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「本当にごめんなさい!!」

 私がばっと頭を下げると、隣に立つ男もサラリとブロンドを揺らして頭を下げた。その先にいるのは、黙々と荷物を纏めていた新出で、今はぽかんと半口を開けて私たちを見上げていた。私が先日よっぽど切羽詰まった様子でカナダに帰るなんて言ったからだろう。――ついてきてくれるつもりだったんだなあ、と心が痛んだ。

 事情を説明したら、新出はずいぶんと人の好い笑顔を浮かべて「そうでしたか」と頷く。眼鏡のツルに指先を触れさせながら、彼はホっとついた安堵の息と共に私を呼んだ。私が新出の方に視線を落とすと、彼は立ち上がって、小さい子に対応するように目線を合わせて微笑んだ。

「これからは、彼と一緒に住むんですね」
「う、うん。……ごめんね」
「別に裏切られたわけじゃないよ。最初から、君が安室さんを探したいと言うから日本に来たんだから」

 謝ることはないと言ってくれるが、なんだか彼を置いていくのが忍びなく思えていた。こんな私を見捨てず呆れず、三年と少し付き合ってくれたのだ。親身になってくれる人であった。新出は優しく安室のほうを見遣った。安室は少しドキリとした様子だったが、深く頭を下げた。

「プログラムのことでは色々とありがとうございました。この謝礼は必ず……」
「いいえ、そんなものは要りません。どうかこの子を大切にしてあげてください」

 ぽすん、と新出の手が私の頭に乗った。私はその温もりに感極まってしまって、薬品の匂いが残る体にぎゅうと抱き着いた。新出は、ひどく驚いて、眼鏡の奥にある目をまん丸にしていた。

 ――それはそうだ。
 恐らく新出が一番、私の人に触れられることを拒む体質をよく知っていたから。滅多なことがないと彼のほうからも触れてくることは少なかったし、怪我の手当てをするときだって慎重になってくれていたと思う。
 私は抱きしめる腕に、精いっぱいの感謝の気持ちを込めて。新出は驚きの表情を、ゆっくりと優し気なものに変えると、ぽん、ぽんと何度か背中を擦ってくれた。

「実は、丁度仕事にも目処がつくところだったんです。院もしっかり立て直していこうかと」
「ごめんね。私についてきたから、暫くできなかったんだもん」
「あちらでの経験も良いものだったよ」

 くれぐれも無茶をしないように、と泊まりにいく幼子のように言いつけられて、私はその体に抱き着いたままコクコクと何度も頷いた。この三年、不自由なく過ごせたのは紛れもなく彼のお陰だ。永遠の別れというわけではなかったけれど、少しだけ物寂しさを感じながら、私は名残惜しくその温もりを離した。




 私の荷物は、然程多くない。元々日本に渡った時にはある程度の着替えしか持ってきていなかったし、荷物といってもたかが知れていた。ならばこんなにドッサリと車に乗った荷物は何かと言うと、安室が沖矢として過ごしていた最中に溜まった工藤邸の荷物だ。殆どが仕事に関するものばかりだったが、すっかり工藤邸に引きこもって仕事をしていた所為か、こんなにも大荷物になってしまったらしい。

 そんなアンバランスな荷物が、後部座席で揺れる音すら、私の心を躍らせた。顔がニヤニヤとしていくのが押さえきれなくて、ついつい鼻歌を口ずさむ。そういえば、安室の助手席に座るのも久しぶりだった。

 どちらから一緒に住もうと言ったわけではなかった。ただ、私は会えたら一緒に住むつもりでいたものだから、早々に荷物を引き上げると彼に提案してしまったのだ。それを拒まなかった辺り、彼もきっと同じように思っていたと信じたい。

 車を走らせること三十分ほど、駐車場からは、少しだけ歩いた先に建つクリーム色の外装のマンションだった。以前住んでいたマンションより、大きいように思える。ドキドキしながら階段を昇って、安室が鍵を開けた瞬間、ぼふんっと毛玉が私の視界を埋めた。

