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「白木さん」

 その呼ばれ方に、なんだか心臓がギクリとした。
 どうしてそんな違和感を覚えたのだろう、別に苗字で呼ばれただけのことなのに。私は跳ねた鼓動を押さえつけるようにヘラっと笑うと、声のほうを振り返る。黒く瑞々しい瞳が私を捉えて笑った。

「見て」

 と、彼女はノートの片隅をシャーペンでトントンと突く。そちらに視線を滑らせて、迷いのないタッチで描かれた小さなミニキャラに私は声を上げる。
「うわっ、うま!」
 その声は思いのほか教室内に響き渡り、自身でも驚くくらいに注目を集めてしまった。睨みをきかせた教師に肩を竦めて、それから声を潜めもう一度彼女と話し始めた。

「何々、すっごい可愛い。私のにも描いてよ」
「良いよ。やっぱり安室さん?」
「モチロン!」

 そう言えば、彼女は再びペンを取ってするすると私のノートの片隅を彩った。絵本のようなタッチのぷにっとした頬が、「ちゃんとノートをとりなさい」と私を叱りつけている。ものすごく可愛い、天才じゃないかと何度も褒めそやす私に、白い頬がポポっと染まっていった。

「全然そんなことない」
「ウソ。マジで仕事とかにできるでしょ」
「……実はね、話を書くほうが好きなの」

 彼女はそう語った。その瞳はどこか不安げで、私の顔色を窺っている。ここ何度か話をして分かったことだが、彼女にはコンプレックスがいくつもある。話が下手なこと、友達が少ないこと、家族と仲が悪いこと。そして、恐らくだが、それを人に認めてもらいたいような態度を取ることが多かった。
 私は例に漏れず、「すごいじゃん」と笑った。それが一番コミュニケーションが円滑にいく方法と知っていたからだ。

「ほんと?」
「私には頭悪くて無理! どういう話書いてるの?」
「いろいろ……。ねえ、もし自分の好きな世界を一つ作れるなら、どうする?」

 ニコリと、控えめな笑顔が尋ねかける。私は「心理テスト?」と問いかけた。彼女は何も答えなかったけれど、私はそのまま少し考え込んだ。好きな世界――ってことは、めちゃくちゃイケメンがいっぱいいる世界でも良いのか。それこそ安室透に会える世界なんて堪らない。あのイケメンを一度で良いから生で観察してみたい。あわよくば優しくされてみたい。自分の想像に頬を僅かに緩める。

「……でも、ちょっと怖いね」
「怖い? どうして」
「だって、私は今の生活で割と満足だし? 本当になんでも好きにできるなら、好きなだけ楽しんだら帰ってこれるように、出口を作っちゃうかもしんないや」

 イケメンだらけなんて夢みたいな世界だが、私はこのなあなあな日常が嫌いではない。いっそ好きな時だけ会いにいけるような世界だったら、どんなに良いことか。なんて夢物語を語ったら、彼女はサラリと流れた髪の毛を耳に掛けた。

「そっか。参考にするね」
「今書いてる話?」 
「うん、そんな感じ」

 できたら読ませてねとは言えなかった。小説を読むのは苦手で、コナンでさえ一話読むのに膨大な時間が必要だ。でも、彼女が将来小説家とかになっていたら恰好いいなあとは、うららかな陽気の中で考えていた。美術の教員のゆったりとした喋り方に、ついつい欠伸が零れたものだ。




「――芹那!」
「わっ」


 はっと息を吸い込んだ拍子に、噎せ返ってしまった。喉が引きつるように痛んで、げほげほと咳き込む。はあはあと呼吸を整えたとき、私は手のひらがグッショリと汗で塗れていることに気づいた。
「大丈夫かい?」
「……安室さん」
 ベッドを覗き込む心配そうな顔つきに、ゆっくりと上体を起こす。周囲を見渡した。伊達と共に安室の帰りを待っていたのだが、私が寝落ちてしまったのだろう。安室が水を差し出しながら、伊達がここまで運んでくれたのだと言った。

「重くなかったかな」
「それは……今の状態で心配することじゃないな」
「えぇ? うわ、すごい汗」

 彼の差し出してくれたグラスを受け取ると、手のひらから心地のよい冷たさが巡っていく。こくりと中身を呷れば、体がそれを求めていたのか、ぐびぐびと空になるまで一気に飲み干してしまった。彼は空になったグラスをひょいっと取り上げ、ベッドサイドに置くと、浅くベッドの淵に腰を掛けた。汗で張り付いた額の髪を避けて、私の首元に手を当て体温を触診した。

