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 マンションへ帰宅すると、二人で夕飯の用意をした。今日は出掛けるということもあって、朝下準備しておいたカレーライスだ。既に切りわけておいた材料を煮込むだけというなんとも簡単な料理だったが、二人でキッチンに立つだけで私には十分だ。私がアレコレと準備をしている間に、安室はデザートを作るとそそくさ別の作業を始めた。今日くらいなくたって良いのに、毎日律義な男だ。

 テレビを見ながら、そろそろカレーも良い感じだろうか。そう思っていたところに、一つの電話が転がり込む。私の携帯ではない。ふと安室のほうを振り返ったら、彼は汚れた手を軽くエプロンで拭って携帯を取った。

「はい、降谷……ああ。その件なら――分かった」

 安室は少し渋い表情を見せながらも、ため息とともにエプロンを外す。寝心地の良いソファに体を沈めていたら、安室が隣に腰を掛けた。案外大きな体に、ソファの片側が大きく沈む。組んだ親指を、神経質に動かす様に、私はこちらから投げかけることにした。

「お仕事だって?」
「……ああ。そうみたいだ、ちょっとだけ出てきても良いかな」
「無理しなくて良いって。カレーだから、もうよそうだけだし」
「ごめん、折角の休みだったのにね」

 ぽん、と大きな手のひらが私の頭に乗る。小さな子どもをあやすようにヨシヨシとかいぐってくるが、そのしょぼくれた表情を見ているとどちらが子どもなのだか。つい苦笑いを堪えることができないまま、私もその見慣れた白いTシャツへと凭れかかった。

「私はジューブン楽しんだから、大丈夫。また帰ってこれるでしょ」
「ああ。そんな大した案件じゃないから、日付を超える前には帰るよ」
「それより、着替えないで良いの。シャツ、洗濯しちゃったんじゃ……」

 いつも掛かっているシャツが見当たらないのは、きっとクリーニングに出したのだろうと思っていた。安室は休日になると大体そうしていたから、今日もその日だと思ったのだ。安室はアっと目を丸くしてから、額に数秒手を置いた。

「……いや、まあ良いさ。登庁はしないわけだし……」
「あはは、あんま良くないって顔してる」
「明日の午前に取りにいく予定だったんだ。今日は丸々フリーだったから」

 しまったな、と頬杖をつきながら安室が嘆いた。そんな表情にも人間味があって、私は先ほどの仕返しだと言うようにそのサラサラのブロンドを撫でた。本当に、彼はどうしてここまで私のことを良く思ってくれるのだろうか。確かに最初の境遇は、彼の過去と重なっていたのかもしれない。けれど、今はそうじゃないだろうと思う。

 寂しそうに、けれど大切なものを慈しむように安室の目じりが垂れる。

 私と彼が似ているというのはあながち間違っていないのかもしれない。もしかしたら、二人とも足りない心のどこかを埋めたくて、そんな人を探していたのかもしれないと思った。こればかりは私の推測でしかないけど、安室も、諸伏がいなくあったあとの虚しさを――受け渡せない感情を。もし、もしそうだとしたら。

「安室さんで良かった」

 私はへらっと笑いながら彼の顔を見つめた。
 私を拾ってくれたのが、手を差し伸べてくれたのが、背を押してくれたのが。この世界で唯一、家族だと呼ぶような存在が、彼で良かった。

 安室は一瞬驚いたように私を見たが、「何が」とは尋ねてこなかった。代わりに柔く、照れくさそうに笑った。

「……あっ」
「ん、どうかした?」
「……なんでもない」

 そのキラキラと揺れる金色を見て、私は今日のショーのことを思い出した。と同時に、初めてこの世界に落ちてきたときのことがフラッシュバックする。そうか、どうしてあんなにイルカショーに感動したかと思ったけど、あの日からそのブロンドを自然と目で追ってしまっているからだ。

 ぽつぽつと、滴る水滴が、まるでその金色の髪に照らされているのかと思ったものだ。そう伝えるのはなんだか恥ずかしく思えてしまって、私は首を振った。急に、お土産に買ったクリスタルを渡すことが億劫になる。本人に本人の思い出を渡す気分だ。(例え、安室は知らなくても――)。

「それより、早く行かなくて良いの?」

 誤魔化すようにチラっと玄関のほうを見遣れば、安室はそうだったとワザとらしく落ち込んで立ち上がる。確かに仕事に行くにしてはラフな恰好だ。彼が一瞬スーツのことを過ぎらせたということは、きっと風見ではないのだろうが――。

「じゃあ行くよ。また後で」

 最後にぽんぽん、とハロを撫でるような手つきが頭に乗っかった。私はハーイ、と元気の良い返事をして彼の背を送り出す。それから暫くソファの上でごろごろとしながら、クリスタルをテーブルの上に出した。
 これを面と向かって渡すのは、恥ずかしい気がする。
 そもそも私も成人済みだし、安室は三十超えだし、子どもっぽいんじゃないか。せめて日常使いできるものとかにすれば良かった。マグカップとか、そういうやつ。さりげなくテレビの傍らとかに置いておいたら、自分用としてセーフか。試しにデッキ台に飾ってみながら、私は部屋の中をグルグルと歩き回った。


