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「あ、とうもろこし」

 まだ旬より少し早い黄色い粒を見つけて、私はうずうずと食欲をそそられた。焼きたい、ものすごく焼きたい――。できたら味噌醤油を塗ってからしっかり焦げ目がつくまで焼きたい。
 その衝動に逆らえないまま籠の中に房を入れて、ちょっとだけ食欲に負けた罪悪感に駆られた。安室が糖質オフのスイーツを考えてくれているというのに、私と言う奴は。だけども、こんなにも食べてと美味しそうに強請る様子を無視できない。

 買い物の途中、一人でそんな葛藤に、とうもろこしの前を戻ったり、またレジに向かったりを繰り返していた。最終的には何故だかもうひと房増やして、私はカートを押す。いや、だって、ほら。安室もきっと美味しいとうもろこしが食べたいに違いない。

 心の中でブツブツと言い訳をぼやきながら、セルフレジへと並ぶ。鞄の中から財布を取り出そうとして、こつんと指先に硬質なものが触れる。
 諸伏から受け取った小瓶だ。結局、あの日から安室にその薬のことを話せないままでいる。決して安室を信用していないだとか、真実を伝えたくないだとかそういうことではなく――。甘っちょろいと言われるかもしれないが、私にはやはりあの日あった諸伏景光という男が、悪い人には思えない。
 根拠はなかった。事実、されたことは全て私に害のあることであったので、寧ろ私から見たら悪い人に違いない。こればっかりは勘というか、本能というか。ただ、安室に彼のことを敵だとは認識してほしくなかったのだと思う。
 だからといって、仮にも毒薬と言われたものを部屋の中に放っておくのも不安で、出掛ける時はこうして持ち歩く習慣をつけていた。一応鞄のフックにチェーンを通して引っ掛けてあるので、落とすことはないと願いたい。

 ――それでも、いつかは話さなくては。
 
 上手くこの感情を説明できたら良いのだけど。支払いを済ませて商品をいれた鞄を持ち上げる。ちょうど牛乳が切れていて買い足したので、いつもよりも袋の中身は重たかった。考え事をしていたこともあり、いつもより緩慢とした足取りだっただろう。ぼんやりと帰路についたとき、ぐいっと腕を引き寄せられた。
 引っ張られたのではなく、腕ごと体を道の端に寄せるような手つき。触れた手の大きさから、すぐにそれが男のものだと分かった。

「っとぉ、フラフラしちゃあぶねえよ。お姉さん……あれ?」

 男は何かに気づいたように、不思議そうに私を覗き込む。さらっと垂れた黒髪の隙間から、安室のものとはまた異なる、大人っぽい垂れ目が覗いた。

「萩原さん」
「この間はどーも。家こっちのほうなんだ?」

 萩原はそう言って私の行く先をチラリと一瞥した。萩原さんこそ、と言えば、彼はからからと笑って手を振る。

「いや、俺は彼女の家」
「うわ〜、聞きたくなかった」

 わざわざ言葉にしたのだから、惚気なのだろう。私は引き寄せられた体を見下ろすと、萩原のほうにジトっと視線を送った。
「私彼女だったら許せないけど、この距離」
「ン? ああ、ごめんごめん。あんまりにフラフラ歩いてるから、後ろから見てて心配になっちまって」
「そんなに……? あ、良いよ持たなくても」
 すっと自然に私の手荷物を取った萩原に、私は慌てて手を伸ばす。萩原は「気にすんな」と言ってくれたが、このまま進むと安室の部屋がある。私は別に構わないが、確か萩原は安室が全く連絡を取っていないと言っていた。安室があれだけ私に忠告をすれど、仲介人として会いにこなかったのだから、きっとまだ身元を隠していたいのではないかと想像したのだ。

「もうすぐそこだから」
「別に良いって」
「いや、でも……」

 なんやかんやと引き下がっていたら、ふと私の体を支えていた手が剥がれた。正確には何者かに剥がされていた。萩原もそれを驚いたように見ていて、私もその手をぱちくりと視線で辿った。

