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「はい、今日はどうしましたか?」

 にこやかな笑顔に出迎えられて、私は極端にしょぼくれて肩を落とした。これが、最後の頼みの綱だったのだ。泊まる場所がなく、ひとまず知っている番号に連絡をしたは良いが、その先その先、私のことを初対面のように扱うのだ。萩原や松田も梓も、まるで迷惑電話でも受け取ったかのような反応をする。新出に至っては着信拒否である。
 しかし、その中で私が所在を知っているのは梓と新出だけだったのだ。先ほどポアロには行ってきた。「いらっしゃいませ」ととても良い接待を受けて、普通にモーニングを食べてきてしまった。
 
 そして開院時間を待って、新出医院に来ているわけだが――。目の前のにこやかな男も、私の名前をカルテに書き込んで、適当につらねた諸症状を真剣な顔をして眺めている。正直体のどこが悪いわけでもないので、いくら睨めっこしても無駄だとは思う。

「ううん、触診では問題なさそうだけど。食欲は?」
「……お腹いっぱいでーす」
「もしかしたら便秘かもしれないね。整腸剤を出しておきましょう」

 ――女に便秘のことをにこやかに語るとは、相変わらずややデリカシーに欠ける男である。
 私は目の前でにこやかにナースに指示を出す姿を見て、もう一度ため息をついた。理由は一つしか考えられない。小雪が、何らかの方法で彼らの行動を制限したのだ。携帯が傍に置かれていたのは、もしかしたら私の周囲を固める為かもしれない。多分、どうしても私をこの世界から追い出したいのだ。

『――誰だ?』

 あ、駄目だ。安室の声を思い出したら、ジワジワと視界が滲んできた。折角一晩自分に喝を入れていたというのに。大丈夫、小雪が動かした世界だもの。元に戻すことだってできるはずだ。

 ――そうは思っても、手がかりの一つも落ちていない。安室のように頭が切れるわけでもなし、たった一人の小娘の頭脳だ。正直小雪のことでも頭が追い付いていないのに、これ以上考えられる気がしなかった。

 何度か強く瞬いて涙を乾かし、私は荷物を持って立ち上がった。ナースに促されるままに診察室をあとにしようとしたら、新出が「待って」と私を呼び止めた。一瞬、淡く期待が浮かぶ。もしかして何かを思い出してくれたんじゃないかと。
 
 しかし振り返った先にいた男は、ただ心配そうに私を見つめていた。恐らく記憶の何かを思い出したわけではなくて、彼の根っからの人の好さがそうさせていた。優し気な顔つきが、悲しそうに歪んだ。


「本当に、大丈夫ですか? 体の具合でなくても良いんですよ」
「……せんせ」
「ほら、こっちに座って。大丈夫、病院は心身のケアをする場所だから」


 ニコニコと笑いながら、まだ業務中だというのに彼は診察室へコーヒーを運んできてくれた。本当に良いのかと尋ねれば、今日は人が少ないから気にしないでと笑われた。その優しさに、何度甘えてきたことだろう。私がゆっくりと席に戻ったら、新出は一度ペンと聴診器を置いて私のほうへ体を向かい合わせた。

「良かったら飲んで、インスタントだけれど……」
「あ、ありがとうございます」

 休憩に使っているマグカップなのか、隅にはアライデと名前が記されていた。そんな僅かなことだったが、ホっと安心できた。私のことは覚えていなくても、新出は新出なのだと思った。――そう、別に人が入れ替わったわけじゃないのだ。そう思ったら、緊張が緩んで浮かぶだけだった涙がポロっと一粒零れ落ちてしまった。
 
 新出は、それに何か言うことはない。
 ――いつもそうだった。私が海外生活に挫けそうになった時だって、彼は別に特別励ますわけではなかった。どうしようもなく、彼らしくて、それな尚更涙腺を緩くさせるのだ。

 茶化して見せたけど、気にしないようにしてみたけど、そんなこと無理なのだ。

 分かっている。小雪が彼らの行動を制限したのも、理解できる。
 私の、この世界の唯一執着するものだからだ。彼に忘れられたら、私にはこの世界にいる理由なんてない。悲しむ気持ちと、憤る気持ちがごちゃまぜになって、自分でもどんな顔をすれば良いのか分からない。
 悲しかった。悔しかった。ただただ――安室に名前を呼んで欲しかった。
 彼が呼ぶ私の名前は、この世界の何よりも私に自身を与えてくれる。可能性をくれる。温もりをくれる。


『お名前を伺っても』

 そんな彼の一言に、ここまで心が抉れるなんて思わなかった。
 帰りたいという思いは今も尚私の心を揺らしている。けれど、でも。同じくらいに、安室が『僕を信じて』と、『芹那の味方だよ』と、そう告げる声が頭に響いている。

