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ようやく涙を引っ込めると、夕飯を作るという安室に私も手伝うと席を立った。安室はそんな私の姿を意外そうに見つめたが、浮かべた笑顔は嬉しそうで、私は安心した。今日はミネストローネとグラタンを作るという彼に、私は自信満々に任せてと豪語した。グラタンは、もはや得意中の得意料理である。
中身がきっちりと充実した冷蔵庫の中身は、とても男の一人暮らしとは思いづらい。それも諸伏の助言の賜物なのかもしれないな、と今になっては思った。いつだかの彼に感謝を告げながら、私はちらりと荷物の中に放った小瓶を思い出した。
――諸伏のことを、安室に話すべきだろうか。
もしかしたら、これ以上掘り返さない方が、安室は幸せなのかもしれない。親友が人に自殺を勧めたなどと知れば、私の知る死に際とはこの世界が異なると知れば、安室はきっとその事実を突き止めに必死になって動くだろう。それは、果たして安室にとって幸せなのだろうか。
ならいっそ、何も知らないまま、こうして平和に過ごす方が良いような気がしたのだ。自分の所為だと、自分がやらなくてはと、何度も心を殺していくような背中を見送ることはできなかった。
「――芹那!」
ふと呼び戻された拍子に、私はえっと顔を上げた。ぼうっとベーコンを切っていた手に、包丁の刃がするっと皮を捲っていく。慌てて私の指先を握った安室の姿を見て、その後じわじわと指先に痛みがやってきた。
「料理してる途中にぼうっとするのはやめなさい。危ないでしょう」
「ご、ごめん」
「ここを押さえていて、救急箱を取ってくるから……」
手早くハンカチで私の指を押さえると、彼はそれを託して寝室のほうへと踵を返した。シックな色のハンカチに、じわっと染みが浮かび上がる。痛みよりも出血のほうが酷かった所為か、気持ちは落ち着いていた。
それでも薄っすら浮かんだ涙をスンっと啜っていると、安室が木製の救急箱を持って戻ってきた。手慣れた手つきでガーゼと医療テープを取り出し、消毒をしてから私の指をぐるぐる巻きにする。
「……僕に、何か隠してることがあるんでしょう」
安室はぐるぐるとテープを貼り付けながら、静かな声色で言った。私が驚いて指先を跳ねさせると、それを肯定と受け取ったのだろう。見透かしたような笑顔で、彼は肩を竦めた。
「何で分かったの」
「僕を誰だと思ってるんですか? たかが小娘の嘘くらい見抜けないとやっていけませんよ」
「どーせ私は安室さんの嘘を見抜けないよ」
ぷいっと顔を逸らすと、安室が可笑しそうに声を上げながら「嘘、冗談だから」と私を慰めた。
「そうですねえ。強いて言うなら、以前の僕と同じような顔をしていたから」
その言葉の意図を理解するには、私には時間が必要だった。彼がしっかりと固定し終えた指先を「もう良いよ」と離す頃、ようやく合点がいく。――そうか、安室が私に証人保護プログラムを適用したとき。沖矢として私から身を隠した時。きっと、彼も同じ気持ちだったのではないかと思ったのだ。
大切だから幸せになってほしくて、つい酷な真実から遠ざかった場所にいた方が良いのではと思ってしまう。
ぐつぐつと安室が用意していたミネストローネが煮詰まっていく。私はそんな音を聞きながら、彼の手を捕まえた。
「……諸伏景光は、拳銃自殺をしたの」
大丈夫だろうか。これを聞いて、すぐに部屋から飛び出てしまわないか。それが怖くて、手を離すことができなかった。
「赤井さんの拳銃を奪って、自分の胸ポケットにあったスマートフォンを壊すために、一緒に撃ちぬいた――それが、私の知ってる、諸伏さんの最後だった」
私の腕なんて、簡単に振りほどいてしまうだろう。分かっていた。けれど、ただただ引き留めたくて、一秒でも長くそこにいて欲しくて――。
「だから、多分何かが……何かが、違うんだと思う。諸伏さんに、何かがあったんだと、思う」
