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「お、覚えてないって……」

 私は愕然として安室を見つめた。そんなこと、あり得るはずがない。
 RUMは黒の組織のナンバー2、漫画の中でも話の主軸にあった人物だ。バーボンとして組織内を探っていた安室が、最後まで正体を知らないことなどあり得ない。――上に、知らないばかりならまだしも、彼は今覚えていないと言ったのだ。
 それこそ安室らしからぬ言動だ。私は一瞬、これが安室の渾身のギャグなのではと真剣に考えてしまった。そんな私の雰囲気を感じ取ったのか、安室が首を振る。

「すまない。本当に……覚えていないんだ、正体が誰だったのか、そこだけがポッカリ抜けてしまっているようで……」

 彼は、今の今までそのことにすら気づかなかったのだと、困惑しながら告げた。私は暫く考え込む。どうして、彼はそんなことを忘れているのか。これも諸伏が関係しているのだろうか。――だが一個人が、人の記憶まで操作できるものなのか。

「なら、組織のトップは?」
「それなら知っているよ。烏丸蓮耶、名の知れた大富豪だ」
「……それって、どんな人だった?」

 安室はやはり押し黙った。先ほどと同じく、困惑を露わにしたまま。私は安室と視線を合わせて、その奇妙さに戸惑う。きっと安室自身も、この違和感に気が付いているはずだ。――一つだけ確信できたのは、間違いなく諸伏が私のいた世界のことを知っていることだ。否、寧ろ――。

「それしか、知らないんだ」
「……? 何の話だよ」

 松田がむしゃくしゃしたように尋ねた。安室は下唇をなぞりながら、伏目がちに口を開いた。
「僕とヒロが潜入していたのは、日本――いや、世界的なテロ組織だったんだ。きっと、芹那が読む作品のメインストーリーもそれだった。……確かに、組織は壊滅したはずだ。なのに、どうして……」
「降谷は、その情報が思い出せないのか」
「三年前の知識から、覚えている内容が何も変わっていない」
 安室は暫く唸っていたが、諦めたように首をゆるゆると振った。そんなこと、あり得ない。だって、あの安室透だ――降谷零なのだ。組織の中でも情報通の探り屋と呼ばれていた存在。耳ざとく、記憶力だって常人よりずっと良いはずだ。

「でもさあ、やっぱり諸伏ちゃんに聞くしかないんじゃねえ?」

 静まり返った部屋の中に意見を落としたのは萩原だった。自然と、四人の視線が彼を追う。
「俺たちにゃ計りきれねえことだらけなんだろ。いっそ、尋問でもしたほうが手っ取り早いぜ」
「でも、どうやって……?」
 私が首を傾げると、萩原はニコっと愛想の良い笑顔を浮かべた。いち早くその笑顔に気づいた安室が、顔を顰めて私と萩原の間に立つ。

「あらら、やっぱ駄目か」
「当たり前だろ。危険に晒すような真似ができるか」

 睨みを効かせた安室の姿に、私はワンテンポ遅れて、もしかすると私を囮に使う気なのではと予想した。成程、確かに諸伏が姿を表すのは、決まって私を殺しにかかっている時だ。彼に接触するには良い考えなのかもしれない。

「私、別に良いよ。皆も一緒なんだよね?」
「そりゃあ、女の子に危ないことはさせられないからね」
「十分危ないだろ。僕は反対だ」

 はぁ、と重たいため息とともに安室が腰を下ろす。私のほうに、叱りつけるような視線が向いた。私はその視線にギクリとしながら、人差し指をちょんちょんと合わせて「だって」と尻ごんでしまう。前から、安室の叱るような表情には弱い。どうしても、言うことを聞かなければいけない気がしてしまった。

「でも、状況は変わらねーぜ」

 案外クールに言い放ったのは松田だ。彼は片手でハロの頭をぽんぽんと軽く木魚のように叩きながら、淡々とした口ぶりで語る。


「欲しいもんがデカけりゃ、リスクだってデカくなるもんだ。俺たちにとって、アイツの存在はそんだけデッケェ価値がある。――ゼロ、お前はどうなんだ?」


 その抑揚のない話し方が、どうしてかより彼の内に篭った意思を強く感じさせた。私がこの間の、彼の怒りに満ちた声色を知っているからだろう。内側で燻るような炎は、安室と同じ色を連想させる。
 安室は松田の言葉に、沈黙で返した。その沈黙は、私にとっては肯定も同然だ。当然だった、どうでもいい問題のわけがない。それはきっと松田にも分かっていることだった。あえて焚きつけるようなことを言ったのだと思う。

