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 少女の名前はコユキと言う。
 小さい雪と書いて、小雪。その名前の通り、こじんまりとした色白な姿をしていた。目立たず大人しい生徒だったが、ひそかに男子生徒の噂になるような器量をしていて、いつも一番端の窓辺に座っていた。
 同級生ではあったが、クラスメイトではない。とある選択授業で偶々隣り合っただけの女生徒だ。切っ掛けは、彼女が持っていた安室透のグッズに、映画を観たばかりで熱が真っ只中だった私が話しかけたことだった。ミーハー心でハマった私とは真逆に、名探偵コナンの大ファンなのだという彼女は、漫画を貸してくれたり知識を分け与えてくれた。学年が一つ上がってからは、授業も離れて、私の趣味も変わり、特に会話をすることもなかったが――。

 信じられない。
 目の前にあるのは確かに男の体、男の声――話し方まで、男そのものだ。
 だけれど、心のどこかで納得するのは、彼に対する警戒心がどうにも生まれないのはそれが理由なのではと思うところがあったからだ。知らない男ではなく、よく知った友人であったから、私も何も感じなかったのではないか。

 その手を引かれたのは、とある廃ビルの中だった。入り組んだ道を走ってきたので、ここが町のどのあたりなのか、ファミレスからどれほど離れたのかはよく分からない。
「座って」
 ビルの一室に入ると、そう促される。廃ビルにしては手入れされた一室だ。薄暗いものの、荷物も整理されていたし埃も積もっておらず、不気味さは一切ない。もしかすると、彼が拠点にしているのかもしれない。
 オフィス用であろう黒い合皮のソファに腰を下ろすと、彼は隅に置かれたクーラーボックスから一つミネラルウォーターを取り出した。手渡してくれた男に礼を述べると、人の好さそうな笑顔が微笑む。

「……小雪ちゃん」
「あはは、この体でそう呼ばれると変な感じ」
「なっ、なんで!? だって、その体は……スコッチの……」

 身を乗り出すと、彼はパキリとペットボトルの蓋を外して水を呷った。その長い脚を組むと、彼はデスクに置かれた資料をパラパラと捲る。その中の一枚は私の写真だった。私のもの以外には、全てチェックマークが打たれていた。

「聞きたいのはコッチの方だよ。どうしてこんなに一杯、向こうから来ちゃったんだか……」
「この人たち、皆……もしかして……」
「君と同じ異世界人≠チて奴さ。皆殺しちゃったけどね」
「ころ……」

 さらりと吐かれた言葉に、喉が詰まった。そんな言い方しなくとも、と。諸伏は笑った。

「今頃向こうの世界でちゃーんと生活してるよ。こっちじゃ死体だけど」
「本当に、向こうに帰れるんだ……」

 前彼が言っていたことは、虚言ではなかったらしい。思えば、簡単のようで一番難しいことだ。自分で自分の命を奪うなんて、相当の決意がなければできないだろう。けれど、どうして。そう尋ねようとしたら、私の考えを見透かしたようにペラっと私の映った写真を一枚拾い上げた。

「さっき言ったろ。あの人たちを救うのに、中途半端に知識を振り翳されてこっちの計画に支障がでたら困るんだよ。こっちは、皆が何も知らない前提で動いているんだから」
「……まるで、望んでこっちに来たみたい」

 ぽつりと呟く。何も知らないまま来たわけでなく、彼らを救いたいがためにこの世界に来たような口ぶりだ。私の言葉に、あっけらかんとして諸伏は「そうだよ」と返した。どうやら、もう隠しごとをする気はないようで、彼は照れくさそうに首を掻いた。悪気のない子どもがするような仕草だった。


「――ココ、私の書いた話のなかだもん」


 一瞬、どう見ても成人男性でしかないその姿が、可愛らしい少女の姿を重ねた。話――って。解せないまま眉を歪めるだけの私に、彼はニコリと笑ってみせた。

「もしかして、名探偵コナンの漫画の世界だと思った? 嬉しい、それだけ原作再現できてたってことだよね」
「……話って、小雪ちゃんが書いた……小説、みたいなこと?」
「そういうこと」

 ぴん、と人差し指が軽快に立てられた。――名探偵コナンの世界では、ない。コナンも、安室も、赤井も――、漫画の中の彼らではない。愕然とする。だって、今までそう思い込んでいたのだ。理解して飲み込むには、時間が掛かった。
 外を走る車の音と、彼の呼吸音だけが部屋に響いていた。静寂の中で、私がようやくゴクリと喉を鳴らしたら、諸伏は肩を小さく竦めてこちらを覗きこむ。

