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 私は大きく深呼吸をすると、そっと足音を忍ばせた。まさか安室のもとへ、こんなにも緊張して足を運ぶことがあろうとは予想していなかった。階段を昇って、そっと影から廊下を覗く。こんな、泥棒かスパイみたいな真似をするとは。気配の消し方なんてとんと見当もつかないので、今はただ安室が部屋にいないことを信じるだけだ。
 基本的に日中、安室は仕事に行くことが多い。ただ彼は定休ではないし、登庁も定期的ではない生活習慣を知っている。以前はさっさと見逃して貰えたが、元は警戒心が強く勘の鋭い安室のことだ。二度目に私がここにることに気づけば、安室透のストーカーか何かだと思ってとっ捕まえられるかもしれない。

 うーん、と首を捻った。どうしたものか考えていたら、エレベーターから誰かが下りてくるのが壁の影から見えた。そっと覗けば、ノッポなシルエット――風見が安室の部屋へ出入りするのが分かる。

「……安室さん、留守なのかな」

 風見が手にしていたのは、ハロのおもちゃセットだ。ということは、安室は部屋を留守にしていて、その世話をしにきたのだろうか。だとしたら有難い。私は風見が部屋を去るまでその場で待つことにした。

「あーあ……なんで自分の部屋に入るのにこんなことしてんだかなー」

 足元をパタパタと動かして時間を潰している時、ふと頭上が翳る。――「君」、声を掛けられて肩が跳ねた。ばっと振り返ると、風見が不思議そうに私を見下げていた。

「気分が悪いのか? 部屋まで手を貸すが……」
「え、あ……。ふ、ふふ……」
「な、何か可笑しいか?」

 薄い眉が心配そうに下がって、私は初めて風見に会ったときのことを思い出し笑ってしまった。そんな姿を見ていると、じんわりと心が暖かくなる。やっぱり、皆人として変わってしまったわけではない――それが、何より嬉しいのだ。

「ごめんなさい。ちょっと足が疲れて休憩してただけなんだ」
「そうか――、いや、つい声を掛けてしまって。申し訳ない」
「ありがとう、お兄さん優しいね」

 すくっと立ち上がって、ヒラヒラと手を振った。彼も私の笑顔を見ると心配が晴れたのか、顔色を良くしてエレベーターに乗りこんでいった。
「……よし、やる気出た」
 私は一度頷き、マンションの鍵を手に部屋の前へと向かった。鍵を開けて、そっとドアノブを捻る。廊下は暗い、やはり安室は留守にしているようだった。そっと身を滑り込ませると、足元にハロが駆け寄ってきた。

「ハロ〜っ!」

 あん、と嬉しそうな鳴き声と共に、手の中に温もりが飛び込んでくる。嬉しそうにパタパタと左右に振られる尻尾に、頬が綻んだ。どうしてだか、ハロだけは私のことを覚えてくれているようで、今も何かを訴えるかのようにこちらを見つめていた。
 部屋の中はたった一日帰らなかっただけたというのに、何故だかひどく懐かしく感じる。物自体は移動していないらしく、殆ど私がいたときのままだ。

「……あ」

 テレビ台には、イルカのクリスタルが、カーテンから零れる僅かな灯りを受けて煌めいていた。勘の良い彼のことだ、きっと自分が買った覚えがないことは気づいているだろう。単に処分する時間がないだけかもしれないが――それでも、私は。
 涙を零さないようにかぶりを振り、トランクが仕舞いこんであった寝室へと足を向けた。

「……本当に空き巣があったわけじゃないよね」

 そこに広げられていた私の荷物に、安室の困惑が滲んでいる。きっと、覚えのない荷物が置かれていたことに戸惑い中身を広げたのだろう。さすがに下着の袋は空けられていなくて安心した。私が持ってきたものは着替えと、元の世界の制服と携帯電話、それから安室に貰った漢字の練習帳にレポート。それほど見られて困るものはないのだが――。
 さて、アドレスはどこに仕舞いこんだのだったか。これで安室が先に見つけてしまっていたら元も子もない。確か、制服と一緒に仕舞っていたような。広げられた荷物を捲りながらメモ帳を探していた。その途中で、当時の記憶が過ぎる。そうだ、確か制服と一緒に――。

 ハロが、私に何かを訴えるように鳴いた。
 くいっと履いていたパンツの裾を噛まれる。まるで私を出口へと促しているようで、私はひとまず部屋から出ることにした。今の私にとって、ハロは誰よりも信用に足る人(――人じゃないけど)だったからだ。鍵を閉めて階段まで向かったところで、エレベーターが鳴った。

