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 安室と住居を共にしてからは、この世界に来たときばかりと同じような、のんびりとした生活が続いた。あの時との違いといえば、安室が帰ってくる瞬間をハロとともに待ちわびているくらいだ。
 朝はハロの餌の時間に起きて、安室が仕事に出るのを見送る。そこから大して汚くもない部屋を掃除して、買い物に行って、ご飯を食べたらハロと散歩に行く。夜は安室が帰ってくるまで、夕食を作り置きにしてごろごろとしていた。
 安室も諸伏のことを調べようとは考えているようだったが、あっちやこっちやの仕事で中々手をつけられないらしい。トリプルフェイスはなくなれど、相変わらずの社畜具合だった。一人で調べに行くことは止めるようにきつく言われていたので、私も彼が動き出すまでは暫しの休暇時間だった。

 そうこうして二週間と少し。
 私にとっては幸せな時間が続き、久しぶりに新出に会ったときのことだ。新出には定期的に検診を受けていて、今日もその日だった。彼は穏やかに「うん、健康ですね」とカルテへチェックを入れて、それから静かに首を傾ぐ。

 少しの間が、壁に掛けてある時計の音を際立たせる。私もつられるようにして首を傾げたら、新出はハっとして首を振った。
「すみません。顔色が良くなったと思って……」
「顔色?」
「前の君は瘦せ型だったから、心配だったんです」
 良いことです、と一人満足そうに頷き納得している様子の新出を見て、私は暫く難しい顔をしていたと思う。
 
 その後、キャリーバッグを持ってハロの検診に向かった。掛かりつけの獣医らしく、手慣れた様子で問診を終える。最近くしゃみを頻繁にするから気になっていたが、どうやら鼻炎気味だったらしい。薬を貰い、獣医に礼を述べると、気の好さそうな獣医は苦笑しながら言った。

「ちょっとだけ体重が増加気味ですねえ。もう体型は大きくならないので、少し食事に気を付けてくださいね」

 お大事に、と病院から送り出され――私はキャリーの中のハロを顔を見合わせた。ハロが、人間の言葉を理解しているように「まずい」という表情をしている。私は無言で新出に電話を掛けた。

『はい、新出……』
「ね、ねー! 私、もしかして太ったってこと!?」
『だから、前が痩せ気味だっただけで……。今が適正体重ですよ』
「それ太ったってことじゃん!! カナダの甘いものだらけの中でもなんとか耐えてきたのに!!」

 私はそれがあまりにショックで、道中でわあわあとわめきながら帰路についた。新出はなんだかんだと宥めてくれたものの、鏡に向かうと確かに顔が丸くなったような感じがする。
 元々、体質的には太るタイプではない。寧ろ痩せ型だからこそ、あんなに慢心して甘いものばかりを食べれるわけで。――安室のせいだ。すぐに結論はついた。彼が夜中帰ってきた後に、スイーツを振る舞ってくるから。(食べたいと言っているのは私なのだけど――)。
 私は慌てて洗面台にあった体重計に乗る。安室がトレーニング用に使っているらしいそれは、電子体重計ではなく、アナログ式のものだ。


「ごっ、五キロ増えてる……」


 その数値を見た瞬間、ハロの獣医の「もう体型は大きくならないので、少し食事に気を付けてくださいね」という台詞が頭に過ぎっていく。私ももう二十一歳、ハロと同じく身長がぐんと伸びることはもうないだろう。

 ぐぐ、と唇を引き結んで、私は安室のスイーツの魅力を断ることを決めていた。いつものように安室が帰宅する。大体いつも、夜の十時を過ぎるころだ。私が神妙な面持ちで彼を出迎えると、安室は体を固まらせて慌てたように私に駆け寄った。

「どうかしたのか」

 放ったスーパーのビニール袋からは、ホットケーキミックスと生クリームが垣間見えた。きっと私がまた作ってと言うことを、なんとなく考えながら買ってきてくれたんだろう。それを断るのは大変忍びなく――というか私の体の中の本能が「食べたい」と叫んでいた。我慢していたら益々渋い顔を浮かべていたのだろう。安室は私を案じるように肩を掴んだ。

