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その日から、私は誰か一人の監視の下、少しずつ買い物のコースを変えた。今までは大通りだけを通ってきたが、なるべく人気が少ない道にも足を踏み入れるよう、気まぐれに、なるべく不自然なく。
今の諸伏は、大胆だが慎重な男だ。考えなしに姿を見せているようだが、その実ここ三年間安室にその影を見せることすらなかった。一度警戒されたら、諸伏本人が姿を見せることはなくなってしまうかもしれない。そう思うと無意識に表情が強張ってしまって、部屋に戻ったら今日の担当だった伊達に笑われてしまった。
伊達はその容姿に反し(――というと、失礼かもしれないが)、安室の言う通り普段はひどく落ち着いた性格をしていた。その冷静さだけで言えば、出会いがしらの安室とも通ずるかもしれない。恰幅の良い江戸っ子のように見えるのに、存外落ち着いたしゃべり方は、話していると中々に好ましく思える。警察学校の班長というのが、私の思うような班長なのかは分からなかったけれど、そういったリーダー気質なのは納得した。
私がゴロゴロとソファに転がって、その笑い声から隠れるようにクッションに埋もれていたら、彼は悪かったと苦笑いを浮かべた。私が横になったのを見計らって、ハロがぽすっと腹の上に飛び乗る。
「いやいや、大したタマさ。普通囮になることだって中々引き受けない」
「そうかな? なんか、私諸伏さんに対する警戒心が薄いんだよねえ……」
「前も言ってたな。でも実際に殺されかけたんだろ?」
「うん。それはそうなんだけど、なんでだろうね」
不思議に思って、ハロと戯れながら首を傾げた。伊達は私が横になったソファの片隅に、軽く腰を掛けながらこちらを見下げて小さく笑んだ。しっかりと男らしい輪郭は、安室の横顔とは異なる。なんだか新鮮な気持ちだ。
「今のアイツがどうなのかは別として……。諸伏に敵意を抱きづらいのは分かる気がする」
「そうなんだ。伊達班長は仲良かった?」
「かもなあ。そりゃあ、ゼロとの仲には負けるが」
色々とヤンチャしたよ――、伊達は懐かしむように語ってくれた。伊達も松田も萩原も、そんな昔話をするときの表情は似通っている。春の木漏れ日のように暖かく、穏やかに揺らぐ表情をする。そういえば、安室も諸伏のことを話してくれた時に同じような顔をしていたと思った。
安室のことを思い出していたら自然と頬がへにゃりと緩んで、ハロに頬を舐められてきゃらきゃらと笑っていたら、伊達の大きな手がするっと額に掛かった髪を退けた。一瞬、びくりと体が跳ねた。けれど、かさついた手の表面や柔らかな触れ方に、自然と肩の力が抜けていく。安室のものに似ていたからだ。
「……あ」
そういえば、最近は萩原に触れられても前のようなことはなかったかもしれない。もしかすると、安室はそのことを気遣ってくれていたのだろうか。特別相談したことはなかったが、新出は安室には話してあると言っていた。
そんな私の零した声を、驚いたものと思ったのか、伊達は慌てて手を引っ込めた。
「すまん、驚かせたか」
「ううん、大丈夫。ちょっとビックリしたけど嫌じゃなかったよ」
「それなら良かった。……いや、こう言っちゃなんだが、娘によく似た顔をして笑うから」
照れくさそうに笑う伊達の表情を微笑ましく思い、それから私は伊達の言葉を頭の中で噛み砕いて、ようやく飲み込むと彼の顔を勢いよく振り返った。
「む、娘……!?」
「ああ、三歳を迎えたところだ」
「わあ……そっか。そんな歳だよね」
思えば、彼らは三十を超えているのだ。子どもの一人や二人いても可笑しくないだろう。しかし、安室と同い年だと思うと、どこかむず痒く想像し難いところがあった。そわそわとしていたら、その様子を見かねたのだろう。伊達が携帯から写真を開いて見せてくれた。