「彼女は、僕のツレですが」

 明らかにピリっとした声色が、私と萩原の間に割って入る。私の睨みなど赤ん坊の訴えのようなもので、猛獣が威嚇するような視線が鋭く萩原を睨みつけた。

「嫌がっているので、やめていただいても良いでしょうか」

 そう睨みつけて、数秒。萩原がみるみるうちに色っぽい目つきを見開いていく。口も薄く開いていて、明らかに動揺を隠せていなかった。割って入った男――安室透は、萩原のそんな表情を睨みつけ、ようやくのこと小さく首を傾げた。

「……萩?」
「やっぱりゼロだろ!?」
「――……はあ」

 安室は眉間に深く皺を刻み、ため息をついた。小さな声が「しまった」とひとりごちたのを、私の距離からは聞き取れた。
 ――やっぱりそうだよね、避けてたんだよね!?
 私の心配は杞憂じゃなかったようだが、今やもう杞憂に終わってしまったらしい。萩原は長い腕を伸ばすと、安室の体にひしっと抱き着いた。

「お前、心配したじゃんよぉ! 何も言わずにメール一本だけ寄越しやがって!!」
「悪かったよ。仕事柄、現職者の知り合いは都合が悪くて……」
「研二くんを誰だと思ってんだ、そんくらいいくらでも演技してやるっての」

 なんだ、あんなに怒っていたようだったのに、やっぱり安室のことが心配だったらしい。私はそんな風に喜ばれて満更でもない安室の表情に、自然と口角が持ち上がっていた。萩原は暫く男くさいハグを堪能してから、安室の体を開放すると、改めて私のほうへ視線を向けた。

「ちなみに、この子は? 見たところ依頼人ってわけじゃなさそうだ」

 萩原の口元が、ニヤリと笑う。その表情で彼が何を勘繰っているかは予想がついたものの、まあ安室なら適当に返すだろうと思った。のだが――久しぶりに友人に会えた喜びなのか、いつのまにか表現の方法がそんなに素直になっていたのか。
 安室は穏やかで暖かな微笑みと共に、優し気な声色で答えたのだ。


「ああ、僕の家族だ」


 ――んんん〜……。
 私は手のひらで顔を押さえた。「え!?」という驚愕の声が聞こえて、先ほどよりも更に驚愕に染まった顔が私を見た。違う、否、違わないのだが、違うのだ。それでは大きな語弊を招いてしまう。私がどう訂正しようか言いあぐねている間に、萩原はマジマジと私を見つめて、不可思議そうに呟いた。

「っかしいなあ、ゼロは年上女医が趣味だって聞いてたんだが……」
「は、嘘! そうなの!!」
「余計なことを言うな!」
「余計じゃないでしょ、チョー大事なんだけど!?」

 私は食い下がって「それどういうこと」と萩原に問い詰めた。聞き捨てならない趣味である。そうこうしているうちに話はどんどんと脱線していき、結局私が安室の恋人ではないと発覚するまで数十分の会話を要した。

 呆れたようにため息をついた安室の説明を聞いて、萩原は力が抜けたように笑っていた。私もすぐ否定できなくてごめんと謝ったら、広い肩を竦めておどけたように「チューしてくれたら許す」なんて言うのだ。――ここで再び安室の背後にブリザードが巻き起こったのだが――。

 実は、そんな姿を見ることが、嬉しくないとは言えなかった。
 身元を隠さなければと思いながらも、相手が誰なのか確認ができないほどに。あの安室がである。申し訳ないとは思うのだが、それが嬉しくて、まだやいやいと口論を続ける安室と萩原を見上げてながら、私はこっそり微笑んだ。結局とうもろこしの入った袋は、安室が萩原から取り上げてしまった。

 ひとまず安室の部屋へと彼を招いたのだが、そこでまた同じ屋根の下で暮らすことを、繰り返し食い下がられるようになってしまった。


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Shhh...