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 ――諸伏景光。
 その名前を口の中で反復する。ずいぶんと印象的な名前だった。私にとっては、もう一つの名前のほうがなじみ深い。その名前は、確か、スコッチ――安室と赤井に確執を生んだ男の本名だった。

「本当に突然だったんだ。俺と同僚が解体する予定の現場に向かってる時に、手を引っ掴んできてさ。爆弾を解体したら死ぬぞなんて言い出したんだから……」
「そ、それでどうしたの?」
「学校時代から、冗談なんて言う奴じゃないのは知ってた。なるべく厳重体勢で解体してたときに、スイッチが起動してボン! さ……」

 言うなり、萩原は羽織っていたジャケットの腕をするすると捲った。右腕の手首から肘にかけてが、古傷のように皮膚の色を変えていた。私が息を呑むと、萩原は苦笑いして「ごめん」と言う。私はそれに謝罪させてしまったことが申し訳なくて、ふるふると首を振った。

「もう痛くないの」
「モチ。十年前だよ、最初は痛かったしリハビリもキツかったけど、もう古傷さ」
「……そーういうもん?」

 首を傾げれば、萩原はクックと笑いながら「そういうもん」と頷く。ジャケットの袖をくるくると戻しながら、萩原は話を続けた。

「それに、防爆服着てなかったらこんなんじゃ済まなかったよ。俺ぁ、昔からそういう重っ苦しいモンが苦手なんだ。諸伏の奴が言わなかったら、そのままお陀仏だったろうなあ……」

 腕を擦るもう片方の大きな手。私はそれを眺めながら相槌を打つ。成程、降谷と親しいようだと思っていたが、先ほどの口ぶりだと降谷の同期の一人なのか。諸伏も降谷の幼馴染だし、それなら丁度年代も合うだろう。
 だけど、それならば私の杞憂だったのだ。
 だって、彼らキャラクター同士が関わったことならば私が干渉することでもなく、第一それで原作が曲がったのかどうか、それが原作通りなのかも分からないのだから。私は彼に礼を述べた。結局男が誰かは分からないままだとは言え、ちょっとだけ心がスッキリとした。

「悪いね、役には立てなかったみたいで……」
「ううん。話してくれてありがと。ちょっと安心したかな」
「はは……。またゼロに会ったら、元気にやってくれって伝えてくれよ」

 私も伝えられるのがいつになるかは分からなかったが、私はそれを承諾した。後は運ばれてきたチョコレートサンデーを楽しむことにしよう。

 その後、コーヒーを嗜む萩原と会話を楽しんだ。
 予想した通り降谷の警察学校時代の同期だという彼は、降谷の昔の様子を面白おかしく話してくれて、私は只管にそれが面白くて腹がよじれるくらいに笑っていた。安室も相当人とのコミュニケーションが上手いとは思っていたが、萩原はそれに勝るとも劣らず。話し始めて五分後には既に人見知りのひの字もなくなっていた。

「んでさあ、降谷ちゃんが教官に言い訳してる間に、俺たちで必死に風呂掃除済ませたってわけ。そのあと風呂場で熟睡したけど、見つかって罰則増えちまった」
「あはは、良いなあ。楽しそー」
「馬鹿言えよ。もう二度とあんな学生生活送りたかねえぜ」

 冗談めかして肩を竦めた姿に、私はもう一度声を上げて笑ってしまった。人の緊張感という垣根を、するりと隙間から入り込むような人だった。だからといって、こちらが嫌がることに踏み込むこともなく、気持ちよく話せるようにほどよく話題を振ってくれる。上手い人だな〜、なんて安易に考えながらパフェの奥にあるフレークを掬って、その食感を楽しんだ。

 彼の話には、五人の男がよく登場した。
 萩原と、降谷、諸伏――それからあと二人。萩原の悪友だという分解魔と、彼曰く心の優しきガタブツ。他の面々も話の中には出てきたが、取り分けその五人は特に仲が良かったのか、話に頻繁に挙がった。
 彼らの警察見習い時代の話を聞きながら、一体どんな人達なのだろと想像を膨らませていたら、机の上に置かれた彼の携帯が震えた。