「僕がいない間に何かあった? それとも体調が良くないのか。新出先生に連絡を……」
「そ、それは駄目!!」

 新出という単語が出てきた瞬間に、私は慌てて安室の言葉を遮った。彼は何かを勘繰るように、アイスグレーの瞳をすっと細める。
 ――あ、不味い。
 私は口元を引き攣らせながら、安室の表情を見上げた。久々に見る表情は、彼とまだ親しくない頃――人を疑う時に見せる表情だと、すぐに分かった。

「新出先生に聞いてはいけないことがあると」
「いや、まあ、それはそうなんだけど……。あ、でもそういうことじゃなくて」
「ホォー……。知っていましたか?」

 ずいっと、安室のわざとらしい笑顔が目先まで近づいた。彼は顎に手を当てて、まるで安室透――探偵だったころの――のように人差し指をピンと立てて見せた。

「君は言い訳を探すときに、必ずこっち側の眉が上がるんです」

 とん、と私の左眉を、立てた指先が突く。「えっ」、私は素直に驚いてしまった。眉をさっと手で覆ってしまう。――知らなかった、自分にそんな癖があるなんて。これからは気を付けないと、と思いながら安室を見ると、彼はニコニコと笑った。

「嘘ですよ」
「ええっ」
「ただのカマかけだよ。まあ、本当にやましいことがあるのなら話は変わるけど――」

 私の顔を覗き込んで、安室は最終手段だと言わんがばかりに眉を下げた。否、もしかしたら、それは別に手段ではなかったかもしれない。安室の演技がうますぎて、自然な表情なのかどうかは見極めができなかった。

「……それとも、僕じゃやっぱり言えないか」

 演技かどうかなどこの際はどうでも良くて、そのシュンとした態度に私は一気に開き直った。安室にこんな表情をさせるくらいなら、体重の五キロや何キロ、暴露したって構わない。意気込んで今日の出来事を告白したら、安室は目をまん丸にして「体重?」とオウム返しに繰り返した。

「だから、増えたの。体重が……太ったの! 絶対夜中にスイーツ食べ過ぎたと思うんだ……」
「ああ、それで。なんだ――」

 安室は心底ホっとした様子で、頬を緩める。ずいぶんと心配させてしまったようだ。しかし、「そんなことか」で済まないのは、こちらの乙女事情だった。

「大体、あの体重計はハロの重さを測るためにいつもキャリー分を足しているんだよ。気づかなかったのかい?」

 安室は苦笑いを浮かべて、玄関に放ったビニールを拾いながら説明してくれた。今度は私が目を丸くして、「そうなの」と洗面台のほうを振り返る。そういえば、最初のメモリまでは見てなかったかも。

「キャリーバックが凡そ千五百グラム、だから五キロまでは行かないんじゃないかな」
「それでもやっぱ太ってるじゃん……」
「別に、そんな風には見えないけど。でも芹那が気にするならしょうがないな」

 安室がキッチンに調味料やらを収めている隣に、私は歩み寄ってしゃがんだ。安室はしょぼくれた様子の私を見て、もう一度「そんなに落ち込まなくても」と笑う。

「だって、安室さんがいつもわざわざ作ってくれるの、楽しみだったのにさあ……」
「なら食べれば良いじゃないか」
「でも太りたくないし……ごめんね。今日も買ってきてくれたのに」

 安室は苦笑を一つ零すと、すくりと立ち上がり、ビニールの中に入っていた物を私のほうに向けた。そして、最近よく見せる得意げな表情を浮かべるのだ。

「僕も丁度、体を引き締めようと思っていてね。ちょうど買って来たんだ」

 いつも買ってくるホットケーキミックスの所には、糖質オフのマークが輝いている。
「折角だから、今日はこれでワッフルでも作ろうかな」
「わ、ワッフル……」
「そう、豆乳を使ってヘルシーに……」
 安室はフフ、と笑ってから、私のほうに一つウィンクを飛ばした。――「食べるかい」、なんて、そんなの愚問である。私は彼の首にがばっと抱き着き、その騒ぎで目を覚ましたハロが犬用のベッドから飛び出してきた。
 ハロの体を抱きとめると、安室は眉をピンを片方持ち上げて「君もダイエット食にしようか」と頭を撫でていた。


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Shhh...