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 ふかふかとしたカーペットに、水面から差し込む光が揺らめく。一面に広がる水槽の中は、ゆったりとした時間が流れているように優雅にイルカたちが身を泳がせていた。わあ、と吐息混じりに水槽を見上げる。手のひらを近づけると、肌の上にも水面の筋が走った。

「きれ〜……」

 水族館なんていつぶりに来たろうか。幼いころに一度だけ、母親が連れてきてくれた覚えはある。ラッコの水槽の前から動こうとしない私を、叱りつけもせずに閉館間際まで腰かけて見守っていた母の姿。後から聞くところによると、私が夢中になっている間、眠りこけてしまったのだと笑いながら語っていた。
 多分、彼女なりに母らしいことをしようと必死だったのだ。私はそんなことをしなくたって母のことが好きだったけれど、普段は仕事が忙しく、どこかに出掛けることなどなかったから。

「ここは、何のシーンで使われた場所?」
「えっとねえ、ここは新一くんと蘭ちゃんがデートした名スポットで……」

 その時にあった事件は、今でも思い出せる。その事件のあらましを話していたら、安室は興味深そうに「へえ」と頷いていた。
「さすが名探偵。その頃から推理力は群を抜いていたんだね」
「なんか、安室さんすごーく嬉しそ。新一くんのことそんなに好き?」
「好き――……というか、まあ。彼には何かと世話になったしね」
 色々と、と付け足された言葉はどこか棘を含んでいて、私は苦笑を零す。確かに、映画を観ていた限りでも、良くも悪くも首を突っ込む少年であることは確かだ。助けられたと同時に、同じくバーボンとしては非常に手を焼いたことだろう。

「そうか、デートで水族館にね。彼も高校生だったんだな」
「うんうん。そう、この大水槽がね……」

 なんて話していた時に、ふとその水槽を覗き込んだ横顔に視線をとられてしまった。先ほどまで私の手にも映り込んでいた水面の揺らめきが、その褐色の肌を過ぎっていく。アイスグレーの瞳は、水槽のランプを受けて一層青みがかって煌めいた。口元が、片側だけ自然と微笑んだ。

「安室さ……」

 ん、と呼ぼうとした時に、ゆらっと視線が私を振り返る。「ん?」と私のことを見遣る顔つきに、何も言えなかった。いつも彼が使っている整髪料が香る。どうしてだか、ひどく胸が高鳴った。飲み込めなかった唾が、口の中にゆっくりと溜まっていく。

「芹那、気分でも悪いのか?」
「あっ……ううん。だいじょーぶ、アッチ行こ!」

 私は慌ててかぶりを振ると、その手を引いて水槽トンネルのほうへ向かった。確かに、頬が熱い。青みがかった薄暗いランプに感謝をしなければ、私のそんな血色も少しは悪く見えることだろう。

 ――安室さんがいくらイケメンだって、何今更恥ずかしがってるんだか。

 私は自分に対して呆れながら、暖かな手のひらの温度を確かめた。ふふ、と頬が緩む。彼が以前、スノボーに連れて行ってくれたことを思い出した。母のことを思い出せば、もしかしたら彼も同じような気持ちだったのだろうか。
「……そうだったら良いんだけどな〜」
 なんて独り言ちると、それが彼の鼓膜を揺らしたらしい。安室は振り返って不思議そうに「何が?」と尋ねる。私はニヤニヤとした顔を隠すことなく、何でもないと答えた。人混みの流れが変わったので、何があったのかと思えば、そろそろメインのショーが始まるらしい。私たちは目を合わせて、互いに頷きあった。スタジアムは既に人でいっぱいで、座席はあまり残っていなかったので、二人で一番後ろの柵に凭れかかった。

「イルカショー、実は初めて」

 私は人の賑わいに負けないように、安室のほうに少し顔を寄せて話しかける。安室は頬杖をつくと、「実は僕もだ」と照れくさそうに笑った。
「えぇ、本当に?」
「食べられる魚は知ってるけどね」
「東都水族館には行ったでしょ?」
「あれは仕事で……嫌な記憶を思い出させないでくれ」
 はあ、と重たいため息が喧騒に溶けていく。私は悪戯っぽくケラケラと声を上げた。きっと私の見た映画と細かい設定は異なるのだろうが、どちらにせよ赤井に助けられた事実は彼にとって忌々しい記憶なのだろう。

