65
長い脚が、男と私の狭間を割いた。
手が離れて、勢いよく息を吸い込む。拍子に噎せ返りながら喉を押さえると、目の前に男との接触を阻むような立ち姿がある。――沖矢だった。つい先日、私に怒りに燃えた瞳を見せた、その雰囲気と変わらないような激情が、握りしめた拳から伝わる。男が笑った。まるで他愛ない談笑をしている最中のような、緊張感のない笑い声だった。
「可笑しいと思ってたんだ。自分が餌だとでも言いたげに、ずっと沖矢昴が存在するんだから……」
「事実、釣れたのだから文句はないでしょう」
沖矢が、ふん、と冷たく言いあしらった。
――やっぱりだ。やっぱり、この男は間違いなく、コナンという作品を知っている。だからこそ、沖矢が今ここにいることに違和感があるのだ。そして、沖矢はそれに気づいている。
「……だから、ずっとここに住んでたの?」
確かに、沖矢とこの男には面識があるはずだ。私のように原作のことを知らないのにどいうやって特定したかは分からないが、彼なりに関りがあるかもしれないことに気が付き、わざと姿を変えないままでいたのだろう。沖矢は、「まあ」と素っ気なく返事をした。
「本来ならいないはずの人物なのでね。君の方が先に見つかったのは予想外だ」
「私……?」
「彼の本来の目的は、君のような――所謂、異世界人を始末することでしょうから」
静かな、淡々とした声が言い放つ。安室が言っていた。この世界に来た、私と同じような境遇の人たちは、皆揃って組織に消されたと――。なら、この男が組織の一人だと言うのだろうか。そうには思えないほど、朗らかで、敵意のない雰囲気がある。
「……でも、組織の人は皆捕まったって。だから私も帰ってきて良いって聞いたのに」
「彼が、組織内の人間ならね……」
「どういうこと?」
組織の人間じゃないのなら、異世界人を消す理由なんて想像がつかなかった。だって、私たちはいくら知識があるといっても、原作に描写されていない人間のことなんてこれっぽっちも知らないのだから。
私が訝し気に沖矢の後ろ姿を見上げると、沖矢は視線を真っすぐと男へと向けて、挑発的に笑った。
「正しくは、元組織の人間というのかな?」
「回りくどい言い方はよせよ、知ってるくせに」
ぶんぶんと手を横に振ってから、男は一通り笑う。腹を抱えて、肩を揺らして。至極自然に笑った。それからゆっくりと屈めた上体を起こして、彼は私に向かってゆっくりと目を細めた。吊り上がった目つきは、ニイっと細められると、狐のような厭味ったらしさがある。
「初めまして、スコッチ――これがオレのコードネームだ」
のどかな住宅街に響いた、似つかわしくない響き。私は理解ができず、早く瞬いてから、行動をフリーズさせた。数秒後、ようやく零れた言葉は「は?」だった。スコッチ――。スコッチ、って。私の知る中では、スコッチとコードネームがつく男は一人だけ。諸伏景光に他ならなかった。
――いやいや、だって、スコッチは死んだはずじゃないの。
それに、安室の友人であるはずの彼が、どうして敵に回るような真似をするのだ。
困惑の色を残したまま、沖矢のほうを見た。彼には予想がついていたのだろう、彼は諦めたように、私に視線を落とした。
「……本当、なの?」
「信じがたくはありますが、僕の知る彼と見た目は酷似しています」
「見た目だけなら、変装とか……あるんじゃない? ほら、組織ならもしかしたら」
私がそう言えば、沖矢はぐっと眉間の皺を深くした。理由は分からなかったが、彼には何か確信的なものがあるらしい。私はますます訳が分からなくて、もう一度スコッチと名乗る男に視線を向けた。
――スコッチって、こんな顔だったっけ。
分からない。彼の特徴的な無精髭はなくなっていたし、黒髪で吊り目の男なんて、特徴だけなら大勢いるだろう。原作の知識とは比べることができなかった。
「分かるよ、だって親友なんだから」
「おい、よせ」
私がポカンとして男を見つめていたら、彼はニコっと愛想を好くして笑う。沖矢がそれを疎まし気に咎めた。何を言っているんだ、スコッチの親友は降谷だ。まさかそこまで、原作が変わっているなんてことはないはずだ。
「言っておくけど、偽物じゃないよ。嘘だと思うなら、触ってごらん」
