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「なら、これをあげる」

 ――考えると言った私に、諸伏が手渡したのは小さな小瓶だった。中には一粒、カプセルがころんと詰まっている。私がそれを透かすようにして眺めると、彼は優しく笑いながら答えた。

「苦しまずに息を引き取れる。その後の世界を信じるも信じないも君次第だけど、痛いことは嫌いだろ」
「……諸伏さんは、そうやって皆を見送ってきたの」
「さあ――」

 殺したのか、自殺を促したのか。どちらかは分からないけど、彼は悪人という雰囲気はないものの、良い人ではないことも確かだと感じた。まるでリセット可能のゲームキャラクターみたいに、人の生死を語るからだ。
 けれど、私はその小瓶を受け取っていた。可笑しな話だ。諸伏の言葉を全て信じているわけではない。寧ろ、彼自身曖昧な言葉を使うだけで、元の世界に戻れるなんて断定はしていない。
 ただ、私の心には「まあそれでも良いか」という感情が、僅かに揺れているのも確かだった。自殺願望があるわけでもないが、なんとはなしに手放しても構わないと諦めていた。

 
 私はその瓶を持ち帰ると、ホテルの部屋の中でそれを掲げて眺めていた。見た目はアポトキシンとよく似た、赤と白のカプセル錠だ。傾けると、狭苦しい瓶というワンルームとコロコロと小さく転がった。

「……」

 そのカプセルをじっと眺めていた時に、スマートフォンが震えた。驚きのあまり瓶を取り落として、ベッドに落ちたそれを慌てて拾う。一度落ち着いてから、スマートフォンの画面を見ると、そこには先日機嫌よく登録した連絡先が表示されていた。それを取るのを、戸惑ってしまった。
 今から謝られたとして、私の胸の虚しさを余計に大きく広げていくだけな気がした。だったら、そんな感情知る前に。
 そうとも思った。けれど、私は無視することができない。そこに並ぶ安室さん、という文字を拒めないままに、そっと電話を取ったのだ。


『芹那!』


 ほら、そんな呼び方をするから。私は涙腺から押し出される涙をなんとか飲み込んで、電話を切ろうとした。やっぱり、彼の声をこれ以上聞いちゃいけない。また期待してしまうから、早く切らなくては。


『――開けては、くれませんか』
「……え、何を?」
『ここを』


 こんこん、とホテルの扉がノックされる。そんな、まさか。私は信じられない想いのまま、恐る恐るとドアのチェーンを外した。ゆっくり扉を引くと、あれほどに焦がれたブロンドが、ホテルのオレンジがかったランプを受けて輝いていた。そのブロンドを捉えた瞬間、ぐっと抱きすくめられて、彼の顔は見えなくなってしまった。

「何も言わずに、すみません。騙してしまって――嘘をついて、ごめん」

 ぎゅうと抱きしめられた体に、全身が震えた。折角飲み込んだ涙は、ボロっと蓋が壊れたように目の外に押し出されてしまう。私はふるふると首を振った。
「違う、私がそう思っちゃっただけなの……勝手に、期待してただけで」
「いや、僕が過信していたんです。君ならきっと待っていてくれるだろうと、分かってくれるだろうと……」
 大きな手が私の肩を掴んでこちらを真っすぐに見据えた。アイスグレーの瞳は、相変わらず私の姿をくっきりと映す。ただ、今の姿がやけに歪んで見えるのは、涙が溜まっているからだ。それが私なのか、彼の目なのかは分からなかった。

「僕が沖矢昴を装っていたのは、あの男を誘い出すため。君に言わなかったのは、あの男が君を殺そうと思っているのを知っていたからだ」
「わ、かってるよ。でも……でも」

 上手く言葉にはできなかった。ただ、私が泣いているところを見て、彼は平然とできていたことが嫌だった。私ばかりが、彼を追い求めていたような気がして。そう思えば、今までだってそうだったんじゃないかって思えてきた。

