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 私は諸伏に手を引かれるまま、少し離れた場所にあるファミリーレストランの一席に座った。安室に連絡を取ろうかと思っていたが、携帯は先ほどヒョイっと彼の手の中に収められてしまっている。

 ――本当に、どうしてついてきたんだろう。前もその前も殺されそうになったのに。

 これじゃあ、安室に余計な心配を掛けるだけだ。きっと帰ってきてから驚くだろうし、ひどく心配するだろう。せめて一報だけでもいれさせてくれないかと頼んだが、サラリと断られてしまった。
 そう言われたら仕方ないので、開き直ってドリンクバーでオレンジジュースを注いで座る。諸伏はホットのカフェオレだった。なんで私、自分を殺すだとか言ってくる男とドリンクバーを楽しんでいるんだろうか。

「……死ぬのは怖かった?」

 諸伏が頬杖をつきながら尋ねた。私はジュウ、とストローを咥えながら彼を見上げる。吊り上がった目つきは、幼いような大人びているような不思議な色をして私を見つめてくる。顔つきは涼やかだが、決して老けているわけでもなく、口元に描いた柔和な笑顔は不思議と彼の人を好く見せる。

「死ぬのっていうか……、安室さんを、置いて行けなくて」
「そうか、そういうモンなんだなあ」
「諸伏さんが置いていくからじゃん」

 その所為で、彼にどれだけのトラウマが残っていると思うのか。なんだか気軽な気持ちで言われるのが悔しくて、私は少し不機嫌になった。彼は私が怒ったような表情をしたのを見て、カラカラと笑いながら「怒るなって」と肩を叩いた。

 彼を見ていると、とてもじゃないが悪人には見えない。しかし、どこか人の命を軽んじるような――そういう態度があることも否めなかった。生死を気軽に口にするというか、そういう所は松田や伊達が語っていたことと合致する。
 私は彼らの話でしか諸伏という男を知らないが、安室が言うには、彼は幼いころ両親を殺され、その事件の真相を調べるべく警察官になったらしいのだ。とてもじゃないが、そんな男が人の生き死にを軽々しく語るようには思えない。


「……諸伏さんって、本当に諸伏さんなの?」


 私はストローで細かくなった氷をかき混ぜながら、訝し気に首を傾げた。多分、松田らも、ずっとそれが気になっていたに違いない。一番手っ取り早いのは変装だ。ベルモットやキッドのように、本当にソックリに化けることができる技術がこの世界にはある。その可能性は拭えないが、その可能性がほぼないと言えるのは――。

「勿論。君だって聞いたんだろう、この傷のこと」
「……うん」

 懐かしそうに、彼自身の指先が腕に走った切り傷をなぞった。安室が語っていた、古びたシャッターで切ったという腕の傷。それを知るのは安室しかいないという事実があった。ということは、その傷を再現するのは安室のほかには無理なのだ。

 なら、目の前にいる男は一体誰だ。

 まさか、死体が蘇ったとでも言うのだろうか。確かに体が縮む薬だなんて、非現実的な薬が存在する。というか、私の存在そのものが、割と非現実的である。私はそんなことを考えたものの、途中で馬鹿らしくなって笑ってしまった。ぼこっとジュースが軽く泡立つ。

「Tウィルスもビックリだわ……」

 大体、そんな薬があったらコナンという漫画の意義も怪しいのではないだろうか。せめて仮死状態――くらいならありえなくもないのかも。
「まあ、アレは体の活動を促しているだけだけどね。一緒にされると傷つくぜ」
「へえ、ちゃんと見たことないから知らなかった」
「見た方が良いよ。名作だ……おかわりいる?」
 すっと手のひらを差し出されて、私は言葉に甘えてグラスを渡した。同じものでと頼めば、彼は背を向けてスタスタと歩き出す。グレーのパーカーが、首回りにたっぷりとしたボリュームを作っているせいか、ものすごく頭が小さく見える。

 帰ってきた足取りに礼を告げると、諸伏はなんてことなく「どういたしまして」と返した。私も私自身が何を考えているかよく分からなくなってきたし、彼の考えることなど尚更分からない。

