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 諸伏景光。
 私の知る彼の知識なんて、精々スコッチというコードネームの潜入捜査官であったこと。それがバレて自殺に追い込まれたこと。降谷零の同僚であり、彼をゼロというあだ名で呼んでいたこと。
 その程度の知識しかなく、私の耳には入る話のすべてが新鮮に思えた。その時初めて、諸伏という男を現実の安室透の旧友だという認識をした。

 安室は最初の方こそ淀むことなく、穏やかな表情で語っていた。外から差し込む赤みを帯びた日差し。テーブルの上に長い影を落として、時折落ちた影が雲に隠れた。出会ったのは小学生の頃、曰くツッケンドンであった自分に対して、唯一偏見を抱かない同級生だったとのことだった。

「田舎から越してきて、物も言わないから、アイツも邪険にされてたっていうのもあったけど。それでも当時の僕にとっては希少な存在だった。元の性格のウマも合ったから、仲良くなるのに時間は掛からなかったよ」
「そんなフツーの少年みたいな時代あったんだね」
「だから、僕を何だと思ってるんだい……」

 私が驚くと、安室は苦笑しながらコーヒーを一口飲んだ。私もその動作につられるように、冷えたカフェオレで喉を潤す。まるで児童書の冒険譚のあらすじを話すように、彼は語る。夜中の学校に忍び込んだこと、コナンのことを𠮟れないほど自分たちも無茶をして事件を追ったこと。
 彼の話に出てくる諸伏は、誠実で正義漢だが時に無謀で、そんなチグハグさがどこか憎めないような男だった。もしかしたら、語り手である安室自身がそう思っているからかもしれない。言葉の節々に、そんな愛おしさが滲んでいた。

「僕は昔から他人のことには無頓着で、人から嫌われようがどう思われようが関係なかった。事件を解くのだって、単に人より頭がちょっぴり良かったからだ。そういうのを鼻に掛ける子どもだった」
「今もどう思われようが関係ないって顔してない?」
「少なくとも気は遣うよ……。あいつは、いつも僕がどうしたら真人間になるかって画策してた。せめて一人でまともに生きていけるようにって言うんだ。僕は言ったさ、まともに生きてるって」

 安室は今でもそのことを根に持っているのか、少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。しかしすぐに頬を緩める。夕陽が映す私と安室の影を、懐かしそうに見下ろした。それに何を重ねていたかは、聞かなくとも分かる気がした。

「憲法二十五条=H」

 私はフ、と思い出し笑いを浮かべてそう呟いた。安室がこちらに来たばかりの私に言ったことだ。ちなみに、私が初めて覚えた日本国憲法でもある。今は大分覚えた方だけど、それを自慢したい気持ちもあった。安室は驚いたように私を見上げる。ただでさえ大きな目つきの中で、綺麗な瞳がキラリと光ったような気がした。

「……驚いた。ヒロが言ったんだ、それ。仮にも警察官目指すなら、憲法くらい覚えろ! って言われた。失礼だよ、そんなこと当たり前に知ってたのに」
「へぇ〜、じゃあ教えてくれた諸伏さんに感謝しとかなくっちゃ」
「芹那、君も失礼な奴だな。これっぽっちも生活力なんてなかったくせに」

 僕と一緒だぞ、と軽く頬を摘ままれて睨まれた。私はその図星に「えへへ」と愛想笑いを浮かべておく。決して嫌そうではないけれど、演技臭く咳ばらいをしてから、安室は今度は窓の外を眺める。

「好奇心の強い男だった。旅行だとか、音楽だとか、食事だとか――。引き摺られるようにして、僕も好きになった。僕の好きな物は、アイツの好きな物だった」

 懐かしむような表情は、何を思っているのだろうか。少しだけ、気持ちは分かるような気がした。私も安室のいない日々の、私から零れる仕草一つ一つに彼の影を感じていた。彼もまた、料理を作るたび、音楽を聴くたび、諸伏のことを思い出すのだろうと。それはどんなに幸せで、同時に苦しいことだろうか。私にその辛さは想像できなかった。

「警察官になって、先に潜入命令が出たのは僕だ。恐らく君の知る通り、組織の中核に迫るべく暗躍し、コードネームをつけられるまでになった。バーボンとして、スコッチとして……」

 安室の表情が、歪むことはなかった。明日の天気を語るように凪いだ瞳で、流れる雲を見上げている。その横顔が綺麗で、同時に物悲しい。指先が、テーブルの上をトントンと鳴らした。