「――寄るな」
「酷いな、ずっとオレのこと探してたんだろ」
「寄るなって、言ってるんだ」
歯を剥き出しにして、沖矢はスコッチを睨みつけた。私に踵を向けている、その足がジリジリと後ろずさった。恐ろしいものと対峙しているような慎重さで。アスファルトに落ちている小石を踏みしめる音に、私は視線を足元へ落とす。
「沖矢さんって、こんなに足小さかったっけ……」
ぽつりと、疑問が口を突いて零れた。赤井の足は、大きかった。それはもう、一見して強く脳裏に刻みつけられるほどに。スコッチの言葉が、私の頭の中の違和感を紐解いていく。
メアリーが彼のことを知らなかったこと、風見がわざわざ工藤邸を訪ねる理由、ティーカップについていたファンデーション、煙草の香りのしない家具。私を呼んだ、切羽詰まった『芹那』という呼び方。
だけど、そうは思いたくなかった。どうしてだろう、会いたかった。ずっとずっと探していたけれど、そうであってほしくはなかった。きっと違うと言い聞かせて、縋るように沖矢を見上げる。
どこか苦しそうに、ゆっくりと瞼が開いた。そこにあったのは澄んだグリーンアイではなく、雲がかかったようなアイスグレーの瞳だ。違う、違うと言ってくれ。その喉元の変声機を切って、あのハスキーな声で生意気に笑ってほしい。
「言ってやれよ、ゼロ。そこまでの奴なんだってさ」
スコッチが、にこっと笑いながら私を見下ろした。もうこの男がスコッチだろうが、そうでなかろうが、どちらでも良かった。我慢していた心に、ビキビキと大きなヒビが入っていくような気がする。
涙で戦慄いた声で「安室さん?」と尋ねかける。沖矢は、眼鏡を外すと、ハイネックの下にある変声機に指を遣った。
――聞きたくなかった。もう、良い。
もしかしたら、私のためなのかもしれない。私をカナダへ行かせた時みたいに、何か考えがあってのことなのかもしれない。分かってる、分かってるよ。分かっているけど――理解はしたくなかった。
ただ、彼は私とは違ったのだと、それだけがひどく虚しかった。
私が正しいなんて思っていない。ただ、私と彼は違った。ひたすらに安室の背中を追いかける私とは、もう嘘を重ねたくないとあの日誓った私とは――安室の願いは違ったのだ。それだけの、話だった。
会えたらただ嬉しいと思っていた。
それはもう、飛びついてその金色の頭を掻きむしってやりたかった。――でも、きっと安室は違うのだ。安室と私では、想いの質量が、きっと。
「安室さんは、わたしに、会いたくなかった?」
震える声。それに彼の口が再び開きだす前に、私はその場を飛び出した。背後から引き留めるような呼びかけが聞こえたけれど、ただただ走った。
騙されたことが悔しかったんじゃない。黙っていたことに怒っているんじゃない。
『僕を信じて』
いつか、安室が言った言葉がずっと頭にこびりついている。ホテルに着くと、ボロボロと零れた涙を見て新出がギョっと私に駆け寄った。
「どうしたんだい」
慌てたように問いかける新出に、私は泣きじゃくりながら「帰る」と言った。新出が聞き返すように首を傾ぐ。子どものように、涙をボロボロと零しながら、私は何度も「帰る」と口にした。
「もう、帰る……カナダに帰る。帰る……っ!!!」
だから、執着するのは怖かったのだ。もしも、相手が自分とは違う感情だったら。私がずっと一緒にいたいと思っていても、向こうが違ったら。私が風見に会わなかったら、ずっとあのままのつもりだったのだろうか。もし事件が片付いたら連絡をするつもりだとして、それって何年先のこと? ずっと、連絡すらとらなくても、大丈夫なの。涙が溢れてしょうがなかった。いっそ、あの場でスコッチが絞め殺してくれたのなら、これほどに苦しむ前に、何も感じなくなったのかな。――寧ろ、最初から、やっぱり人に執着なんてするべきじゃあなかったのだ。
『きっとまた違う場所に行って、そこに僕がいなくとも、君はなんとも思わないんだろうな』
ああ、それはそっちのほうじゃんか。執着しても良いなんて、どの口が言うのだか。
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Shhh...