不機嫌そうに重たいため息をついた。

「なぁるほどねえ。十年ぶりの連絡が女を紹介してえって、随分じゃんよお」

 ――アンニャロウ、という言葉が吐き出された瞬間、得心がいった。
 彼は初対面の私を通して、安室への憤りを抱いているらしい。私が「すみません」と疑問形になりながら告げると、男はパっと顔色を変えて、ニコニコと効果音がつきそうなほど愛想を好くした。

「ごめんな、怖がらせた? 俺は萩原。ゼロの知り合いだって?」

 男から、ゼロという言葉が飛び出したことに私は驚いてしまった。
 ゼロ、零。漫画の中では、降谷零のあだ名として称されていた。彼はそれほどに彼と親しいのか、それか彼が身元を隠す前に知り合った男なのだろう。私の中では未だに安室透という名前のほうが馴染み深くて、その単語にはドキリと緊張した。

「う、うん。芹那……白木芹那、です」
「あはは、敬語じゃなくても良いよ」
「本当? 後から怒ったりしないよね」
「寧ろ若い女の子と楽しくおしゃべりできて嬉しいよ。アイツに感謝しなきゃなあ」

 くくっと笑った萩原のほうを見遣ると、視線が合った。すると彼はパチン、と気障に片目を閉じて見せるではないか。ぽっと頬が熱くなった。安室が絶世の美男であるとするなら、萩原はイケメンと呼ぶのがしっくりくる。一昔前の、レトロっぽいドラマに出てくる俳優みたいだ。安室の容姿よりちょっと俗っぽいところが、彼の色気を感じさせた。

 最近沖矢に感じる穏やかさとは異なり、芸能人でも前にした気分になってしまって、私はカッカと頭から首からを赤くしながら肩を縮こまらせた。

「で、ゼロからは俺に会って確認したいことがあるってだけ聞いてるけど」
「……そんだけ?」
「そう。酷いもんさ、俺に対する扱いなんてなあ」

 よよ、とワザとらしく頬に手を当てる萩原に笑いながら、私は何と説明しようか悩んだ。まさか、違う世界から来て、なんて出だしで相手をズッコケさせるわけにもいくまい。しかし上手く説明する言葉が見つからず、ひとまず言葉を濁しながら事情を説明することにする。

「実は、困ってるかもしれない人がいて……。その手がかりになるかもって思ったの」
「困ってるかも、かあ。ずいぶん抽象的な言い方するね」
「……分からないんだ。萩原さんに会えば分かるかもって思ったけど、結局何も思い出せなくて」

 確かにどこかで見たことがあるような気がするのだけど。萩原、という名前も聞いた事があるような、ないような。曖昧な既視感だった。ありふれた名前だし、何かの話にチラっと出てきただけのことかもしれない。
 それをどう確認したら良いのか――。ううん、と言い淀んで、私はなんとか頭の中の思考を振り絞った。

 私は萩原がどんな人物なのかを知りたいわけではなくて、キュラソーのように原作を変えた可能性があるかどうか、それを確かめたいのだ。それに関わったのは、もしかしたら私と同じ世界の人間かもしれないから。
 彼がどういう人間なのかは分からないが、もしその人物が関わったとしたら――。


「……あのっ。こんなこと聞くの失礼かもしんないんだけど……、命を救われたことって、ある?」

 そう尋ねると、萩原は大人っぽい顔つきを斜めにした。黒く長い髪の毛は、鎖骨ほどにさらっと揺れていく。怪訝そうな顔。私は弁明するように言葉を継ぎ足していく。

「例えば、命からがらのとこを誰かに助けてもらったとか。すごい危なかったところを誰かの助言で避けれたとか、その言葉がなかったら危なかったかもしれないとか……」
「……それが、君の探すものに関係あるってわけか?」
「多分……? あるかも、って話なんだけど……」

 その部分に関しては全く確証がないので、言葉はもにょもにょと自信を失ってしまう。萩原は暫くの間、机の上で長い指をたたら踏ませながら視線を落とした。その指先は、以前会った印象の所為か、煙草を求めているようにも窺えた。

「困ってるかもしれない人、だったっけ。そんな曖昧な人を、どうして助けたいの」

 萩原は、ふう、と小さく息をつきながら頬杖をついた。話が脱線しているような気もするが、ひとまず彼の質問に答えるのが先だろうか。私は戸惑うことなく、思っているままを言葉にした。


「私と一緒かもしれないから。一人で怖くて、不安になっているかもしんないから……」


 それを助けられるかは分からないけど。少なくとも、私はそうやって安室に安心感と僅かな日常を貰ったから。私も誰かにとって、そういう立場になれたら――良いなあと思う。

「まあ、そんな人いるか分かんないんだけど」

 いないかもね、なんて苦笑しながら言えば、萩原は先ほどの愛想笑いよりほんのり柔らかな笑みを浮かべた。年上らしい、穏やかな笑顔だ。

「適当な事件に、降谷が手を貸すわけないさ」

 萩原はそう肩を竦めて笑うと、周囲を見渡した。そして「ここ喫煙席だっけ」と問いかける。――「違うけど」、そう答えると、彼はガックリと露骨に項垂れた。なるほど、今度もし会う機会があれば、喫煙席に座ってあげよう。

 萩原は肩を落とした後、ウェイトレスを呼び止めてコーヒーを注文した。私も同じタイミングでチョコレートサンデーを注文し、ウェイトレスがにこやかに踵を返したあと、萩原は長い指で下唇をなぞる。

「……あるよ。命を救ってもらったこと」
「――え、本当!」
「ああ、それこそ十年くらい前かな。機動隊の爆弾処理班に所属してた時さ……、俺が処理しに行く前に、助言した奴がいたんだよ」
「それって、どんな人か分かる?」

 ぐいっと食いつくと、萩原はキョトンと目を丸くして、頭を軽く掻いた。

「どんな奴もこうも……。俺のダチだよ。ゼロのがよく知ってるだろ」

 ――諸伏って言う奴さ。諸伏景光。
 
 喧騒の中で、低くゆったりとした男の声が、やけによく響いて聞こえた。


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