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 赤井の広い背中を追って、都内から少し離れた住宅街に向かった。この真っ黒で都会じみた男には、何とも似合わない。周囲は小学校や幼稚園、公園に囲まれていて、そこかしこから幼い笑い声が響いていた。男は目的地の付近に着くと、ポケット灰皿に煙草の先を押し付けた。

「……赤井さんでもポケット灰皿持つんだ」
「歩きタバコは、ここの大家がうるさいんでね……。証拠隠滅だ」

 ふう、と大きなため息とともに、彼はやや小綺麗なアパートへ足を踏み入れた。小綺麗と言っても、とんでもないボロではないというだけで、特段目立つような外装でもない。赤井が住んでいるというには、少しばかりみみっちいとも感じるほどだ。

「それぞれ別名義で、アパート全体を借りている。盗聴の心配はしなくても良い」
「え……じゃあここのアパート、住んでるの赤井さんだけってこと?」
「いや、俺も住んでいるわけじゃない。仮の拠点だよ。合った方が分かり良いだろう」

 私は申し訳程度に置かれたクッションへ腰を下ろし、赤井はダイニングから一脚椅子を引っ張ってきた。ちぐはぐな目の高さを合わせて、赤井は再び煙草を一本取り出す。火を点けながら、「それで」と切り出した。

「あのアドレスに連絡したということは、俺に何か話すことがあるんだろう」
「……あのさ、話をする前に一個だけ聞きたいんだけど。赤井さんは私以外にも、こういう……異世界から来たって言う人に会ったことがあるの?」

 最初から私を拒む気だったような彼の口ぶりに、もしかしたらと思っていた。おずおずと尋ねれば、赤井は足を僅かに広げ、その間に手を組んで乗せた。

「正しくは、スコッチの中にいる奴のことを知っている。――いた、かな」
「小雪のこと、気づいてたんだ」
「コユキ――と言うのか。初めて会ったのは任務の途中だった、随分と上手くなりきっていたが、煙草の吸い方に違和感を持ってね。よく接してみれば、どうにも昼と夜でまるで人格が違う。問い詰めたら案外簡単に漏らしたよ」

 ――こ、こわい。
 そんな訳がない。小雪が、そんな簡単に情報を漏らすわけがない。しかも、原作内のキャラクターに。彼の容赦のなさは身に染みて分かっていたので、恐らく相当上手くやったのだろう。

「安室さんには言わなかったの?」
「――……当時は味方かも疑わしかったし、何より俺に喰ってかかる男だったから。同僚の体に知らん女がいると言って、関係を拗らせるのも得策じゃない」
「そっか……」

 他に何か知っていることはないかと尋ねると、赤井は苛立たしそうに煙草を持った指を打った。灰が、綺麗なフローリングに落ちていく。賃貸じゃないのかな、なんて無駄な心配が脳裏を過ぎった。

「……この世界が、彼女の妄想でできた作り話だというのは本当か」

 それに、私は驚いて顔を上げる。まさかそこまで零していたとは予想外だった。私でさえ、ついこの間、恐らく私を消す前提で聞いたことだったというのに。しかしその表情は曇っていて、どこか納得しきれないような複雑な色を浮かべている。

「アイツが言ったのさ、明美は死ぬ運命が決まっているのだと――肩を叩いて慰められたよ」
「あ……」
「ずいぶんな物語だな。分かっていたのなら何故――そう言ってもしょうがないんだが」

 言われれば、そうだ。松田たちやキュラソーは確認できたが、灰原哀がいるということは、宮野明美は既に死んでいるのだろう。彼女は恐らく、小雪の思う選抜キャラクターから零れ落ちたのだ。
 ただ、それを一概に責めることはできなかった。
 私も、似たようなものだ。誰かが死ぬかもしれないと、その情報だけは朧気にあっても、行動に移すことはできなかった。寧ろ、僅かな人数だけでも命を救おうとした小雪のほうが余程立派な人間ではないか。
 私は何も言えないまま、罪悪感に駆られながら赤井を見つめた。私がその時にこちらの世界に来ていたとして、宮野明美を救えたかと言えばそうでもなかったからだ。