 私は思わず先ほどと同じ場所に姿を隠す。
 グレーのジャケットを片手に掛けた、輝かしい金髪が視界に入る。慌てて息を止めて、その玄関が閉じる音がするまで唇を噤んだ。ハロは主人の急な帰宅を報せてくれたらしい。心底感謝を覚えて、どうしようかと考え込んだ。やっぱり、今日は諦めてまた出直すべきか。

「あ、こら。ハロ!」

 ぱたん、と開いた新聞受けから安室の声が響く。ちらりと扉の前を見ると、制服の胸ポケットに仕舞いこんでいた折りたたまれた小さなメモが一枚、ひらりと玄関の前に落ちている。

 私はそろそろと足音を忍ばせてそのメモを拾うと、もう一度コソコソと階段のほうまで戻る。あんあんと吠える声が聞こえる。その声が止んだかと思えば、がちゃりと扉が開いて、安室の声がした。

「まったく、新聞受けに顔を突っ込んで何を見てたんだ……? 変な物、食べてないと良いんだが……」

 ぶつぶつと呟きながら、再び扉が閉まる音を聞いて、私はパシっと部屋の中にいるハロへと合掌した。なんて賢い子なんだろう。今後何があっても、必ず恩返ししようと心に誓う。

 ハロの忠犬具合に感動を覚えながら、小さく小さく折りたたんだメモを開く。いつだか沖矢が、何かあればと寄越したまま私が一向に登録しなかったアドレスである。沖矢昴だったときのものなので、果たして今使えるかは分からないが――。

 マンションのエントランスを飛び出て、私は携帯片手にそのアドレスを打ち込んだ。どうか繋がってくれと精いっぱいに願いながら。自分の名前と、力を貸してくれないかという旨を記して送信する。メールアドレス自体は機能しているようで、無事に送信されたそれを、携帯を握りしめて見つめていた。

 ――マンションを出て、それほど経たないうちに、メールが返ってきた。
 記されていたのは恐らく電話番号で、ただし携帯電話からはかけるなとのことだ。携帯――でないとすれば公衆電話かと思った。のだけれど、このご時世公衆電話がある場所は少なくて、その場所を探し回るのに一時間と少しほど掛かってしまった。

「あったあ……!」

 ぜえぜえと息を切らして、ようやくのこと一台の電話ボックスを見つけた。見つけたいときにないのだから。公衆電話に対する文句が絶えないままにその扉を開ける。メールと見比べて電話番号を打った。

「公衆電話なんて使ったことないっての……」

 ひとまず十円を入れれば良いのだろうか、金額の相場も分からないままに電話をかけてしまったので、その電話に書かれた細かい文字をコール音をBGMに必死に読み込んでいた。暫くして繋がった電話の向こうからは、沖矢ではない、赤井の声がする。ハスキーで、落ち着いた声色はどこか冷たさを含んでいる。

『――やあ、ずいぶんと遅かったな』
「公衆電話、ぜんっぜん見つからなくて……」
『ホォー、そんなもんか』

 そっちが指定してきたくせに、と文句を垂れると電話を切られそうになった。慌ててそれを引き留める。

「詳しい説明はちゃんと話すから……!! もう二度と約束破らないから!! 手伝ってほしいの」
『ふ、一応契約反故の責任は感じているのか。殊勝だな』
「うっさい!!!」

 電話の向こうに怒鳴りつけてしまった。忘れていた、安室が扮する沖矢とは異なり、本当に人の神経を逆なでする男である。そうそう、こんなのだった。こんな風だったら絶対ときめいたりしなかったのに。

『あのな、君。それが人に物を頼む態度か』

 ため息とともに吐かれた言葉に、私はグっと言葉に詰まった。確かに、力を借りようとしているのは私である。赤井ほどの頭脳があれば――きっと、力になってくれる。安室を、元に戻す手はずだってきっとあるはずだ。

 私は下唇を噛んで、震えそうになる声を堪え、彼を呼んだ。「赤井さん」――。

「お願い、わ、私……! 他に、頼れる人がいなくて……」

 なんだか、言っている途中で情けなくなってきて、語尾にいくに連れてどんどんと声が小さく萎んでしまった。この世界に、味方がいないことが、こんなに心細いなんて思わなかった。それは、最初から傍に安室がいてくれたから、今まで感じなかったのだ。懇願する思いで電話を握りしめていると、『ツーツー』と電子音が響く。

「……き、切れた???」

 まさか、切られた――!?
 それとも金額が足りなかったとか。目を白黒とさせて受話器と電話を見比べていたら、声がした。ハスキーで落ち着いた、ちょっぴり癪に障る声だ。


「――了解」


 その声は受話器の向こうからではない。私がバっと振り向くと、澄んだグリーンアイが光った。意思の籠った色は、どこまでも強く美しく輝いていた。


prev Babe! next
Shhh...