「ハロ〜っ!!!」

 私は勢いよく叫んで、わふわふと興奮した小さな体を抱きしめた。だいぶズッシリと感じる体が、もう仔犬ではないことを物語っている。けれど相変わらず顔はきゅるんと可愛らしい小動物フェイスで、私はその鼻に自らの鼻を擦りつけながら喜んだ。

 安室がダンボールを軽々と運び入れながら、部屋の案内をする。以前よりも広い室内は、恐らくファミリー向けの内装で、リビングと主寝室の他に小部屋が二部屋。そのうちの一室を使っても良いと言われた。
 一人で住むにはずいぶんと広い部屋であった。以前の部屋も手狭なわけではないが、一人暮らしらしい部屋だったので、どうしてまたこんなに広い部屋にと尋ねれば、彼は笑いながら「昇進したから、給料の使い道がなくて」と言った。


 私は部屋をぐるりと見回しながら、自然と頬を綻ばせる。
「良い部屋だね」
「前とそんなに変わらないだろ」
「変わるよ」
 そこには、以前のように彼を包み隠すものがなかった。まだ公安としては働いていても、もう潜入捜査員ではないから、少なくとも自宅まで身分を隠す必要はないのだろう。飾られた写真やギター、ハロの玩具に、ストレッチ用の健康グッズ。フォトフレームの中を覗いて、私は笑った。

「うわ〜、松田さんと萩原さん、全然変わってない」
「ああ、昔からガキみたいな奴らなんだ。でも、良い警察官だったでしょう」
「うん。……諸伏さんのしたこと、本気で怒ってた」

 松田のやりきれない怒りを思い返しながら呟いたら、安室は気まずそうに視線を落とした。恐らく、彼もまたその事実を知っていたのだと思う。私はハっとしてかぶりを振ると、水回りの綺麗さに感動するフリをして誤魔化した。

 折角彼と暮らせることになったというのに、どうして顔を翳らせるようなことを言ってしまったんだろう。ふう、と息をついていると、安室がキッチンテーブルへ私を案内した。コーヒーメイカーの音、こおばしい香り。懐かしい――と言いたいところだが、当たり前ながら沖矢といるときにずいぶんと世話になった香りだった。

 口をつけると、コーヒーの香りがたっぷり注がれたミルクでなめらかになって、舌を喜ばせた。外は温かかったから、アイスカフェオレだ。ふはー、と息を大きくついて私は満足げに笑った。

「効く〜……」
「ふ。あはは、親父臭いな、それ」

 気の抜けた私を見てクスクスと笑いながら、安室は自らのコーヒーに珍しく砂糖を一つ落とした。それから、テレビの前に飾られたフォトフレームに再び目を遣る。静かな呼吸が、白い壁紙に反響した。


「……少し、僕の友人の話をしようか」


 安室がそう切り出したのは、初めてだった。
 私は別に構わなかった。私のことを彼が何を聞かずとも受け入れてくれたように、私も彼が辛く思うことを尋ねることはないと思った。特に、安室が諸伏景光に対して特別な想いを抱いているのは分かっていたから。それを話したら、きっと安室は辛いだろうからと。

「僕が話しておきたいんだ、聞いてくれないかな」

 彼はコーヒーカップを軽く傾けて、その傾いた水面を眺めながらそう告げる。駄目なんかじゃない。ないけれど――。否定も肯定もできなかった私に、安室は可笑しそうに笑った。

「今の笑うところじゃなくない……?」

 私はちょっとだけ拗ねて、足元でうとうととしているハロの頭を軽く撫ぜる。
「ごめん。聞いちゃいけないことみたいに戸惑ってるのが面白くて」
「だって、前は追い出したでしょ」
「あれは――赤井とヒロのことを持ち出されたのにカっとなって……」
 悪かったよ、と安室は肩身を狭くした。それから数秒、いや、数十秒。部屋に置かれたアナログの時計が、秒針を刻んだ。新しい部屋には見合わない、レトロな時計だ。

「ヒロ?」
「そう、僕の友人の名前だよ」

 安室は穏やかに語り始めた。コチン、コチン、と時を刻む音の中で、静かに自らの過去を。男の名前は諸伏景光。安室の――否、降谷零の、唯一無二の親友だったらしい。


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Shhh...