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 思えば、すでに私の中で彼は、降谷零という漫画のキャラクターではなく、安室透という一人の男として存在していた。

 私のことを救ってくれたのは、私に手を差し伸べてくれたのは、生きる力をくれたのは――紛れもなく、安室透だ。彼がいるから、この世界でも生きていきたいと思った。傍にいた日々のほうが短いのに、毎日彼と過ごす日々を夢見て眠った。

 安室は確かに私を、大切には思っていてくれたのだろう。
 死んでほしくないと、きっと願ってくれていた。けれど、それは安室という優しい男にとって、もしかして当然の感情なのではないかと思った。彼は相手が私だろうと、他の人間だろうと、孤独で押しつぶされそうな人相手なら、変わらなかったのかと。
 きっと相手が誰であっても証人保護プログラムを適用させたし、きっと相手が誰であっても自らの素性を隠して沖矢昴になったことだろう。

 ふと、スコッチが『そこまでの奴』と言ったのを思い出す。確かにそうだ。私は彼にとって、そこまでの人間だった。

 それだけの話、簡単な話――。
 泣き疲れて、頭が痛くなるまで眠りこけて、ようやく整理がついた。昨日は、殆ど何が嫌なのかも理解しきれないままに泣いていたから、逆に冷静すぎて自分が恐ろしいくらいだ。

「でも、思わせぶりなことした安室さんも悪くない……?」

 私はフン、と鼻を鳴らして、布団のなかにグルグルと包まった。私を家族だなんて、過大評価したような口ぶりだったから、特別な人間だと思い込んでしまうじゃないか。こればっかりは、私の妄想癖ではないと思いたい。

「だって、一緒にご飯食べたし。一緒に寝たし……」

 ――それに、彼はいつでもそっと背を押してくれる。
 決して強制するわけでもなく、私の視野が広くなるように促してくれる。彼といると、不思議と自分の世界が広くなったように思えた。

 駄目だ、思い出したらまた泣いてしまいそうだった。
 だって、三年間焦がれていたのだもの。そして、彼もきっと私を探しているのではと、期待していたのだ。もう少し落ち込むくらい許してほしい。それが終わったら、また大人しくカナダの田舎に身を隠そう。新出を連れ回すのも悪いので、今度は一人で戻れば良い。

「……一人かあ」

 慣れない響きだった。
 あちらにも友人はいる。けれど、決して母のように、全てを投げうって私を愛してくれるような人ではない。だから、今度こそ、ソコソコの、まあまあな――そんな一線を引いて過ごさなくては。


「――さみしい」


 零した言葉は、誰に届くわけでもなく、どこに響くわけでもなく、部屋の中にぽつん、と置かれるだけだった。余計に虚しさを増長させて、心がもやもやとしていく。私はかぶりを振ると、髪を一つに軽く纏め上げて、ジャージから着替えた。

 行き先はなかった。
 けれど、あのまま部屋にいたら、心を巣食う寂しさに食い殺されてしまうような気がした。そうしたら、今度こそ――この世界に来てしまったことを、後悔してしまいそうで。それは嫌だった。この世界の人たちが、好きだった。


 何処へ行くでもなく、平坦な歩調で歩いていると、さも散歩していたから声を掛けました――なんて軽い風で、肩が叩かれる。「はい」と振り返ると、昨日見た顔と全く同じ笑顔が目の前にあって、私は思い切り声を上げてしまった。

「す、スコッチ……さん……!?」
「コードネームで名乗っておいて何だけど、日本だと目立つから止めよう。諸伏で良いよ」
「諸伏さん……な、なんで此処に……」

 いくらなんでも、スパン短すぎるでしょ!
 緊張感のないツッコミが心の中でグルグルと渦巻く。普通、今まで糸を引いていたなんて黒幕らしい男、滅多に姿を表してはいけないのではないか。
 男はそんな驚いた私の表情を見ると、少し控えめな微笑が、どこか懐かしそうに浮かぶ。その表情に、やっぱり私の心には警戒心や恐怖など芽生えなくて、強張った肩の力が抜けた。