「諸伏は、警官であることが組織に漏れてしまった。追われる身になる彼と先に合流したのは、ライだ。以前からきな臭い男だとは思っていた。僕が追いついたとき、諸伏は奥歯に仕込んでいたらしい毒を服薬して命を落としていた。ライは、止める間もなかったと、言っていた……。僕は、僕は、アイツの死体を処理するフリをして、ポケットに入っていたスマートフォンを破壊した……」

 言葉が、詰まり始めた。まるで喉で塞き止められたものを、無理くりに声にしているようで、喉の窮屈さが声からも感じとれた。――「僕は」。詰まった声は、響かず、ただ部屋の床に落ちるだけだ。苦しそうな声。顰められた眉、揺れる瞳が目の中を泳いだ。
 
「――アイツの遺体を引き摺るのは一人には重たくて。廃ビルのシャッターを出る時に、錆びに腕を引っ掛けてしまった……」
「それが……あの男の人にも、あったんだね」
「でも、これだけは信じてくれ。アイツは確かに死んでいた。仮死状態でもない。三日間、僕が遺体を保管していたんだ」
「あ、安室さん」

 私は慌てて彼の苛立たし気に震える指先に手を沿えた。足元で、主人の不安を感じ取ったのか、目を覚ましたハロが鼻を鳴らした。私はふるふると首を振る。
「良いよ、言わなくて。……大丈夫、私疑ってないから」
 怒りに燃えるような声――その怒りが誰に向いているかは、今なら明白だった。諸伏でも赤井にでもない、彼は己に、その身を焼き尽くさんとするほどの怒りを覚えているのだ。きっと、親友をどうにもできなかった、自分自身に。

「……松田の話も知っていた。そんな男じゃない。普段から死を意識するような男でもない。僕の知っている彼と、何かが違う節があるのには気づいていたんだよ」

 私の言葉が届かないように、彼は自らの髪をくしゃりと掻きむしる。
「でも、でも! じゃあどうしたら良いかも分からなかった。アイツの墓を掘り返せばよかったのか、その体を切り開いて、臓器を調べれば良かったのか……。もう死んでしまったヒロを、僕にはそれ以上、悪く思うことができなかったんだッ……」
「――安室さん!」
 安室の瞳が、ハっとこちらを振り返る。瞳が揺れる。奥歯をかみしめているのが、表情からも伝わった。ひどい顔だった。この間、私に謝りに来たのと同じ――否、それよりもひどい。

 安室は自嘲気味に笑ってから、力ない手を私の頬に伸ばした。す、と指が掬う雫。涙が零れていることに気づいたのはその瞬間だった。「泣き虫め」、安室が言う。
「安室さんが、辛そうだから悪いの。私その顔に弱いんだから」
「……悪かったよ。ほら、泣かないで」
「無理、無理だよぉ。じゃあそんな顔しないで。そんな話、しなくて良いから……」
「でもそれじゃあ、何の解決にもならないだろ」
 呆れたように、彼は私の頬を擦る。――それは、もしかしたら彼の本質なのかもしれない。物事を解決へと導くこと、意味のあることに繋げること。それに対して、どのようなコストさえ厭わないところ。


「――解決なんて、しなくても良い!」


 私は声を張り上げて、その手を頬から引きはがした。そしてギュウ、と力強く握る。
「しなくて良い、楽することの何がいけないの! 楽しく暮らすことの、何がいけないの!」
 確かに、警察官としては正しい姿なのだろう。けれど、私はそんなに立派な人間じゃないから。大切な人には、いつでも安全な場所で笑顔でいてほしいと思ってしまう。過去のことなど忘れてしまえば良いと、思ってしまう。

「なんで安室さんだけ、そんな辛くなんないといけないの……誰もお願いしてないよ。安室さんに犠牲になれなんて言ってないじゃん! それ以上心を削んないで、死んじゃいたいなんて顔、しないでよぉ」
「芹那……」
「誰も責めてないから。だから、自分のこと怒らないで、私の大好きな人なの」

 わんわんと子どもみたいに泣きわめく私の足を、ハロが慰めるように舐めた。安室は何とも言えない、複雑な表情で、たった一言謝った。最後には「大好きなの〜!」という殆ど成人女性とは思えない、酔っ払いのようなうわ言を繰り返していて、日が暮れるまで、安室はそんな私を慰めていた。ようやく泣き止んだ私に、彼は可笑しそうに「やっぱ子どもだな」なんて言った。
  

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