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 翌日は久しぶりに、ぐうたらとした朝を過ごした。ハロには安室が先に餌を遣ってくれていたらしく、催促に気づかないまま昼前。大きな欠伸と共に目を覚ますと、そんな私の顔の真横に安室が肘を腕枕にスウスウと寝付いている。着替えが済んでいるところを見ると、どうやら一度起きてから転寝しているのだろう。

「ぎゃ……もうお昼じゃん……」

 枕元にあった時計で時間を確認してから、ごしごしと目頭を擦る。傍らで動く気配を感じ取ったのか、安室もぐぐっと伸びをした。先ほどの私とお揃いの大きな欠伸が零れる。
「おはよう、芹那……。しまった、寝すぎたな」
「マジでよく寝た……」
 寝すぎて頭が痛いと嘆いたら、安室は苦笑と共に「それは良かった」と肩を竦めた。そういえば、今日は安室も休みだと言っていた。だからこんなに時間がゆったりと流れているのだ。
 私も気に入りのTシャツとデニムに着替え、簡単な身支度を整える。リビングに戻ると、ダイニングテーブルにはサンドイッチとコーンスープが並んでいた。私はガッツポーズを取る。安室のサンドイッチは特別美味しいのだ。
 勢いよく両手を合わせ、私は既に絶品と決まりきった柔らかなソフトサンドに手をつける。ご機嫌にそれを頬張っていると、安室はマグカップに口をつけながら、私を呼んだ。私はもぐもぐと咀嚼しながら、視線を持ち上げて首を傾ぐ。

「久しぶりに、どこか出掛けようか。その――、ヒロのことは関係なく、息抜きに」
「……」

 私が黙ってしまったのは、決してその提案が嫌だったわけではなく、口の中に含んでしまった大量のサンドイッチを必死に消化しようとしているからだ。ひとまず首だけでコクコクと頷く。こういう時に限って、欲張ってしまった数秒前の自分を恨みたい。
 ようやくのこと全て飲み込み、一度小さく咳き込みながら「行く!」と答えたら、安室が声を上げて笑った。

「あはは、いや、ごめん……あはっ、はっははは!」
「そんな笑わなくても……。だって、安室さんのサンドイッチ美味しいから……」

 私にもそれなりに女としての恥じらいがあるわけで、口を小さく尖らせて身を縮こまらせたら、安室は目じりを拭いながら「ごめん」ともう一度謝る。その表情は未だに笑いを押さえきれないでいるものの、そのキラキラとした笑顔に怒る気も起きず、「まあ良いけど」と済ませてしまった。

「そんなに拗ねないで。どこか行きたいところがあれば連れていくよ」
「でも、本当に良いの? その、諸伏さんのことは……」
「今までの様子を見る限り、彼は僕たちが傍に居る時は姿を見せないから。前も君が去るのを見るとさっさと逃げてしまってね……きっと、何かあるんだろう」

 ――その何かが、何かは分からないけど。安室はさして気に留めていない様子で、冷静に語る。こういう時の彼の表情は読みづらい。さすがトリプルフェイスというか、彼が隠そうと思えばその真意を読み取ることは難しいかもしれないと思う。けれど、彼が気にしないように見せてくれるならば、私もそれに倣おうと思った。

「あ、じゃあ……実はこの世界に来てから一回行きたい場所があったの」
「もちろん。連れていけるところなら」

 微笑む安室に、私もニっと笑いながら礼を述べる。彼は手元の食器を片付けながら、顔を斜めにした。
「それで、どこに行きたいって?」
 私はアニメで見た景色を思い出しながら、少し温くなったスープをスプーンで掬った。私の返事を聞くと、安室は少し意外そうに瞬いてから、「了解」と少し気取ったように答えるのだった。





 もう昼を回っていたので、身支度は軽く髪を巻いて纏め上げ、マスカラをいつもよりたっぷり塗っただけだ。本当は行く場所も場所だったのでワンピースにしようと思ったが、それでは閉館時間が迫ってしまうのでしょうがない。
 彼とこうして出掛けるのは、三年前にスノーボードを習いに行ったきりで、すっかり機嫌良く鼻歌交じりになった私を、安室は運転席で笑っていた。向かう途中で何となしに口ずさんだメロディーに、安室は「それ、前も歌っていましたね」と指摘した。

