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 長いコール音が響くだけ――それが数回、いつも決まりきったアナウンスが流れる。
 沖矢と例のいざこざがあってから五日間、その間何度も考えながら、ひとまずは安室に連絡を取ろうと思ったのだが、忙しいのか一向に電話が通じる様子はなかった。私は天井を見上げて、ごろんとベッドに仰向けになった。


 私の知るスコッチ――諸伏景光の存在。
 彼は、安室と同じく日本警察の中から黒の組織に潜入していた捜査員だ。組織にスパイであることがバレてしまい、逃走を余儀なくされた。そこで赤井秀一と邂逅し、赤井は自らがFBIであることを諸伏に明かす。一度は理解を示しかけた諸伏であったが、階段から聞こえた足音を追手のものだと認識し、赤井の銃で胸ポケットの携帯ごと自らを撃ちぬいた。

 それが、私がいた世界では彼の最期であった。
 
 しかし、沖矢は間違いなく「毒を飲んで死んだ」と言っていた。しかも、あの言いぶりだと諸伏本人が持っていた毒なのだろう。どうして、そんな最期を迎えることになったのだろう。

「……苦しかったから、とか」

 私は一人呟いて、ううん、とまた一人でかぶりを振った。だって、諸伏は自分の持つ情報を全て消し去るために拳銃自殺を選んだはずだ。苦しくないからと、安楽死を選ぶような人柄だとは思えない。

 
 私は大の字になった腕を泳ぐように上下に動かして唸った。分からない。分からないことばかりだ。こういう時に、安室に相談出来たら一番なのに――。けれど、彼に諸伏のことを尋ねるのはやはり酷なことにも思えた。

 考え事ばかりしてたら頭が痛くなってきて、私はがばっと起き上がる。
「……甘いもの食べに行こ」
 次第に気が滅入ってきたので、デニムのジャケットを羽織って、コンビニに行くくらいのラフな服装で私はホテルを出た。ぐるぐると散歩をして、帰りにアイスでも買って来よう。


 外を歩いていると、ジャケットが重く感じるほどに気温は高くなっていた。この間まで夜が肌寒かったなんて信じられない。私はジャケットの腕を抜いて、肩に掛けて歩いた。日差しが眩い。そろそろ日焼け止めくらいちゃんと塗らないとな、腕に差す陽を感じながらそう思った。

 もし、例えば――諸伏が原作を曲げるような動きをしていたとして、その後ろで他の誰かが関わっていたとして。
 その人は、私が思うような人なのだろうか。私のように、寂しく心もとなく生きている? それとも、自分の知識をこれ幸いと別のことに活用している? 後者だとしたら――それは、悪いことではないと言い切れるのだろうか。

 そして、それが悪事に利用されていたとしたら、私はどう対応すれば良いのだろう。犯罪じゃない。この世界では、起こったことはそのまま現実なのだから。一言で悪かと問われれば、それで命を救われた人も多くいる。

「……なら、私が見つけなくたって良いのかな」

 はあ、と空を見上げた。空は憎らしいほどに青く、絵に描いたように白い雲がゆったりと流れている。流れとは無縁みたい。私もあんなふうに生きていたいなあと漠然と思う時がある。
 けれど、そんな風に生きるには、私はもう安室という男に感情を入れ込みすぎている。漠然と平和に生きる方法はただ一つ、以前のように何にも関心なく、特に思い入れも持たず、日々の中に小さな幸せを見つけながら生きれば良い。
 何なら、安室のことなんて忘れて今すぐカナダに帰れば楽しいキャンパスライフが待っているわけで、日本に留まるにしてもポアロでバイトしながら好きなことを学べば良いのだから。

 でも、そこには安室がいない。
 あるのは、私の身に付いた安室の影だけだ。料理一つ、字の書き方一つ、部屋の掃除の仕方一つ――そんな微々たる面影が、私について回るだけ。それに耐えられない。恋しいという想いが、胸を張り避けそうに襲ってくる。

「あーあ」

 この悶々とした想いは、彼に会えれば消えるだろうか。きっと消えると思うのだ。また、前のように、ハグをして頭を撫でて欲しい。心配したんだよと笑ってほしい。それを願うのは、やっぱり我儘なのかなあ。