「……や! やめた。別に直接渡しちゃって良いでしょ」

 
 うんうん、と一人で勝手に頷きながら、冷蔵庫を開ける。何か冷たい飲み物でも、と思って開けたのだが、私はピタリと手を止めてしまった。中のオレンジがかった照明に照らされて、青いクリスタルのような輝きが視線を奪った。


「うわ……すごい!!」


 きらっと光った青いゼリーが、グラスに敷き詰められている。その下の層には杏仁豆腐、上にはイルカ型のクッキー。確か、水族館の土産屋で売っていたものだ。二つ並んだデザートは、珍しい。いつもは大抵私のものだけで、彼はコーヒーで済ませることが多かったから。飛び跳ねるイルカの形に、私はその喜びで胸がぎゅうっと締め付けられた。
 嬉しかった。先ほどまで浮かれていたのは私だけかもなんて思っていたけど、そうじゃない。なんだ、案外単純なことだ。どちらの想いが強いとか、どちらのほうが執着してるとか――。そんなことで悩んでいたのが馬鹿みたいに思えた。

「安室さん、私のこと好きだもんね〜」

 ニヤっと笑って、そのイルカを軽く小突く。このカクテルゼリーを見つけたことは、安室には内緒にしておこう。それから、初めてみたかのようにビックリして、あの自身ありげな笑みで満足してもらうのだ。

 さあ、仕事を済ませて帰ってくる前に、ハロの世話を済ませてしまおう。ペットシーツを仕舞ってあるコンテナ型の収納ケースを開けた時、隣にあるキーフックに家の鍵が掛けっぱなしなことに気づいた。

「……これじゃ帰ってこれないんじゃ?」

 今日はオフの日だからなのか、本当にちょっぴり抜けている。私の鍵は常に鞄のキーケースに入っているので、間違いなく安室のものである。鍵を開けっぱなしで待っていると怒られそうだし、チェーンまで掛けてしまったけど。まあ、帰る前には連絡が来るだろう。


『なんで安室さんだけ、そんな辛くなんないといけないの……誰もお願いしてないよ。安室さんに犠牲になれなんて言ってないじゃん! 』
『それが終わったら、過ごしてみようと思う。自分の好きなように、楽しみを見つけて――……』

 いつか、今日のような日が当たり前に繰り返せると良い。漫画の中の安室透は、いつだって完璧で、格好良くて、ミステリアスで知的な魅力的なキャラクターだ。だけど、そんな殻もなく、今日のように浮かれてミスもして、人並みに日々を生きてくれたら良い。その隣に私がいたのなら、どんなに良いことか。

 否、きっと現実にできるはずだ。夢物語ではない。
 そっと瞼を閉じて微睡んだ。どうか、安室が無事に帰ってくるようにと願いながら――。




―――
――


 インターフォンの音で目を覚ました。ウトウトとソファに寝転んでいた意識が浮かび上がる。そうか、そういえば鍵を忘れていったのだっけ。目を擦りながら、「はーい」と欠伸混じりに応えて扉の方へ向かう。

 そしてチェーンロックを外し、ぼんやりとした頭の中でふと思う。
 
 ――あれ? どうやって、エントランスの中に入ったんだろう。

 私は間違いなく今起きたばかりで、鍵を開けた覚えはない。そう疑問に思った時には、扉の鍵を開ける指先を止められなかった。かちゃんっと鍵を回した瞬間に、扉が押し開く。いつか、その扉を押し入った乱雑な手つきを思い出して、寒気がする。扉の隙間に挟まる男物のスニーカーを、がんっと扉を閉め切って挟んだ。安室の靴じゃない。
 ドクドクと心臓が壊れそうなくらいに鳴っている。指先が震えて、手汗が止まらない。兎に角、この扉を閉める手の力を緩めないようにしなくては。それだけに必死で、私はガタガタと震えて力の入っていない手に思い切り体重を掛けた。骨折しようが、知ったことか。


「痛い痛い、ちょっと落ち着けって」


 そう、笑い混じりな声が扉の向こう側から聞こえる。
 私はその声色に、そっと手の力が緩むのが分かった。どうしてか、ひどく安心する声をしている。私の力が緩むのが伝わったのだろう、彼はドアノブをしっかりと回して、先ほどのことなどなかったようにヒラっと手を振った。

「諸伏さん……」
「やあ。まだ死んでなかったか」
「……ごめん?」
「いや、飲むとは思ってなかったよ。君のことだからね」

 男はひょうひょうと肩を竦めて、チョイと私を手招いた。いけないと分かっている。彼についていって、ロクな目にあったことはないのに――。その手は魔法のように、私を惹きつける。自分でも、よく分からない。けれど、彼も同じように、私に惹きつけられるようにしてこちらへ近寄った。――まるで、随分と前から知っているような、懐かしい雰囲気がするのだ。

 私は背後に輝くクリスタルを、やや名残惜しい気持ちで顧みながら、そっと扉の外に踏み出した。

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Shhh...