「そうだっけ? でも、結構好きな歌かも」
「君の世界では、そういう……韓国の歌が流行っているのかい」
「そうだよ。皆脚長くて腰がキュってくびれてて、可愛いんだよね」
「へえ、ブームって分からないものだな」

 確かに、この世界に来てからあまりKPOPを聞くことはない。音楽番組もバンドや日本のアイドルが主流で、私がいた世界よりも一つ前のブームを追っているような感じがした。それはそれで、嫌いじゃないのだけれど。

「安室さんはどういう音楽が好きなの」
「えぇ? うーん、難しいな。やっぱり、ヒロの影響でバンドが好きかもしれない」
「部屋にもギター飾ってあるもんね」

 どういう歌、と問いかければ彼はダッシュボードにある幾枚のCDから、一つを選びパッケージを開けた。シンプルなデザインだ。車についているプレイヤーに入れて、数秒読み込みの時間を挟み、ドラムの音が響き始めた。思っていたよりずっと、若い感じの邦ロックだった。ボーカルの声は爽やかで、桜をテーマにした曲らしい。

「かっこいい」
「本当かい? 君が幼稚園くらいの時に流行ったんだ」

 安室はどこか照れくさそうにそう言った。もしかすると、その歳の差に恥ずかしさを覚えたのか、それとも、今流行りのものではないことに照れくさいのか。どちらにしても、私はその歌が気に入っていた。歌もそうだけれど、この歌を聞いて彼が青春を過ごしたのだと、何故か鮮明に想像できたからだ。部屋の片隅に、いつも綺麗に手入れされて飾られたギターを思い出す。きっと綺麗な思い出に違いないと、そう確信できた。

 とん、とん、と安室の指がハンドルをリズミカルに打つ。私のように鼻歌混じりにはならなかったけれど、彼の指先から奏でられる音が心地よかった。暫くの間、会話をすることはなく、CDの音楽を聴きながら安室は車を走らせた。僅かに開いた窓から、暖かな陽気と爽やかな風が吹き込む。

「……今度時間があったらさ、私にも楽器教えてよ」

 その一曲が終わりかけたとき、私は窓の外を見ながら告げた。――「楽器?」安室は尋ね返す。私は頷き、口元を緩ませながら答えた。

「うん。ギターでもベースでも、なんでも……。やってみたいな」
「君がやってみたいことなら、惜しみはしないけど」
「やった。安室さんに教えてもらお〜」

 笑いながらパチンと手を合わせたら、運転席から視線が送られる。私も彼の方を見たから、丁度目が合ってしまった。タイミングよく赤信号で、目が合ったまま数秒。私はなんだか急に恥ずかしくなって、首を掻きながら視線を逸らした。彼の瞳が、あまりに蕩けるような柔らかさと甘さを含んでいたからだ。

 自惚れかもしれないが、表立つほどに蕩けた視線は、さすがに真正面から受けるのを憚られるくらいだった。頬が薄っすらと赤く染まってしまうのは、赤信号のランプのせいだと思ってくれると良いのだけど。

「……?」

 ドクドクと鼓動が鳴る。安室に対して感じたことがないような胸の熱さを感じた。それはかつて沖矢に感じたものと同じような――否、あれも安室自身なのか。妙な気分に私は今一度項を掻いた。
 
 ちょうどアルバムが一巡した頃、目的の建物が見える。平日と言うこともあって然程混んではおらず、私はそれを見た瞬間に先ほどまでの気持ちも忘れて、子どものように窓に張り付いていた。外観まではアニメでは出ていなかったので分からないが、そうか、あれが――。

「本当にこんなに近場で良かった?」
「うん! すごい好きなシーンでさ。一回は来てみたかったんだ」

 駐車された車から足を踏み出す。私が選んだ場所は、米花水族館――。工藤新一と毛利蘭が、かつて訪れた場所だった。


 
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Shhh...