「熱はないか」
「そんなに体調悪そうだった?」
「すごく魘されてた。嫌な夢?」
「ううん。別に……わりと平和な夢だったよ」

 変なの、と思いながら、私は安室の手の温度が心地よくて、触れた手のひらに頬を摺り寄せた。安室はしょうがない、とでも言いたげに一つ息をつくと、私の体を寝かせてから額を撫でてくれた。

「今日はもう寝た方が良い。明日は休みを取ってあるから」
「あ、そうだ。話したいことが……」
「昼間のことなら、伊達から聞いているよ。大丈夫」

 ふと笑った安室の表情を見て、やっぱり胸がスッキリとしなかった。その靄がかかったような心地に、私は何度も眠りにつこうと努力したものの、どうにも眠れない。五度目の寝返りを打った時、傍らから笑い声がした。チラリと細目を開ける。

「……安室さんが寝ろって言ったのに」
「ごめん。眠くないなら無理しなくて良かったんだけど、疲れてるかと思って」
「お腹すいちゃった」

 私はもう一度体を起こした。ぼさぼさな髪の毛を軽く撫でつけて、自然と立ち上がった安室の後ろをついてリビングへ向かった。ぼんやりとしながらキッチンに立つ。ご飯は炊けていなかったので、冷やご飯を使ってチャーハンでも作ろう。安室はそんな私の姿を横目に、早速デザート作りに取り掛かってくれていた。

「今日は何だろ」
「当ててごらん」
「うーん……」

 ベーコンとキャベツを刻みながら、安室の手元をチラリと見遣る。使われていたのは豆腐とココア、粉寒天。手つきよく混ぜ込むと、もう一つ抹茶パウダーを混ぜた生地も別に作っていた。

「パンナコッタ!」
「惜しい、今日はチョコレートムースです」
「えぇ〜、パンナコッタと何が違うのソレ」
「まあ似たようなものですが。ゼラチンや生クリームの泡立て具合で、パンナコッタ、ムース、ババロアと区別されるんだ。食感に特徴がでるかもしれないね」

 ふうん、と豆知識に感心しながら、私はご機嫌に冷やご飯をフライパンへ投入した。出汁と卵に米粒を絡めていく。安室は作っていた生地を冷蔵庫へ仕舞いこみ、チャーハン用の器を取り出した。さすが、気が遣える男だ。

 二人で夕食をテーブルまで運ぶと、合図もなく両手を合わせる。いただきます、という声はニアミスで揃わなかった。食事をしながら、私は昼間のことについて安室に尋ねた。

「まだ捜査中で、詳しいことは分からないんだ。伊達が光を見たと言っていた部屋も暫く使われていない空き部屋だったらしい」
「……そっか」
「どうして君が落ち込むんだい」

 安室はクスクスと笑うと、腕を伸ばし私の髪を耳に掛ける。汗が引いて、ようやくのこと体が濡れている感覚に心地悪さを感じた。気づかないうちに、そんな嫌な夢でも見ていたのだろうか。覚えているのは、ただ懐かしい夢であったけれど。
 
 私はチラリと安室のほうを見上げた。私の作ったチャーハンを掬って大口を開ける綺麗な顔つき。それは美しいと表現するにはあまりに日常じみていて、確かに眼福とは言えるものの――「あはっ」笑い声を堪えられなかった。

「……芹那?」

 ジトっと笑われたことに気づいた安室が私を叱りつけるように見た。私はぱしっと口に手を当てたものの、もぐもぐと咀嚼する頬に、夢の中の落書きを連想してしまった。
「あの頃から、安室さんって厳しかったな〜って思って」
「あの頃、って……」
「アッチの世界。私叱られたもん」
「まさか」
 ニヤニヤと言ってみせれば、安室は怪訝そうに眉を顰めた。今なら、ノートをとりなさいと叱る彼の声まで頭の中で再生できるけれど。私はやっぱり、絵の中の彼より、目の前にいるちょっとだけ人間らしさが滲む彼が大切だと思う。食後のチョコレートムースに胸を躍らせていたら、自然と感じた不快感はなくなっていた。


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