「……白木さん?」

 ぼうっと涙ばかり零す私を覗くように、レンズの向こうの視線とかち合った。私は慌てて涙を拭って「はい」と応える。

「何か、頑張らないといけないことがあるのかな」
「……頑張らなきゃっていうか、頑張ってもどうしようもないっていうか」
「なるほど。それで疲れてしまったんですね」

 彼はニコっと笑って、そっと私の額に手を置いた。――瞬間に、パっと手を離す。私は驚いて彼を見上げた。

 以前の新出だったら、いつものことだった。彼は私が人に触れられることを嫌うのをよく知っていたから、診察や治療以外では不用意に触れたりしなかった。時たま触れたときには、今のように焦って手を離したものだ。

 けれど、彼は今までの新出ではない。私のことは、記憶にないはずだ。なのにどうしてそんな風に手を上げたのだろう。新出も、どこか驚いたように自身の手を見つめている。

「……全部を忘れたわけじゃない?」

 思えば、小雪は何かを小説の原稿に書き込んでいた。
 彼女が作品だということは、何かしら文章として書き込んだのだろう。彼女は言っていた。この先全員のことを書くことはできないから、選抜して彼らを守るのだと。私のことは書けないから、邪魔なのだと。

 例えば、私だったら小説に何と付け足すのだろう。
 『――は、――のことを全て忘れて日常に戻る』とか、そんなところだろうか。だとしたら、なくなったのは記憶だけで、習慣や物は残っているのかもしれない。それに、私の携帯電話を取っていったのも今思えば奇妙だ。別にそんなことをしなくても、この世界の人間がそうなるよう勝手に主語を付け足せば良い。

「ありがと、新出センセー! 私、まだ頑張れることがあるっぽい!!」
 
 うん、と一人頷いて、私は涙の筋を手の甲で拭う。新出は一瞬目を丸くしたものの、すぐにニコリと微笑んだ。

「そうですか、なら頑張らないとね」
「……うん。押しかけてごめんなさい」
「いえ、いつもでおいで。それが医師の仕事ですから」

 私は淹れてくれたコーヒーを飲み干して、受付で精算を済ませると病院を飛び出した。そう、まだやれることはあるはずだ。ずっと、安室が守ってくれていたのだもの。今度は私が行動する番なのだ。


「……置いてかないって、言ったもん」


 あちらの世界には帰れない。安室に、置いていかないと言ったから。例え彼が覚えていなくても、一人のうのうと帰ることなんてできない。もう――絶対に、彼を一人にはしない。


 考えろ――。
 頭は良いほうじゃないが、諦めるのとは訳が違う。可能性があるなら、馬鹿だからと諦めじゃダメ。

「自分を卑下しない。分からないことがあるなら、知れば良いだけ!」

 安室が何度も私に伝えてくれたことだ。私が忘れてどうする! 私が、彼を信じなくてどうする。大丈夫。先ほどの新出の反応を見ても、一人ずつを細かに思い通りにするのは骨が折れるのだろう。

 ――というか、思い通りにできるならば、別に松田も萩原も直接助けに行くことはないんじゃないのか。

 だって、そう一文付け足せば良いだけの話なのだ。
 それができないということは、きっとある程度の流れが決まっているのか――それとも、人の行動を変える時には細やかな設定が必要なのかもしれない。人が急にテレポーテーションなんてしたら、いくらなんでも可笑しい。案外、そういう整合性が取れないと上手くいかないのかもしれない。

 だから、彼は私の連絡先を抜いて、必要な人の情報を集めていたのではないだろうか。だったら、私の連絡先にない人だったら――? 元の私のことを知っていて、でも連絡先に登録されていなくて、尚且つ小雪に場所が割れていないような人。そんな人だったら、もしかしたら彼女に記憶を操作されることなく協力してくれるのではないか。

 そこまで考えを巡らせて、私は一人「ハハ」と空笑いを浮かべた。

 いくらなんでも、都合の良いことを考えてしまった。
 一番に思い浮かんだのは数美だった。今の携帯電話に、彼女の連絡先はない。しかし、彼女に協力を頼んでは危なくないだろうか。まあ、今日一日泊めてもらうことくらいはできるかもしれない。そんなことを考えながらぐっと伸びをした拍子に――私は、小さく呟いた。


「――……いた」


 この台詞、前にも吐いた記憶がある。しかも、全く同じ人物に対して。でも、確かだ。寧ろ――もしかしたら、彼は分かっていて――。私は慌てて、マンションへの道を急いだ。しまった、しまった! トランクも一緒に引っ掴んでくるんだった。彼への唯一の連絡先――貰ってから、一度も使うことのなかったアドレスは、残った荷物と共にマンションの中にあった。


prev Babe! next
Shhh...