「……あの」


 突然声を掛けられて、私は驚いて「はい!」と大きな声で返事をしてしまった。振り向いた先にいる男は、私の声にパチンと吊り上がった目つきを瞬かせる。
「ごめん、この辺りの人?」
「そう……ともそうじゃないとも言うかも。でも詳しいよ」
「良かった。ちょっと道を教えてほしいんだ」
 男はホっとしたように笑うと、携帯の地図を開いてスイスイとズームにしていく。確かにこの辺りはビル街が多くて、GPSがよく訳も分からない方向を指すことがある。彼の携帯画面の矢印も、ここから日本ほどズレた道を指していた。

「ああ〜。この住所の場所? 案内しようか」
「本当に? 助かるよ……。さっきから同じところをグルグルしてたんだ」
「アハハ、方向音痴なの」

 けらけらと笑いながら、私は住所の位置をタップする。どうやら工藤邸のすぐ近くらしい。そのあたりなら土地勘はあるし、時間も腐るほど持て余していたので散歩ついでだと思った。
 男をチラっと振り返ると、彼はサラっと揺れる細い髪を日に透かしていた。――どこかで会ったことがある? 萩原たちの時のような既視感とは異なり、それは現実的な既視感だった。いつか、どこかで見掛けた姿なような気がした。

 けれど、彼はその吊り上がった目つき以外、安室や萩原、松田やキュラソーのように特筆するような異質な容姿もない。確かに爽やかで整ってはいるけど、探せばいるか、似ている人くらい。そう思わせるような人だった。

 彼は思いのほか気さくな男で、私が話すまでもなく、道中であれこれと話を振ってきた。別に嫌ではないような、他愛ないものだったので、私もそれに答えていた。今幾つ、とか。今日は何かする予定があったか、とか。

 そんなことを話しているうちに、工藤邸がある通りの近くに出た。
 この近くは住宅街になっていて、平日の昼間は特に人通りが少ない。近くの家から、赤ん坊の泣き声がした。


「ありがとう。この辺りで大丈夫だよ」
「良いの? このへん、住所分かりづらいけど……人もあんまり通らないし」
「ああ、大丈夫だ。――だから、選んだんだから」


 ん、と振り返る前に、大きな手がぐっと肩を押した。コンクリートの塀に背中が押し付けられる。目の前の男は相変わらず人の好い顔を崩しておらず、苦笑いして見せた。ケホ、と咳き込んだら、心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「驚いた。――本当に生きてた」
「な、に……?」
「ここまで顔見せててもバレないもんだね。さっき見掛けたときは驚いたな。――確かに死体まで確認させたのに……白木さん」


 はあ、とため息をついた低い声に、私はハっとした。暗闇の中で印象があまりに違ったから、一致しなかったが。あの時の、フードの男だ。そう気づいたときには、私の体は持ち上がっていた。ぱた、と足を揺らすと、それを煩わし気に冷たい視線が見下げる。

 そうだ、確かこの男も――降谷の正体を知っていた。もしかしたら、何かが関係あるのかも。そう思い付きはしたが、ぎちぎちと締まっていく気道に、息ができなかった。首に体重分の負荷がかかっているせいか、喉が苦しい。

 もしかして、殺されるのか。
 危機感が頭を過ぎる。だが目の前の男の顔を見ていると、不思議と殺意に満ちたようには感じなくて、私は抵抗する力が抜けてしまった。この人なら、きっと苦しまないうちに殺してくれるだろう。それも、良いのかも。


『芹那』


 頭の中で、一つの声が響く。走馬灯かなあと涎が溜まった口の中をコポ、と鳴らしながら考えていた。その声を聴いた瞬間、駄目だと思った。死ねない、殺されてはいけない。そんな意思だけが芽生えて、ほぼ吸えない息を鼻から必死に吸い込んだ。

 空に向かって、擦れた声で、息すら上手く出ていない声で――私は呼んだ。
「あむろさん」
「芹那――!」
 そう聞こえたのが頭の中なのか、現実なのか、今の私にはその分別すら難しい。けれど、聞こえた声は、安室の声色ではなかった。



prev Babe! next
Shhh...