「かっ、可愛い〜……!!!!」
カメラ目線にきょとんと見上げる小さな顔。奥さんは、もしかしたら外国の人なのだろうか。キラキラと光るブロンドに、色素の薄い大きな瞳。血色良く紅色に染まる頬と手足。こういっては何だが、肌の色を除けば、安室をそのまま縮めたような容姿をしていた。私はそんな感想はさすがに不味いだろうかと、携帯を握りしめながらドキドキしていた。
「似てるだろう、ゼロに」
「……う、うん。ものすごく」
「はは、ナタリー……俺の妻なんだが、アイツも外の血を引いていてな。だから毛色が似ているゼロを放っておけなかったんだ」
すっと画面をスライドさせると、確かに安室に少し似ているかもしれない、綺麗に微笑む女性の顔が映っていた。綺麗なブロンド、安室より少し黄味が強いかもしれない。
「超〜美人。お似合いすぎるよ」
「ありがとう」
「……でも、三歳の子どもと同じなのは複雑なんだけど」
可愛い子だけれども、とはにかんだら、伊達は「勿論俺の子が一番可愛い」と自慢げに語った。そういうことを言っているんじゃない。また今度会わせてね、私が言えば、伊達はニっと口角を持ち上げた。近くに子どもらしい子どもがいたことがないので、三歳がどのくらいの大きさなのかとか、よく分からない。
「子どもかあ……」
このくらいの大きさだろうかとハロを持ち上げていたら、その窮屈さに耐え切れなかったのか、ハロがパッと腕から飛び出した。私はその温もりの名残を残念に思いながら、むくりと上体を起こす。
その拍子に、目が眩んだ。
つきんと目の奥を差すように、窓から差し込んだ日差しが眩しい。――否、日差しではない。何かが反射したようにキラリと光ったような気がした。
「……?」
何が光ったのだろう、私が目を凝らしてそれを見ようとしたとき、視界が反転した。伊達が私の頭をソファへと押し付けたのだ。何が起こったか分からないままケホっと咳き込む私に、伊達が一言謝罪する。
「……頭を下げて、多分まだ姿は見られていなかった。ソファに横になれば、向かいのビルからは死角だ」
そう囁く声に、先ほどの光が反射光だと気づいた。伊達の言葉からすると、向かい側に立つマンションのどこかから見ていたのかもしれない。伊達は素知らぬ顔で立ち上がると、伸びをしながらリビングの窓のカーテンを閉め切った。部屋の周囲を確認すると、漸く私に起き上がっても良いと声を掛けてくれた。
「あ、ありがとう。諸伏さん……なのかな」
「さあ、違うかもしれないが、気にしないよりは気にした方が良いな」
伊達は考え込むように、そのしっかりとした輪郭を手でなぞる。元々私を囮にする予定だったのだから、こうして兆しを見せたことは吉兆と言えるだろう。なのに、何故だか私の心は晴れない。何か――何か嫌なことが、近づいているような気がした。
「ひとまずゼロに相談しよう。アイツが帰るまでは、今日は俺がいるから」
「ごめん、早く家に帰りたいよね」
先ほど子どもの話をしたばかりなので、申し訳ない気持ちになってしまう。私に父親はいなかったが、小さいころから保育園に迎えにくる母親の姿が、待ち遠しくて仕方がなかった。きっと彼の子どもだって、会いたいと思っているに違いないのに。
「そんなこと、分かった上で首突っ込んでんだ。気にしなくても良い」
ぽすぽす、と大きな手が私の頭を柔く叩いた。私はその言葉に甘えて頷く。先ほどまで安心できた、彼のニっとした笑顔さえ、今は何だか不安を煽る一因であった。怖いわけではない――そうではないと、思うのだけれど。ただ胸の中がザラザラと突っかかるような、そんな気持ちになるのだ。
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