安室は何も言わなかった。
ぴくりとも動かない握った腕が恐ろしく思えてきて、ゆっくりと安室の表情を見上げる。ぽつん、と伝った雫は、私のものじゃなかった。アイスグレーの瞳が、ゆらゆらと溺れている。
綺麗な瞳だった。
その美しい睫毛が瞬けば、その数だけ、ぽろぽろと涙が落ちていった。先ほどのような苦しみに満ちた表情ではなくて、何かこびりついた物を削ぎ落していくような涙だ。
言葉を失って、ただ涙を流す男を見守っていた。
その表情は、今まで見た何よりも美しい。どんな花や風景より、照明より、宝石より。安室は涙を拭うこともしないまま、涙を零しながら小さく「ありがとう」と呟いた。
「……良かった。アイツに何かがあったことが分かって、良かった。本当は恐ろしかった、ずっと、アイツが妙になったのは僕の所為なんじゃないかって思って……」
瞼が伏せられる。長い睫毛に、涙がくっついて、尚更にキラキラと光って見えた。
「君の世界のアイツは、アイツのまま死ねたんだ。良かった、本当に良かった……」
良かった、と心の奥から絞り出すように呟く男を、私は立ち上がって、包帯が巻かれた指先を伸ばし抱きしめた。私の腕の中で泣く安室透という男は、本当に子どもそのもののようで、私はようやく彼と言う男を知れたような気がする。
もしかしたら、私と安室は似ているのかもしれない。
安室が、前に自分を見ているようでと言っていたことを思い出した。その言葉の通り、私たちは似ているのかもしれない。性格や生い立ちではなくて、きっと誰もが持った愛情という支えを突然に失って、その時の感情のまま大きく育ってしまったのだ。
「安室さん、諸伏さんのことを調べよう」
私はその両肩を持って、彼と目を合わせた。幼い子どもに戻ってしまったような不安定な瞳が、私を映す。
「私、役に立てるかもしれない。……真実を突き止めることが良いことかは分からないけど、それを知らないままじゃ、こっちの世界の諸伏さんが報われないもん」
「でも、君を殺そうとしている」
「それも何でなのか、私知りたいよ。だって、諸伏さんは私たちの世界を知らないはずなのに……」
だから、と一押ししてみせると、安室は静かに頷いた。こちらの世界とあちらの世界の相違点――そこには、諸伏景光という男が関わっている。だから、私の知っていることが役に立つはずで――。
「そっか」
私はふと考えた。今まで、原作の知識なんてあってもあるだけ邪魔だと思っていた。痛くないところを探られかねないし、別に知っていたところで何かストーリーに変化をもたらそうという気もなかった。曖昧な知識だけで、私のしたことなんて、メインストーリーの妨げになるだけ。そう思っていた。
「――……自転車なら、また起こせば良い」
じわじわと、そんな実感が湧いてきた。私は安室が治療してくれた手をぐっと握りしめて、見つめた。役に立たないと思っていた知識、目の前にいる大切な人。もしかしたら、私がここに来たのはこの為なのかもしれない。
「私って最初から、安室さんに会うために来たのかもしんないや」
へらっと笑ったら、安室は可笑しそうに笑った。泣いたあとで感情の栓が緩んでいたのか、げらげらと、今まで聞いた事がないような大笑いだ。完成したミネストローネは中身が全部崩れていて、ただのトマトスープになっていたし、グラタンは急いでつくったせいで焼き時間が足りない。
でも、そんな出来事さえ、私はここに来て良かったと心の底から思ったのだ。その夜は、二人でベッドの中で一緒に包まった。ハロも一緒に、温いシーツのなか、手足を縮めて引っ付いた。不思議とやましい気持ちはなくて、ただ、スウスウという穏やかな寝息と、足の先に触れる彼の体温が落ち着いたのだ。安室もそうであったら良いと――穏やかな寝顔を見つめて、そう思った。
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