「信じられない?」
「……ううん。だから、RUMが分からなかったんだ」
「そうなんだよねえ、原作じゃまだ掲載されたなかったからさ。適当に捏造するのも違うじゃん?」

 向こうの世界では、まだそこまで話が進んでいなかった。彼女が書いた話だから、彼女の知識の中でしかない。だから、RUMも烏丸蓮耶も、正体が不明のままなのに組織が壊滅したのだ。

「じゃあ、この世界の諸伏さんは、ずっと小雪ちゃんだったってこと?」
「それはちょっと違うかな。私が彼の体を使えるのは、彼の意識がない時間だけだったから。起きている時は、いつもの諸伏景光だったはずだよ」
「……だから、諸伏景光を殺したの」
「元々死ぬ運命だったんだから、体が動くだけでも良いほうでしょ」

 だから、毒殺だったんだ。銃弾で傷ができたら、自分が動く時に支障が出るから。
「だって、この人五月蠅かったんだよね。原作の中ではすごい好きだったのに……私の話なのに、思うように動かないし。助けてあげようとも思ったけど、結構早くから私が中にいることに気づいて、追い出そうと必死だったんだから」
 その言葉につい怒りが滲んだのは、それを語る安室のひどく惨めな顔を思い出したせいだ。ぎゅうと握り込んだ拳が震えた。

 諸伏は私たちとは違う。松田の身代わりに死んだという機動隊員も、違う。死んで、向こうの世界に戻るわけではなく、本当に死んでしまうのだ。

「なんで、そんな風に言えるの……」

 彼らの表情を見ていたら、私まで苦しくなってくる。それは、私は彼らに感情を持ってしまっているからだ。漫画の中だろうと小説の中だろうと関係なく、彼らに対して好意を持っているから。
 そんな私を、意外そうに小雪は見つめた。だけど、やっぱり軽々しく笑うと、彼女は答えるのだ。


「だって、私の話のキャラクターでしょ」


 悪気のない言葉が、私の胸を抉った。つい、その胸倉に掴みかかってしまった。吊り上がった目が驚いて見開かれる。
「……白木さん、変わったね。前はそうやって熱くなるタイプじゃなかった」
「……そうかもね。小雪ちゃんの作ったこの世界が、好きになっちゃったから」
「変なの。降谷零だって、私が書いたキャラの一人なのに」
「違う! 安室さんは、この世界の中の一人の人間でしょ!!」
 例え元は彼女の創った世界だとしても、彼は生きていた。生きて、しっかりと自分の道を歩んでいる。そんな安室のことを、キャラクターだと呼ばれて、無性に腹が立った。ついぞ三年前まで、私だってそう思っていたのに。

「違うよ。降谷零だって、私が創ったキャラクター。夢見たいから、原作よりちょっと優しい設定にしただけ……白木さんが思っている優しさってそういうことだよ」
「それでも良い。家族だって呼んでくれたのは、あの人だったから」

 掴もうとした体はビクリともしない。当たり前だ、体はしっかりとした諸伏のものなのだから。ゆったりとしたパーカーの生地が伸びるだけだった。掠めた体温が異常に冷たくて、もしかしてその体は既に諸伏の命と共に朽ちているのかもしれないと思った。

「白木さん、何で私がこんな話したと思ってるの? 洗いざらい全部さあ……」

 体がぐるっと反転する。ソファの冷たい合皮が、頬に押し付けられた。大きな手が私の首元に掛かった。まだ力は入れていない。


「邪魔なんだよ。折角私だけが特別な世界なのに、どうして邪魔してくるかなあ」
「それが小雪ちゃんの本音だったら、いくらでも邪魔する! そんな考えで救われて、あの人たちが……どんな気持ちで、この数年を過ごしたと思ってんの!!」
「五月蠅い! アイツらが、どんな死に方するのかも知らないくせに!!」

 
 そう叫んだ剣幕に、私はビクリと体を震わせた。低い声色は、怒りを含むと獅子の咆哮のようだ。黙ってしまったのは、図星だったからだ。何も返すことができなかった。

「折角、出口を残してあげたのに」

 彼は忌々し気にそう呟くと、私の上から体を退かす。吐き捨てるような言い草だ。どうして殺さなかったのか、やろうと思えばできるはずだ。体を起こして、私は彼の背を視線で追った。

 彼は不機嫌そうな色を隠すことなく、ソファに掛けなおす。私はただその行動を不思議に思いながら、ジっと諸伏を見つめていた。


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Shhh...