「芹那」

 申し訳なさそうに眉を下げて、彼は大きな瞳を揺らした。今揺れたのは、間違いなく安室のものだと分かった。キラっと、その瞳が涙の膜を張って光ったからだ。その表情を見ていたら、私はもしかして安室にものすごく酷なことをしているのではと思えてきた。

 ベッドの上に放ったカプセルを、視線だけでちらりと振り返る。

 どんなに自分が苦しいとして、どんなに自分が安室にとって、さほど特別な人間ではないとして――。そうだとしても。安室が私を呼ぶ声色が、頭の中で何度も反響した。それは、私を呼び止めるような声。

 ぽたんと落ちた涙が、安室の手を伝っていく。その指先が小さく震えていた。私の手も震えていたから、その事実に気づいたのは、涙の伝う先を視線で追ってからのことだった。


 ――かつて、安室が私に「君の居場所になる」と誓った日、きっと彼は今まで己に向けられたいくつもの優しさを思い出していたのだと思った。心細さに戸惑う人を見て、己を重ねていたと。だからこそ、私もそんな人を目の前にしたら同じように手を取ろうと、そう思っていた。

 今目の前にいる男が震えているのはどうして。一体、何が恐ろしくて指先をこんなにか細く震わせているの。

「……置いてかないよ」

 私はその指先を、きゅっと軽く握りしめた。――私が、彼を恐れさせているのか。胸がぎゅうぎゅうと締められるような心地で、伝う涙を拭うこともできないまま、ひたすらに手を握っていた。

「ごめん……安室さん、ごめん……。私、安室さんのこと、考えてなかったの」

 私が一緒にいたいからって、私がそうしたいからって。一方的な好意ばかりで、彼の想いを考えたことがなかった。考えることはできたのかもしれない。だけど、僅かに恐れていたのだ。もし、安室が私に興味をなくしていたらどうしようと、思っていたのだ。

「置いてかない。絶対、置いてかないよ」
「はは、暫く見ないうちに……本当に、大人になった」
「そんなことない。安室さんがいないと泣くし駄々こねるし新出先生にめっちゃ迷惑かけてきちゃった。勝手にいなくなろうとしてごめん」

 置いていかないから、黙って遠くに行ったりしないから。
 私は何度も言葉を繰り返して、まるで小さい子の手を握るように、殆ど力の入らない指先を握りなおす。酷いことをしてしまった。彼が何度も置いていかれたことを知っていたのに、自分の勝手で消えようとするなんて。私の方がよっぽど自分勝手だ。

 それから、その体にぎゅうと抱き着いた。落ち着く匂いがする。瞼を閉じて、その温もりを味わった。安室は、そっと私の頭を抱いて、髪を梳いた。

「まだ怒っている?」
「ちょっとだけ。もう良いよ、安室さんがそんな顔してる方が、もっと苦しいんだ」
「……そんな顔をしてたかい」
「酷い顔だったよ。ちっちゃい子みたいな顔してた」

 私はクスクスと笑ったら、安室も情けなさそうに声を上げる。不思議な人だ。あんなに死んでも良いなんて思っていたくせに、今はずっと彼の隣にいたいと思っている。ほんの少しの彼の言葉で、私の世界はこんなにも変わる。不思議な、人。

 彼は私の頭をぽんぽんと撫ぜてから、視線を合わせるように腰を屈めて笑った。ようやく見えた甘ったるい顔つき、ひどく綺麗な微笑だった。

「言っただろう。どれだけ嘘を重ねても、どれだけ離れた場所にいても、君の家族になるって」
「分かってる……これでも信じてたよ。三年間、待ってたんだから」
「待たせて悪かったよ」

 安室は一度肩を竦めると、大きく温かな手のひらで私の頬を軽く挟んだ。甘く、心地よく、懐かしい痛みがした。今まで手を差し伸べられてばかりの関係が、ほんの少し変わったような――そんな気がする。私は、それが満更でもなく嬉しかった。


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