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「……殺さないの」
「……殺されたいわけ?」


 はぁ、とため息が零れる。思えば、こんなにもフリーな状況は今までなかった。最初会ったときには安室、次は沖矢が、再会した時にも安室が――そして、その後薬を渡された。そういえば、薬を渡した時に、彼女は皆自ら死んでいったと言った。
 初めに私を襲った男たちのことを考えても――もしかしたら、手を下したのは彼女自身ではなかったのかもしれない。きっと私たちは、小雪にとってキャラクターではないからだ。

「どうせ、もうすぐこの世界も終わっちゃうから」

 と、寂しそうに小雪は廃ビルの外を眺めた。「終わる?」オウム返しに尋ねたら、彼女はまるで宙に文字を書くようにスルスルと指を動かした。

「私の書いた小説、四年後でエピローグを迎えているの。そこまでなんだよ、この世界は」
「……それって、安室さんたちは?」
「勿論生かすよ。だからノアの箱舟だって言ったんだ、全員分の話なんて書けないからね」

 彼女はそれから、指折りにキャラクターの名前を連ねた。安室、萩原、松田、伊達、コナン、灰原、蘭――。聞き馴染んだ名前が二十人を超えたあたりで、それは止まった。

「この後どうなるかは分からない。だから、この人たちの話だけは私が書き続けないと」
「待って。話が終わったら、皆はどうなるの」
「別に変らないよ。でも、また事故や事件で死ぬかもしんない」

 その話を聞いて、ホっとした。世界が終わるなんて言うから、てっきりこの世界が消えてしまうのかと思ったが、そういうことではないようだ。彼女のあずかり知らない内容になるというだけの話だ。

「そんなの絶対嫌。折角……折角、守ってきたんだから」

 ギリっと、親指の爪を甘く噛みつける。だから、と彼女は言葉を続けた。
「白木さんがいると邪魔なの。貴方のことは書けないから、何が起こるか分からない。もしかしたら、貴方を守るために誰かが犠牲になるかもしれない」
「……だから、いなくなってほしい」
「そうだよ。早くその薬を飲んでくれたら、それで終わったのに」
 重たくため息をついてから、諸伏の姿をした小雪は先ほどまで使っていたデスクの板を引っぺがした。その下には、分厚い原稿用紙の束が何重にも保管されている。彼はカチンとボールペンをノックする。

「白木さんがこの世界に未練があるのは分かったよ」
「……未練」
「カプセル、大事に取っておいてね」

 小雪はサラサラとペンを走らせてから、ぐぐっと伸びをした。先ほどまでの苛立ちが嘘のように表情から掻き消えている。それが、彼女の言う小説なのだろうか。私の前で開けるということは、他人に触れられても問題はない代物なのだろう。その分厚さは辞書が何十冊分かという厚さで、彼女がこの世界に対してどれだけ想い入れているかは、多少なりと窺える。
 大変だっただろう、最初から、最後まで、自分の好きな人たちを殺さないよう配慮しながら、幾重にも話を考えてきたのだろう。生と死が隣り合わせな、この作品の世界観で。
 そう思ったら、少しだけ彼女に同情した。私は作品を知らないままにここに来て、彼らを人間だと認識したが、彼女は違うのだ。まるで大がかりなゲームを製作しているような。もう既に、一人ずつの人生など考えていては、キャパシティが間に合わないところまで来ているのだ。


「……小雪ちゃんはさ」


 私はなんだかその姿を放っておけなくて、くるっと踵を返した広い背中に声を掛けた。その歩みが留まる。

「向こうの世界に、未練はないの?」
「――あったら、今すぐにでも帰ってるよ」

 力なく、その口端が弱弱しく笑った。私は彼女を引き留めたかった。これからも、彼女はそうやって生きていくんだろうか。その命が続く限り、ひたすらにただ彼らの運命を連ね続けるのだろうか。――それは、いっそのこと、呪いのような。

「小雪ちゃ……」

 そう彼女を呼ぼうとした瞬間に、くらっと眩暈が襲った。目の前の景色が揺れて、力が抜ける。崩れ落ちる体を、その大きな手のひらが掴んだ。最後に、彼のひどくやつれたような目つきを見上げたような気がする。