「話がしたかったんだ。白木さんと」
「話……?」
「良いかな。話している間は何もしないって約束するよ」

 この間は乱暴してごめん――と、彼は待ち合わせに遅れたような口ぶりで謝る。そんな軽い、とは思ったけれど、なんだかそのアンバランスさが可笑しくて笑ってしまった。私が笑うと、諸伏もまた、堪えきれないようにククっと笑って見せる。

「ふ、物騒なことで笑わないでくれよ……」
「あは、ごめん……。でも、怖がらせるつもりもないでしょ?」
「まあな。……少し、歩こうか」

 そういうと、諸伏は白いスニーカーを踏み出した。可愛い、私も好みのデザインのスニーカーだ。彼の爽やかな白いTシャツに、よく似合っている。肩に掛けられたデニムのジャケットも、随分と最近の若者らしい服装をしていた。
 ――あれ、でも確かもう三十代か。
 それにしては、若作りとも言えるのかもしれない。髭がないと顔は幼めだし、雰囲気に合っているから良いけれど。

「――諸伏さんは、本当に異世界から来た人を殺してるの?」
「直球だな。まあ、そうなるかな」
「……どうして?」

 そう尋ねると、出会ってから初めて彼はその顔に影を落とした。すぐに雰囲気は和らいだけれど、その一瞬の表情が印象的で、ドキリと心臓が鳴る。

「邪魔だから。何の邪魔なのかは……言えないな」
「じゃあもう一つ。どうして萩原さんや松田さんの死期が分かったの?」
「知ってるから。君と同じだ、何も不思議じゃない」

 ――不思議でしょ。
 私は、だって、この世界のことを知っていたのだ。それと彼とは訳が違う。答える気はないようだ。諦めて息をつくと、諸伏は「じゃあ次はオレから」と口を開いた。


「まだ、生きていたいって思う?」


 それは、何気ないような口ぶりではあったけれど、私の言葉を奪うのには十分だった。
「だって、君のことをそんなに大切に想ってくれる人は、この世界にはいないのに。それでも生きていたいって思う?」
「でも、それって死ぬってことだよね」
「ああ。でも、死んだ先に何があるかなんて、君たちに限っては分からないだろ」
 どういうこと、と首を傾ぐと、諸伏はキョトンとして「だって、白木さん死んでないじゃないか」と言い放った。

「……死んでない?」
「前の世界で。死んだわけじゃないだろ。少なくとも、今まで会った人たちは皆、そう言って死んでいったから」
「死んだら元の世界に戻れるってこと」
「その可能性もある」

 戻ったところまで見たわけじゃないから分からないけど、諸伏はそう付け足した。考えたこともなかった。死んだら――というか、寧ろ元の世界に戻るという選択肢を考えてもみなかった。

 そうか、元の世界に――。
 本当に帰れるのだろうか。あっちの世界には母親がいる。女手一つで私を育ててくれた、私に似てちょっとだけズボラな母親だ。いつだって私を宝物のように扱ってくれた彼女――。きっと安室の時のように一方的な想いではなく、私が大切に想えば、彼女も同じだけの気持ちで返してくれるだろうと思う。

「きっと、寂しくないね」

 そんなぼやきは、無意識に口から零れ落ちた。確かに、その方が良いのかもしれない。そうしたら、全部元通りだ。私は元通りの世界で、また小さな世界で生きていく。


『――芹那!』


「……」
 そんな、切羽詰まった叫びが頭の中に過ぎった。目の前の男に、首を絞められた時と同じ。紛れもなく、彼の声。どうして、元の世界を考えようとしたときまで、彼の姿が浮かぶのか。

「ごめん。ちょっとだけ、考えても良い?」

 それは恐怖ではなかった。正直、ここで死んでも後悔はなかったのかもしれない。元の世界に帰れるかもしれないという希望のほうが大きかった。きっと私の死を知って安室は悲しむだろうが、そのうち忘れるだろうとも思った。けれど、ふと彼の声が浮かぶのは――人は、それを未練と呼ぶのかもしれなかった。
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Shhh...