「……っと、噂をすりゃあ分解魔だ。悪いね」

 大きな手のひらで軽く断りを入れてから、彼はしつこく鳴るバイブ音を止めた。先ほどまでよりもやや愛想を欠いた声が、「おー」と手慣れた様子で電話に出る。向こうから聞こえる誰かの声は聞き取れないが、その声色が男とだけは判断できた。萩原がゆったりと欠伸がでそうな口調をしているのに対し、向こうにいる男は何やら声を荒げている。

「何もなかったよ……。マジだって、隠してるわけじゃねえし」
『……! …………!!』
「だあ、うるせえ。降谷ちゃんからは彼女の話を聞けとしか言われてないんだよ」

 ――その萩原の言葉で、漸くの事私のことを話しているのだと分かった。ちらっと此方を見遣った垂れ目に、私は自信を指さして首を傾げた。萩原は苦笑いと共に一度深く頷く。私は受話器の向こうに聞こえないように、少し声を潜めた。

「久々に連絡来たこと、怒ってる?」
「そうそう」

 殆ど吐息だったが、笑い声を吐き出すようにして萩原が答える。私は少し考えてから、こそこそと彼に提案をした。

「良いよ。別にここに呼んでも」
「え? ああ〜……。でもなあ、こいつ今機嫌最悪だぜ」
「大丈夫、さっきの話思い出したら大分可愛いと思えそう」

 悪戯っぽくそう言ってみせると、萩原はウウン、と一度考え込んでから頷いた。それから受話器の向こうの男に住所を伝え、何かあれば直接聞くと良いと言った。向こう側の男はすぐにその言葉に反応し、電話をブツリと切ってしまった。

「本当に良かった? オッサンだし、柄悪いし、悪い奴じゃあないけども」
「大丈夫。あむ……降谷さんの知り合いなんでしょ」

 降谷、と口にしたのは、あまり馴染まなかった。本名は分かっているけど、急に堅苦しさが増してしまう。強張った声色は気づかれなかっただろうか、萩原は特に気にした様子もなく、「まあね」と頭を掻いた。


 萩原の連れだという男がここに着いたのは、それから三十分ほど後のことだ。すでに私も萩原もカップの中身を空にしていて、高校の時にファストフード店に入り浸ったときのことを思い出した。
 ネイビーのスーツが翻る。男は苛立たし気に、何故か萩原の横ではなく私の横にどかっと腰を落ち着けた。びくっと私の尻が跳ねた気がする。サングラスの奥にある瞳が、こちらを睨みつけるように見つめる。


「十年ぶりの電話がこんな小娘のことねえ。ほーお、随分と舐められたモンだなあ」


 頬を引きつらせながら、男はなんだか先ほど聞いたばかりのような台詞を吐き捨てた。萩原のサラっとした長髪とは対照的に、男の髪はチリチリとパーマをかけたように丸まっている。

「……ん?」

 私は眉を顰めた。萩原を見たときよりも、決定的な違和感と既視感だった。私はわなわなと口を震わせながら、ようやく走馬灯のような記憶が巡るのを処理しきれないでいる。頭の中で、安室が爆弾を解体しながら額を拭った。

『焦りこそ、最大のトラップだったよな……松田=x

 頭の中に描いた回想の映像と、目の前の人物を照らし合わせる。私は愕然として、鋭い目つきを捉えた。

「松田刑事……?」

 ぽかんとしたまま尋ねたら、松田は訝し気に眉を顰める。「佐藤刑事の元カレの」と呟くと、露骨に口もとを引き攣らせて、「いつの話してんだ」と顔を逸らした。萩原は不可解そうに私を見る。

「知ってんの、コイツのこと」
「えっと、噂にはかねがね……?」
「何の噂だよ」

 今度は松田が呆れたように呟いた。私はまるで逃げ場を失った脱獄囚のように、二人分の静かなまなざしを受けて、しかし心の中の動揺を隠せないままでいた。松田陣平――。彼もまた、あちらの世界では故人として描かれていたキャラクターだ。

 ――やっぱりいるんだ。誰か、あっちの世界から来た人が……。

 その確信だけは掴めたものの、今の私に必要なのはこの二人の男の威圧感から逃れる方法であった。


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Shhh...