「質問変えても良い?」
「どうぞ」
「目的があるんだよね」

 そうだね、諸伏は笑いながら頷いた。本当に、緊張感のない喋り方をする。

「その目的は、安室さんを不幸にしないもの?」
「ああ、寧ろ感謝してほしいな。オレはアイツらのために――」
「アイツらって、松田さんたちのこと」

 矢継ぎ早に尋ねたら、低い声が可笑しそうに笑った。多分、私が食い下がるように言葉を紡ぐのが可笑しかったのだろう。クック、と笑いながら手を軽く振って、一つ頷いた。


「オレはただ、自分の好きな奴らにだけは、幸せに生きて欲しいのさ」


 コーヒーカップを傾けて、諸伏は静かに語った。なんて理不尽な人だろうか。その人たちが幸せならば、他の人はどうでも良いと――彼はそう言うのだ。一瞬そう嘆いたけれど、よく考えれば私も同じなのかもしれない。安室が幸せならば、と、そう願っている部分は大いにある。そう思うと、言い返すことはできなかった。

「例えノアの箱舟だと言われようが、オレはそれで良いんだ」

 ニコっと満足げに吊り目が微笑む。残酷なほどに、輝かしい笑顔だった。私が押し黙ったまま、グラスの縁を弄っていると、諸伏は苦笑してカップのハンドルを摘まんだ。


「そのために、君は邪魔だった。向こうの知識を振り翳されたら面倒だからね」
「……どうして私のこと」

 知ってるの、そう尋ねようとして、ふと頭を先ほどの会話が過ぎった。彼は、私の映画の知識を知っていた。安室との会話で知っている。この世界と向こうの世界では、あらゆる物で同じ名前のものは存在しない。世界的な偉人は確か合致していたが――要は著作権が引っかかるようなものは同じくして存在しないのだ。それは映画やアニメも同じ。この世界にバイオ・ハザードという作品は、ない。

「知ってるんだ、私の世界のこと」

 独り言ちる。それなら、彼が松田たちの死期を知っていたことも納得できる。向こうの世界で名探偵コナンを読みこんでいれば、多少の予測を立てながら行動することができるはずだ。

 ――今まで、彼の周りに異世界人がいるのだと思っていた。
 その知識を齧ったことで、知識を得ているのだと――そう思っていた。けれど、先ほどの会話はどう考えたって、彼が実際に見聞きしたものを言葉にしたのだ。

 けれど、それだと一つ疑問が残る。
 彼が知っているのなら、どうして諸伏景光自身の死を避けなかったのだろう。もしかして、本当に飲んだのは仮死薬のようなものなのか――。

「うん。きっと白木さんよりは詳しく知ってるかな」
「どうやって向こうの世界に行ったの?」
「……さあね。前にも言ったから、もう言わないよ」

 ――前に? いや、言っていない。そんなこと、聞いたこともない。
 困惑しながら諸伏を見つめていたら、彼は居心地悪そうにカップの中身を飲み干した。そろそろ行こうかなと席を立ちあがる彼に、私は慌てて腕を掴んだ。まだ聞きたいことは、山ほど残っている。

「どうして、まだ私を殺そうとしたの。三年前なら分かるけど……もう、原作は終わっているはずだよね。あの人たちは、もう心配いらないんでしょ」
「……言っただろ、ノアの箱舟だって」
「……安室さんが、ストーリーを覚えていないことと関係ある?」

 諸伏は寂しそうに押し黙った。本当に、崩れ落ちてしまいそうな顔をしていた。ただ、その沈黙が紛れもなく肯定だということだけは伝わる。胸の奥が、また不快感に飲まれそうだ。嫌な感覚がする。


「だから、君には出口を渡したのさ」
『出口を作っちゃうかもしんないや』

 呟いた言葉に、私は思わず目を見開き、そのゴツゴツとした腕を引っぱった。諸伏景光――顔も体も、そうのはずなのに。私はゴクンと堪った涎を飲み込み、その目を見つめた。忘れかけていた名前だった。向こうの世界に置いてきてしまった名前。確か、そう。記憶を辿る――控えめに微笑む少女の姿を思い出す。

 白くキメ細やかな肌、話しかけるとパっと花が咲くように笑う姿。
『変わった名前でしょ。小さな雪って書くんだ……』
「――小雪、ちゃん?」
 似ても似つかない少女の名前に、諸伏は小さく微笑んだ。男の姿をしているのに微笑み方は少女のものそのままで、彼は私の手を引いて「行こう」と告げた。どこに行くのかなんて、分からない。だけど、今その腕を離してはいけないと直感が語る。

 ふと時計を見遣る。時刻は二十三時を回る。すぐに帰るからと、私は心の奥で安室に謝った。   

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Shhh...