 それでも安室が言葉を紡がないのは、私という存在の所為だろうか。それとも、諸伏に対するトラウマの所為なのだろうか。皆が安室のほうを見つめる中、ようやく彼が話し始めたのは、松田の最後の言葉から五分ほどの沈黙を経てからだった。――僕は、と喉がへばりついたのを無理くりに剥がすように擦れた声を出す。

「僕は、真相を暴くことには然して興味がない。それをしたことで過ぎたことはどうしようもないし、失ったものは帰ってこない。だけど……」

 視線が持ち上がる。透き通るような瞳の色が、私を捉えた。彼はこちらを見ると、ほんの少しだけ頬を緩める。
「それが終わったら、過ごしてみようと思う。自分の好きなように、楽しみを見つけて――……少しだけ、我儘に生きていける気がする」
 そう微笑むと、表情に真剣さを表して、彼は静かに頭を下げた。私に――そして松田たちに対して。


「ヒロに何があったか知りたい。危険なことは重々承知だ、頼む」


 その言葉を待っていたと言わんがばかりに、松田たちは口元にニヤっと笑みを浮かべる。正直、安室が諸伏のことを思い返すことで辛いばかりなのだったら、私は別にその真相を暴くことはなくても良いと思っていた。だけど、違うのだ。諸伏の為だけでなく、安室の為にも。

 松田たちの表情を見た後に私のほうへと顔を振り返らせた安室に、私は節操なく抱き着いた。ヒュウ、と口笛を吹いたのが誰かは分からなかったが、何となく萩原だろうなと予想はつく。
 安室の手が、そっと私の肩をポンポンと叩いた。優しい手つきだ。

「ごめん。危ないことには変わりないのに」
「良いよ! 今までもたくさん守ってくれたもんね」

 寧ろ嬉しいんだから、と力強く抱きしめていたら、そんな私と安室の体を丸め込むように大きく太い腕が抱きしめた。驚いて安室と顔を見合わせ、視線を戻すと伊達がほんのりと目じりに涙を浮かべている。バシバシと私たちの体を叩きながら、彼はすんと鼻を啜った。

「すまん」
「……伊達さんって、ケッコー可愛いところあるんだね?」
「いつもは冷静なんだけどな」

 安室はそう言って苦笑いする。その表情は満更でもなさそうで、私から見てもどこか微笑ましさを感じた。そしていてもたってもいられなかったように、松田と萩原が安室の上に圧し掛かるように腕を回した。

「なあんか見覚えある光景だったよなあ?」
「アレだろ。諸伏の事件解決する時の……ほんっと、幼馴染って似るんだねえ〜」

 安室は驚いたように二人を振り返りながら、「そっちこそ」と笑った。暫くはその重さを確かめるように受け止めていたが、暫くすると安室の眉が吊り上がる。

「……おい。萩原、右手どこに置いてるんだ」

 その台詞に、私は萩原の長い右腕の先を視線で追った。左腕は安室の肩に、もう片腕は私の背中に回っている。ついキョトンとして、ぱちんぱちんと目を瞬いたら、安室が不機嫌を露わにして萩原の手の甲を抓る。

「いでぇ!」
「油断も隙もないな、お前は……」
「今のスキンシップくらい良いだろお。班長だって抱き着いてんじゃんかよ」
「安室さん、なんか萩原さんにだけすごい厳しいよね」

 笑いながら肩を竦めると、伊達が私の耳の方へ口元を寄せた。
「いや、萩原が芹那さんに手ェ出すんじゃねえかって、気が気じゃないんだよ。ゼロは」
「え? でも何で萩原さんだけ……」
「昔から女のケツばっか追っかけてたからなあ。ま、ゼロなりに大事にしてるんだ。ちょっと口うるさくても大目に見てやってくれ」
「それは良いけど……」
 やいやいと言い争う二人の姿を見ながら、その心配性の被害は萩原に向いているような、と私は苦笑いと共に頬を掻くのだった。




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