「赤井さんって……」

 と口にした瞬間、安室が不機嫌そうにこちらを睨んだので、私は苦笑いして「あの人って」と言い直した。

「今はやっぱりアメリカにいるの?」
「いや、FBIは引退したらしい。そもそも父親の真相に迫るための手段としてFBIに入局していたわけだし……。その後のことは、僕も知らない。精々余生を楽しんでいるはずさ」
「余生って。そんなおじいちゃんじゃないんだから」

 似たようなものだろ、と安室はイルカたちの水槽を見下ろしながら吐き捨てた。そうか、もう日本にはいないのか――。少しだけ気にかかることがあった。以前メアリーと出会った時に、彼女が赤井の所在を知らなかったことだ。あの時は沖矢のことを赤井だと思っていたので、潜入捜査中だと思い込んでいたが。
 なら、彼は母親に居場所も告げずどこかに行ってしまったのだろうか。確かに赤井はミステリアスな部分があり、彼が素直にペラペラと語っている様も想像はできないが――。

『たかが一人だろうな。漫画とかいうモンでこの世界を知る君にとっては』

 冷たい言葉。だけれど、どこか怒りすら含んだ声色。――今思えば、どうして彼はあそこまで私に厳しかったのだろう。やっぱり、正体を知られたから? ずっとそう思い込んでいたけれど、それにしては最初から物わかりが良かったし、彼の怒りはまるで私の考えそのものに向いていたような気もする。私が子どもだったと言えばそれまでだが――。まるで、私がどういった人間なのか分かりきっていたような。


「ほら、始まるよ」
「え?」

 私の思考は、安室がトンと背を叩いたその衝撃で吹っ飛んでしまった。ハっと意識を取り戻して目の前の現実を見ると、キラっと水しぶきが陽の光を跳ね返した。悠々とした尾びれが釣り下がったボールを鮮やかに弾く。

「わあ……」

 跳ねた水と、艶っとした肢体に目を奪われた。すごい。水の中の生き物なのに、まるで空を舞う鳥のようだ。オレンジのボールは、暫くその余韻を残すように揺れていた。イルカたちは観客の拍手を受けると心地よさそうに、飼育員の手にすり寄っていく。

「すごい」
「ああ。こんな飛ぶものなんだな」
「すごい! 私たちでもあんなに飛べないのに」

 柵から身を乗り出すようにしてその姿を覗くと、安室が「なんで比べるんだ」と笑っている。
「だって、私たちのほうが空には近いはずじゃん……。でもあんなに飛べないし」
「うん。――自由で綺麗だ」
 青い空を見上げて、安室が微笑む。私もその笑顔を見るとほんのりと口角を緩めて頷いた。

 イルカたちは次々に回転したり、真っすぐ直立したり、はたまた歌を歌ったり――。いくつもパフォーマンスを見せ、そのたびに私は手が擦り切れんばかりに拍手を送った。そのあとはセイウチとアザラシのパフォーマンス、ペンギンの楽器演奏。どれも可愛らしくて、自然と笑い声が零れる。それはきっと周りの人たちも同じで、ショーが終わるころにはスタジアムは笑いと拍手で包まれていた。

 その後、附属されたカフェで飲み物を手に、私たちはショーの感想を語り合った。どれも可愛らしかったけれど、私も安室もやはりイルカが良かったと言った。本当に、綺麗な姿だった。あんなにも水槽の中ではゆったりと泳いでいくイルカたちが、あんなに煌びやかに跳ねるとは思わなかった。

『――綺麗だ』

 そう眩そうにボールを見上げる、安室の瞳もまた、青々と美しく輝いていた。その光景が忘れられなくて、こっそり土産屋でイルカの3Dクリスタルを買った。少し値は張ったけれど、イルカが一匹、キューブのなかに立体的に象られている。薄っすらと空が透けて綺麗だった。
 帰ったら、安室に渡そう。一緒に行ったのに土産というのも妙な感じだが、それでもこの一つは、彼に貰ってほしかったのだ。


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Shhh...