「おい、そう暗くなるな。別に救われなかったことを恨んでいるわけじゃない」

 苛立たし気にそのつま先が、小さく床に貧乏ゆすりをした。反面、思いのほか穏やかな声が私を慰めた。

「明美が死んだのは俺と組織の所為だ。それは俺が生きた証で、明美が最後まで志保を想った決意の結果だ。勘違いしてもらっちゃ困るが、後悔こそすれど恨みはない」
「でも……」

 それでも、ならば何故隠し切れない怒りを、冷たい瞳の中に浮かべるのか。何故、私が助けて欲しいと言った時に応えたのか。どれほど考えても、私の中に浮かぶ答えは一つ。『宮野明美を見捨てた小雪に復讐がしたいのだ』と――、それしか思い浮かばなかった。
 歯切れ悪く言い返そうとしたら、男は長くなった灰ごと灰皿の中に煙草を放った。灰皿から昇る一本の筋は、部屋を煙らせる。


「だが、それは俺の人生だ。俺の痛みであり、俺の傷だ。決して、誰かが書いた物語に定められたわけではないんだよ――例え、真実がそうだとしたって。それを選んだのはいつだって、俺たちだった」
「それで、記憶が変わっても……? 全部彼女の思い通りにできたとしても?」
「じゃあ、お前はどうだ。あの男に救ってもらったことも、選んだことも、すべて操作されていたと分かったら――全てを投げ出すのか。ん?」


 意地悪そうに、切れ長な目が笑った。以前と容姿はさして変わらないように見えたが、その目元は僅かに皺が増えただろうか。目を細めると、それが際立って見える。私は緩く頭を振る。違う――安室を大切だと思ったこと。心配してもらえてむず痒くも嬉しかったこと。初めて家族と呼ばれて、名前を呼ばれて、心の奥から安心して涙を流したこと。全部、私のものだ。私の心だ。

「同じさ。俺が憤っているのは、あの小娘に明美の死を物語の中の仕様だと――そう詰られたままになっていることだ。そういうキャラクターだからしょうがないと、然も当然に言われたことが腹立たしくてしょうがない。最初は、お前もアイツ側の人間だと思っていた」

 赤井は椅子から腰を上げると、私の目前に体を屈めた。目の前に、煙草の匂いが香る。高い鼻筋がよく目立つ。安室とは違う、くっきりと骨が浮かび上がった輪郭だ。ニヤっと、その口元が笑った。

「お前は、アイツに執拗に狙われている。――干渉を受けない人間なのか」
「分かんない……でも、小雪はそう言ってた。私のことは書けないって」
「なら、丁度良い。こんな世界に来たのが運の尽きだな」

 ふっと肩を竦める姿に、私は首を振った。目の前にある虹彩は、ゆらっと日差しに揺らめいた。
「私、この世界のこと嫌いじゃないよ」
 笑いながら言うと、赤井がほぉ、と息を零す。その長い指が私をチョイと手招いた。ときめく――というよりは、歳の離れた友人のような感覚だ。今回ばかりは、その挑発的な笑みが気に入っていた。

「なら、50:50だ……。俺も力を貸そう、そっちも手を貸せ」
「それは良いけど……赤井さんは、何をするつもりなの?」

 小雪への復讐ではないとすると、何をするつもりなのだろうか。彼が姿を晦まし続けていたのは、きっと彼女の物語からの干渉を防ぐためだろうと予想はできる。しかし、私が手を貸せること、と言われると。首を傾ぐと、悪役そのもののようにニヒルに笑って、彼は不敵に告げた。

「この物語を、滅茶苦茶にしてやるのさ」
「……それ、やっぱり復讐だよね」
「意趣返しと言ってくれ」

 味方になれば心強いのだろうが、過去の経験がその不敵な笑顔や冷静さをやけにおどろおどろしく映す。彼が二度と敵に回らないことを、心の隅で願うのみだ。


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