 目を覚ましたのは、マンション付近の路地だった。傍らには携帯電話もそっと添えられている。いつの間に――なんて私は苦笑した。もしかしたらデータとか抜かれたのか、なんて携帯電話を見回したけれど、違いは分からない。しかしその携帯を見回しているうちに、時間は既に早朝にも掛かるような時間であることに気づいた。通りで、辺りは薄っすらと光に照らされ始めていて、視界が広い。まずい、このまま家に帰れば、安室の説教がどれだけ続くことだろうか。

「……まあ、しょうがないか」

 書き置きもしないで出ていった私が悪いのだから。
 小さく肩を竦めて、私は階段を上がる。今回ばかりは、甘んじて説教でも受けよう。鍵が掛かっていたので、キーケースから鍵を取り出して扉を開けた。部屋の中は暗く、寝ているのかと思って足音を潜めた。

「ただいま〜……」

 こそこそと荷物を置いて、ハロにも「置いてってごめんね」と軽く頭を撫でつけた。安室さん怒ってた? なんて冗談めかして笑ったら、ハロはきゅうんとしょぼくれたように鼻を鳴らす。本当に怒っていたのかも。顰め面の彼が起き上がる前に眠りにつこうか。


「――誰だ?」


 振り向いた時に、固いものが私の額に突き付けられていた。気配もなく全く気付かなかったが、そこに立っているのは安室本人である。私は一瞬ビクっと体を強張らせたけれど、彼だと分かった瞬間に自然と笑顔が零れた。

「安室さん。ごめん、怒ってる……? 冗談言うなんてめっちゃ珍しいけど」
「……人違いですよ。それより、どうやってこの部屋に入ったんですか」
「……安室さん、何言ってんの」

 私は顔を顰めて、首を傾げた。安室は私の表情を見て、彼自身も訝し気にその手元を下げる。手に握られていたのは紛れもなく警官用の拳銃で、私はギョっと目を見開いた。――彼が、そんなものを私に突きつけていたというのか。冗談の一環だとしても、絶対にそんなことはしないと思っていた。

 安室は、小さく息をついて、私の様子を伺いながら話しを続ける。

「ですから、僕は安室透という名前ではありません。他人の空似というやつでは?」
「……あのぉ。いや、本名じゃないのは知ってるけどさ、今まで言及したことないじゃん?」
「それより、どうやって部屋の中に……」

 どうって、鍵を使って、普通に――。
 否、違う。安室はどうやって部屋に入ったというのだ。彼は、鍵を忘れていったじゃないか。何かが可笑しい、まるで少しの間時間が吹き飛んでしまったみたいな。それに――。

「あ、安室さん……」
「しつこいな」

 はあ、とため息がつかれる。彼は財布から運転免許証を取り出すと、名前の欄を私に見せつけた。「ほら、ここ。降谷零って書いてあるでしょう」、と。私がそんなことを知らないかのように語る。

 嫌な予感がした。
 小雪が、ツラツラとペンを走らせていた姿を思い出す。この世界の全ては、彼女が書けばその通りになってしまうのだろうか。だって、この世界は――彼女の書いた物語の一部なのだから。

「ねえ、冗談言わないでよ。私……」

 はらっと、涙が溢れた。
 一度零れだした涙は止まることがなく、「私」と何度も言葉を繰り返しながら嗚咽を漏らす。急に泣き始めた私を見て、安室は――否、降谷零は、少しばかり困ったように、しかし解せないものを見るように目を細めた。

「体調が悪いなら、家まで送りましょうか。ここでは何ですから……」

 警戒したように、貼り付けたような笑みが浮かぶ。
 降谷は銃を仕舞うと、優し気な声を偽って「ああ、そういえばお名前を伺っても」なんて言うのだ。その問いかけに益々涙だけが零れてしまって、私はブンブンと首を振った。

「すみません、大丈夫です」

 そうとだけ言い残し、私は必要な荷物だけを引っ手繰るようにして、その部屋を後にする。部屋を出る寸前、ハロが私を引き留めるように鼻を鳴らした。それだけが、唯一私の口元に笑みを浮かべさせてくれたのだ。
  
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Shhh...